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梅の木のコスカシバ食害を手作業で防止する4段階

 お盆の時期も梅ノ木の見回りはかかせません。2015.8.6の本ブログでもお知らせしましたコスカシバ食害の続報です。これの駆除には4段階あります。第一段階は枝に白い膜状のものがつくことです。

 

 

この白い部分を手袋などでこすり取ってしまいます。図2はこすり取った後の状態です。

 

図3はこれよりも食害が進んだ第二段階です。白い紐状のものが垂れ下がってきます

 

 

この紐状のものをとって中をみますと何か幼虫のようなものが潜んでいます。それが図4です。

 

この白い紐状のものをとらないで放置しますと、次が図5のような赤い丸い粒状のものが幹に付き出します。これが第3段階です。

 

この赤い粒状の卵らしきものは早ければ簡単に手などでとることができます。これを放置しておきますと、最終段階の第四段階になります。その状態が図6です。

 

 こうなりますとコスカシバ食害がかなり枝や幹に侵入していますから、枝を切り落とすか、幹の場合は、縦にコスカシバ侵入箇所を切り取ります。こうならないように、出来るだけ早期の段階で対処せねばなりません。

 ではそもそも図1の状態の前は何でしょうか? それは蜘蛛の巣状のものが梅の木のあたりにつくことです。ただ、これは通常の蜘蛛の巣とおもって見過ごしてしまいます。この4段階を対処するには梅の木1本で一人一時間くらいかかりますから、境内全体の梅の木について防止するには、目立ったところの対処がすんだら、その後で薬剤散布をせざるを得ません。

author:bairinnet, category:鎮守の森, 07:59
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筆供養神事ほかの夏祭り行事の斎行

 永延元年(987)八月五日北野社に一条天皇が勅使を参向され「北野天満天神」の神号が与えられ、北野祭を勅祭とされました。北野祭はその後、八月四日に祭日変更されましたが、無実の罪にて左遷された菅公の名誉が快復されたことをお祝いするとともに、収穫の季節到来を寿ぐ祭典です。当社では、明治の改暦以降は、94日に例祭が斎行されていますが、84日の当社では夏祭り行事が斎行されます。

 筆供養神事は、江戸時代末期から明治初期にかけて当社宮司家梅林院に寺子屋が開設されていた頃からのものと伝えられているもので、 一には筆の労に報い、二には筆道の上達、学業成就を祈願して、筆塚に廃筆を納める神事であります。「筆」と題する菅公の五言律詩の漢詩があります。筆の先はほそやかであってもその働きは決して軽いものではない。それゆえ、痛んでしまった筆はただ焼き捨てるのではなく、筆塚にほおむって筆の活動をとどめてあげよう。願わくは、筆がよい人の手ににぎられて、すばらしい名声をあげてほしい、といった趣旨の漢詩であります。

 図1は、神事のしつらえの様子を示しています。

筆を納める筆塚の左側に筆の形をした石塔が建立されています。この石塔は明治12年に金沢の石工によって作成されていますので、その頃から現在の神事の形が整えられたものと思います。

この神事は途中途絶えていましたが、東京オリンピック開催の翌年の昭和40年に筆正会を主宰する書道家の加藤石州師の働きかけにより復活し、以来、連綿と斎行されてきています。

 

 

 この筆型の石柱を神籬として、天神様にお下りいただき、神事斎行後に、参列の書道をまなぶお子さんや書道愛好家の皆さんの退筆や書道作品を各位の願いとともに筆塚に収めていただき、忌火によりお炊き上げをする神事であります。

 図2は筆塚に納めている様子であります。

 

 

 

 この筆供養神事に続いて、神殿では、小松天満宮奉賛会員祈願祭や小松天満宮持宮地域戦没者慰霊祭が斎行されました。夏祭りの神殿には、古流柏葉会小松支部の方による応用花が奉納されました。

 

author:bairinnet, category:祭典・行事, 02:20
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瑞龍寺の着工年が当社と同じ承応2年と判明

 令和元年7月27日の地元紙に、「瑞龍寺造営 通説の8年後」というスクープ記事が掲載されました。文武両道にすぐれ将来を嘱望されていた加賀藩4代藩主光高卿が31歳の若さで急死された正保2年(1645)に着工との通説を覆して、承応2年(1653)に造営工事が開始されたことを示す新資料の発見を伝える記事でした。

 現在は休止中ですが、平成21年の当社のHPに「小松天満宮の着工年をさぐる」という記事が掲載され、その中で、湿地帯に地盤改良工事をして当社造営に着工したのは承応2年と結論づけた理由を説明しました。当社の創建年は明暦3年2月25日であることは、創建の棟札から明らかですが、当社への奉納物の最初は承応3年です。しかも、承応3年には釣り灯籠はじめ金物ばかりです。そうした奉納物の一つが下記に示す奥村因幡守和豊(加賀八家奥村分家第二代当主奥村庸礼(やすひろ)の初名)により奉納の花瓶の全景と奉納者名等の記載部分です。

 

 

 

 

 着工年解明に際して用いた故事は、越後高田藩主の松平忠輝の生母 茶阿局が南禅寺 金地院崇伝に書を送って、御年22歳の忠輝が御座所より南の方に新城を建設しようとしているが、その吉凶を占ってほしい」との問いに対して、崇伝が方位を占って吉相を得たというものです。このことを紹介している玉置豊次郎著『日本都市成立史』の記述より、崇伝の用いた占法は古来からの方角占である「遊年」と推察されました。これを用いた呪符木簡は7世紀にも出土しており、古くからの占法です。

 これを用いて調べてみますと、1593年生まれの利常公は承応2年(1653)には還暦(61歳)の御年となり、遊年は艮方向(北東)となります。小松城が御座所の利常公にとって、艮方向に社寺を建立することは吉と判断されます。ちなみに、通説であった正保2年、53歳の利常公にとっての遊年は、同じく 艮方向です。今は休止中の当社HPにかわり、今回の新発見文書との関連で、平成21年記事についてお伝えしました。

 

author:bairinnet, category:神社の歴史, 07:04
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白山長吏家墓地を訪ねて

 当社に奉納収蔵されてきた古文書類は、長年にわたり故人となられた国文学研究資料館 棚町知弥氏とその後を継がれた筑波大学 綿抜豊昭氏により調査や目録作りや翻刻が続けられてきています。古文書を書かれた方々のお名前をみながら、お互いの関連や奉納の背景調査やゆかりの古文書やゆかりの地を訪ねることを社務所としては行ってまいりました。

 そうした古文書の一つに、「天神御連歌一代記」(寛政4年(1792)4月、能慮弟常丸写・1冊)があります。能慮とは、天明6年(1786)から文政4年(1821)の間、当社宮司を務めた梅林院五世能慮のことであり、能慮が伝えたことを書き記した『連歌之伝書』(金沢市立図書館蔵)があります。

他方、白山比弯声卅兔第2 「長吏日記」には、白山7社惣長吏 澄令の後を継いで白山7社惣長吏になったのが 澄固であること、澄固は小松梅林院四世由順の子であり、梅林院五世能慮の弟であると記載されている。澄固が継職した年が文政元年(1818)逝去したのは弘化2年(1845) 67歳とありますから、逆算すると常丸が「天神御連歌一代記」を書き記したのは、およそ14歳頃となります。常丸が白山惣長吏家に養子にゆくにはそれなりの理由があるが、本ブログの終わりまでには明らかになるのでお待ちいただきたい。

 幕末までの藩政期、白山本宮(現在の白山比弯声)を統括する長吏は、白山七社惣長吏を兼帯して、代々、「澄」の字を継いで世襲制で勤めていました。

 過日、白山比弯声劼凌誠Δ気鵑飽篤發靴討い燭世い毒鮖劃考家の墓地を訪れてきました。白山7社惣長吏を勤めた方といえば、かなりの数の方々がおられるのですが、文字がよめて現存する墓標は2基だけでした。

図1は長吏家墓地の全景です。

赤線で囲ってある墓石、没年が享保10年(1725)とよめますが、お名前の文字は「澄意」のようによめます。インターネット検索で白山7社惣長吏と検索して出てくる唯一の惣長吏が「澄意」で、この方は、越前藩と加賀藩で争った白山争議に関して、京都朝廷から白山山頂神祠再興の勅許を受けてきたことで、加賀藩五代藩主綱紀卿から褒美等を頂戴した惣長吏です。時は、寛文6年(1666)ですから、没年時のこの方の御年がわからないと、この方であるとは断定できません。

これに対して青線で囲った墓石は、割れてひどい状態ですが、澄盛、天明3年2月22日とよめます。没年月日からも、白山惣長吏 澄盛の墓石であることがわかります。

 

澄盛には3人の子供がいて、長男が次(澄盛を第一代とすると第二代)の惣長吏の澄昌、次男が第三代の惣長吏の澄令、もうひとりが娘さんで、この方が梅林院第四世由順の奥さんになった方です。由順には男の子が二人いて、長男が梅林院第五世の能慮、次男が常丸です。 この常丸が、第三代惣長吏 澄令の養子になり、第四代惣長吏になった澄固であります。ただ、澄固の墓石とわかるようなものは見当たりませんでした。

 明治維新後の神仏分離時の混乱期に長吏家の関係のものはなくなり、この2基の墓石は後年再建されたもののようですが、長吏家の墓地のため、維持管理が難しく、この時期に調査さしていただいてよかったというのが感想です。

author:bairinnet, category:宝物紹介, 16:03
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「令和」ゆかりの梅の和歌1首と5月5日までの御朱印帳への添え書き

 今を去る1290年前、西暦730年、元号で天平2年、太宰府庁の長官 大伴旅人の館で開かれた新春の宴で詠まれた梅の花の和歌32首の序文からとられましたのが、新元号「令和」であります。同じ時代、同じ情景を生きる人々の多様な心が寄り添い、相和す中から文化の華咲く平和な世が育つという意味をもつ元号といえます。この32首の中から一首のお歌を紹介してみます。

 

 梅の花咲きて散りなば櫻花 つぎて咲くべくなりにてあらずや

 

梅の花が咲いてちっていく するとそれについで桜の花が咲きそうになっているではないか、というお歌であります。

 明治時代から平成時代まで約150年強です。この間、明治憲法下でお三方の天皇陛下、新憲法下でお二方の陛下とさせていただきますと、およそ一代で三十年となります。長い短いの違いがありますが、各ご家庭でも当主は約30年で代替わりとなります。

 この和歌の意味するところは、祖父と同じことを父が繰り返し、父と同じことを孫が繰り返すのではなく、各代の当主がそれぞれの個性や資質を活かしてそれぞれの花をつけながら嗣いでいく、そのような時代になってほしいととれます。これは個々のご家庭だけではなく、会社や文化団体などにもあてはまることといえます

  当社では、白梅をふくめて梅は散りましたが、現在、境内に白藤が満開です。 

 

 

当社を訪れられる観光客の皆さんより、白色の藤の花は珍しいといわれます。

また、大伴旅人の頃の梅は白梅でしたから、新元号が令和になることを予想

して植栽したのですかと尋ねられます。この藤の木は随分前に自然発生的に

生え出たものですから、人為的に植栽したものではありません。植栽するなら、

日本舞踊「藤娘」で有名な紫色の花をつける藤の木を選ぶのでないでしょう

か?

令和の由来となった大伴旅人の時代の白梅が散り、それを嗣ぐように同じ白色の藤の花が新元号発布の頃に満開になることは、令和由来の時代に心を寄せる上で意義深いことであります。それゆえ、当社では、改元の5月1日より子どもの日の5月5日の御朱印帳記帳の際に「白藤満開の時」と添え書きをさせてもらっています。

 

       なお、御朱印の対応は当社の授与所にて午前9時から午後3時まで行っていますが、不定期にてお休みすることがあります。

  ご参詣の折にお立ち寄り下さい。

 

 

 

author:bairinnet, category:四季の景色, 20:49
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令和の御代の門出を祝う記念行事の紹介

 

 本日、新たな時代「令和」の門出をお祝いする二つの行事が斎行されました。

  1. 令和元年5月2日午前10時より11時過ぎまで、当社一円にて「新元号記念消防観閲式」が開催されました。

1)小松大橋上にて消防団19団らによる観閲行進

2)吉田姉妹による祝いの民謡

3)式典(当社対岸の梯川左岸歩道上)

4)水難者の救助訓練(当社南側の梯川において)

   ドローンから浮き輪を落とし,その後、ボートで近づいて救助。

 

 

5)当社輪中堤防上にて小松市内全域の消防団らによる一斉放水

 


 

   (正面から撮影したよい写真が5月3日付け北國新聞朝刊25面に掲載されています)

 

2.文化の華咲く小松「新元号を祝う集い」が、小松城ゆかりの芦城公園内の小松市公会堂で、5月2日午後1時半より午後4時過ぎまで開催されました。そのうちのいくつかを紹介いたします。

1)小松能楽会による能「鶴亀」(宝生流)の上演。

 

古代唐土の宮廷で行われた新春の節会に、皇帝への参賀のために集まった人々や皇帝の前にて、長寿の象徴である鶴と亀に舞を舞わせる様子を示しているのが以下の画像です。鶴と亀を舞うのは次代の能楽を担うお若い方です。

 

   (正面から撮影した良い写真が5月3日付け北陸中日新聞朝刊の10面に掲載)

 

2)コマツ HAPPY MELODY 児童合唱団によるわらべうた5曲の発表。小学生から中学生までの児童合唱団ですが、世界中どこでも歌えるようにとアカペラで全曲をうたいあげました。

 

 

3)小松詩吟協会による創作俳句8句と創作漢詩4首の吟詠。

 

 創作漢詩は小松梅林吟社会員による作詩、創作俳句は小松俳文学協会会員による作句です。詩吟では俳句は陽音階で、漢詩は陰音階で詠いますので、最初に創作俳句がその後に創作漢詩の吟詠がなされました。この令和の時代が、陰陽相和して新たなものを創造していく時代となるようにとの願いをこめての吟詠となりました。

 

 

この外にも、剣詩舞や邦楽舞踊や民謡諸団体による祝い唄や舞、太鼓の調べが披露され、納めに参加全員で「故郷」を合唱して、新元号をお祝いいたしました。

author:bairinnet, category:祭典・行事, 19:18
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春祭りの斉行と元号の話

 天皇陛下が皇后陛下とご結婚されてから60年となることを寿ぎ、小松天満宮春季例祭には、古流柏葉会の奉仕により礼華がお飾りされました。孔雀が羽根を広げているのをイメージして黄金こでまりが生けられ、鮮やかな緑色のルスカスを背景に、孔雀の顔をカラーであらわし、アリストロメリアとカスミ草で彩りを添えています。

 

 

小松天満宮十五社会氏子中や崇敬者よりの志納をおかざりし、小松天満宮ならびに十五社会の役員総代参列して、春季例祭の式典が厳かに斉行されました。式典後に、新元号発表を間近に控えて、元号と菅原道真公との係わりについて社頭講話がありました。

神武天皇から平成天皇まで、125代の天皇陛下がおられますが、元号は、大化の改新の大化から平成まで247の元号が制定されています。天皇の代替わり毎に新元号が制定されるのは通常ですが、それ以外に、南北朝時代に南朝および北朝がそれぞれ元号を制定し、また、吉凶との係わりで新元号が制定されてきました。吉凶の最たる例が「辛酉革命説」です。御祭神の菅原道真公の家系は儒学を家学とする学者の家系で、父も祖父も官僚の養成機関の教授職の文章博士を務め、公卿(参議)の位を受任しました。道真公は藤原摂関家の専横を防ぎたい宇多天皇の信頼を得て、国政を預かる右大臣の高位に昇られました。これに対して、道真公と対立する学派の三善清行は,昌泰3年(西暦900年)11月に道真公に引退勧告をしました。来年、昌泰4年が干支で辛酉年にあたり、辛酉革命説(辛酉の歳には天命が改まる、帝王が変わる、という中国後漢時代の鄭玄らの説)にもとづいて、引退を勧告したのです。道真公としては、帝に謀反の心などあろうはずもなく、若き醍醐天皇を補佐してほしいとの宇多上皇の信任に応えるためにも、この引退勧告を拒否されました。辛酉革命説にも与されなかったといえます。これに対して門閥派は、辛酉革命説の具現化をはかったわけです。道真公の娘さんが、宇多天皇の第三皇子の斉世親王に嫁いでいたため、兄にかわって帝位を奪わんとしているとの讒言を信じられた若き天皇により、太宰府に左遷されてしまいました。左遷後の昌泰4年に、三善清行は辛酉の歳には改元すべきと建議して、昌泰から延喜に改元され、これ以来、明治維新まで一部の例外を除いて、辛酉年には改元されるようになりました。このようなわけで、歴代天皇陛下の数よりも多い247の元号が存在します。

改元に際しては、帝の勅令により大臣より文章博士(もんじょはかせ)と式部大輔(しきぶのたゆう)に元号を出させます。文章博士も式部大輔も共に儒学者ですが、先例や中国古典の出典などを調べて

提案するのですが、採用された元号の提案者のことを勘申者(かんじんしゃ)といいます。勘申者として著名な家系は道真公の子孫の菅原家です。道真公の子孫は、幕末までに、高辻、唐橋、五条、東坊城、清岡、桑原の6家がありました。応仁の乱の開始された1467年の元号は応仁です。これから幕末の慶応まで、400年間に51の元号がありますが、このうち、50個の元号の勘申者を務めたのが菅原家の方です。このように元号と道真公には深いかかわりがあることがわかります。

author:bairinnet, category:祭典・行事, 21:07
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当社一円での新元号記念消防観閲式の開催

天皇陛下の御退位および皇太子殿下の御即位に伴い、新たな元号の誕生することを祝し、小松市消防本部、小松市消防団らの参加により、梯川分水路周辺にて「新元号記念消防観閲式」が開催されます。

 

 

観閲式の内容は、

 式典、観閲式(車両行進、分列行進)、消防訓練、一斉放水

となります。梯川分水路の南側天端に消防車が並んでの一斉放水や、梯川での救助訓練などが予定されています。

 本日、その準備の一環で、車両行進が輪中堤上で斉行されました。

 

author:bairinnet, category:地域振興, 18:44
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参道の梅花咲きそろうも、再びサギの子育て始まる

 

 当社の梅花は戦後しばらくは少なくなっていましたが、小松市の誕生から40周年となる昭和55年(1680)に参道沿いや梅園に献木されました。当初、参道沿いを中心に献木された梅の木は、当社の春祭りの斎行される3月25日に満開になるような樹種を選んで植栽されましたので、その後に補植された梅木も同様な樹種になっているため、参道沿いの梅花は春祭り近くに満開になります。今年の梅園の梅花は豪雪の昨年よりも2週間ほど早かったのですが、参道沿いの梅花は例年通り、春祭り近くに満開となってきました。

 

 

 

 昨年初めて子育てに飛来したアオサギ(2018.6.17ブログ参照)ですが、昨日より昨年と同じ二本の高い松の木の上に巣作りを開始しました。下図はそのうちの一本の様子です。巣作りをしている松の木の下には、沢山の枯れ木の小枝が散乱しています。

 

 

これから6月の巣立ちまで三か月間の居候ですが、ふん害のないことを願う日々が始まります。また、例年のことですが、カラスも昨日より巣作りの準備をし出しました。 子育て中のカラスは気性が荒くなりますから、警戒心をもたれないようにしないといけません。巣から離れた参道を歩む参詣者の方々にはちょっかいを出したりしない限り悪さをしませんが、境内での作業者は掃除の際には巣作りをしている高木の根元に近よらざるを得ませんので、要注意の季節のはじまりです。

 

追記: 松の木の上の2箇所でのサギの子育ては令和元年5月3日に、二箇所の内の一箇所が突然の終焉を迎えました。巣の中の卵が2個 地上に落下していることを5月3日の夕方に確認いたしました。その画像が以下の二つですが、その原因は不明です。落下後、サギの子育ては一箇所のみとなりましたが,今年も巣作りが継続しています。

 

 

author:bairinnet, category:鎮守の森, 20:02
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菅公の七夕の漢詩と史記天官書(つづき):北斗型参道の追加説明2

 

 菅公(菅原道真)が、寛平七年(八九五)七月七日の夜、宮中で開かれた詩宴において宇多天皇の命に応えて詠まれた七夕の漢詩(七言絶句)の説明のつづきです。

 七夕 応製 寛平七年895 従三位権中納言 

 

今夜不容乞巧兼   今夜は乞巧(きっこう)を兼ねることを容されず

唯思万歳聖皇占   ただ思へらくは万歳( まんせい )  聖皇の占ひたまはむことを

明朝大史何來奏   明朝 大史(たいし)何をか来り奏するならむ

更有文星映玉簾   更に文星の玉簾に映(は)ゆること有らむこと

 

 転句と結句の説明は先のブログでいたしました。今夜の詩宴は乞巧の儀式ではないというのが起句の意味です。乞巧とは、七夕の日に月に向かって五色の糸を九つの穴をもつ針に通すことができれば、巧(たくみ)の証明を得たと占った儀式のことです(川口久雄校注『菅家文草 菅家後集』より)。

 本ブログは、帝の長寿を星に祈る転句の典拠の説明です。江戸時代の百科辞典である『和漢三才図会』などを発行している東洋文庫では、魁星像の写しをかいせい御札として頒布しています。東洋文庫ミュージアムMAブログ「かいせいくんにおねがい2」(201512月17日)では、この御札の原図となった書物の画像を掲載しています。この書物は、故事の出典用例を記した書物として江戸時代によく利用された『書言故事大全』という書物です。この書物は石川県立図書館でも閲覧できますが、魁星像の上方に三つの星が描かれていて織姫をあらわしています。これは、魁星の誕生日が七夕の日といわれていることから、織姫(三星文)が描かれているといわれます。

 『菅家文草 菅家後集』も引用している『史記』の天官書は、「織女星は天帝の女孫である」と記しています。史記の注釈本である『史記正義』には「織女三星は天の川の北、天紀の東にあり天女なり・・・・占いに、王者神明に至孝ならば、すなわち三星ともにあきらかなり」と記されています。また、旧暦七夕の頃に南の空には、天の川の傍らに南斗六星があり、「三国志」に出てくる魏の国の占い師の管輅(かんろ)の話にあるように、南斗六星は「人間の寿命をつかさどる」といわれます。これらをふまえて、川口久雄校注『菅家文草 菅家後集』では、この承句に「ただひとえに聖天子に万歳の寿がさずけられますようにと星辰に祈って、その星の光に占いをかけるばかりである」と注記している。このように、承句は、帝の長寿をお祈りする内容になっています。

 

author:bairinnet, category:宗教的建造物のシンボリズム, 19:39
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