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当社宝物が大々的に歴博で公開されています:得がたい機会ですのでお出かけ下さい

 これまで数十年間にわたり斎行されてきました当社宝物館公開にお越しいただいてきました多数の崇敬者各位にお知らせします。今年の当社宝物館公開は、金沢市の石川県立歴史博物館に場所を移して、来る11月4日(10月7日は休館)まで開催されています。当社宝物館より大きな展示場所で、また、北野天満宮や公益財団法人前田育徳会や金沢市内の社寺からの出品とも関連づけて当社宝物の意義の理解がすすむように展示されていますので、是非とも会期中にご覧ください。ここでは5点ほど紹介いたします:

 

1)当社創建の源流(展示番号41番、44番)

 

 戦乱の世では一国一家の団結が乱世を生き延びるのに重要になりましたが、それとともに盛んになった文芸に連歌があります。とりわけ、天神様は連歌をお好みになるとの信仰が盛んになり天神様に願意をお届けする際に連歌を添えて祭典をおこなうことが室町時代から幕末にかけておこなわれました。当社初代宮司能順の父 能舜は北野天満宮と徳川将軍家との仲立ちの役割をにない、能舜宛の徳川秀忠書状(写し)が当社に残されています。

     

 

展覧会では、北野天満宮蔵の秀忠書状が展示(展示番号41)されています。

三代利常公の奥方は将軍秀忠の娘さんである珠姫ですが、三男五女をお産みになられた後に、体調を崩されました。そのため、利常公は能舜に祈祷をお願いしましたが、その礼状が当社に残され、展示(展示番号44)されています。また、今回の歴博での展示にあわせて作成されました図録の126頁に、綿抜豊昭氏による詳細な説明文が掲載されていますので是非ご覧ください。

 

これらより、当社創建の源流に徳川家、前田家と北野天満宮との関わりがあり、初代宮司に能舜子息で連歌の名士とうたわれていた能順が招かれた由縁をものがたる展示です。

 

 2) 北野天満宮社殿の四分の一造営(展示番号34番、35番)

 

初代宮司能順が元禄十六年に藩に提出した由緒書ほかの古文書に、当社社殿が北野宮の四分の一にして建造されていると書かれていましたが、その具体的なことは不明でした。

      

 

 

今から30年ほど前の昭和63年(1988)発行の「小松天満宮だより」第4号に宮 誠而氏が一文を寄稿しました。北野天満宮の現社殿は豊臣秀頼造営になるものですが、現社殿をそのまま四分の一にしたのでは、あまりに小さな社殿になってしまうので、現社殿の両楽の間を取り去った後の社殿を四分の一にしたものであるとの推論を発表され、それにもとづき計算した結果、当社社殿が四分の一になっていることが確かめられました。ただ、創建当時、両楽の間を取り去った理由が、恣意的なもので実体に対応したものでないことを利常公らがご存知の上で建造されたのかどうかは不明のまま課題として残されました。

 その後、前 久夫氏による『寺社建築の歴史図典』(2002発行)において北野天満宮の「拝殿の両脇に、さらに楽の間がとりついでいるが、これは元はなく慶長再建時の付加である」ことが明らかにされました。

 今回の展示ではこのことを証する図面が2点北野天満宮より出品されました。展示番号35番「北野・東山遊楽図屏風」には、秀頼により造営の現在の社殿(両楽の間付き)が描かれています。これに対して、展示番号34番「北野社頭図屏風」には両楽の間がなく、これが秀頼造営前の北野社社殿の図であることがわかります。

 

3)当社創建時奉納の「紅梅図額」(展示番号65)

 

 これは、前田長知(孝記)主水により、明暦3年(1657) 当社創建時に奉納された「紅梅図額」です。前田長知は、守山城及び小松城において利常公の傅役(もりやく)を務めた前田長種の孫にあたる方であり、加賀藩4代藩主前田光高卿に仕えた方です。

 

 

当社奉納の絵馬に描かれているのは白梅が多く、紅梅は珍しい図柄です。今回の歴博展示番号15に前田育徳会より元応元年(1319)作「重文 荏柄天神絵巻 上巻」(10月6日まで、10月8日以降は中巻が展示)より菅公左遷時に菅公が京都亭の紅梅に別れをつげる「紅梅別離」の場面が描かれています。 

 当社創建年の明暦3年(1657) が利常公と珠姫の長男で加賀藩四代藩主光高卿の13回忌にあたることと、奉納者が光高卿に仕えた方であったことを考え合わせますと菅公ゆかりの別れの紅梅図奉納によりご冥福を祈られたのかもしれません。

 

4)「北野梅鉢鏡額」のパネル展示(展示番号66)

 

 

 これは小松馬廻組の生駒頼母宗通により奉納したもので、銀色の彩色を施した円形の木版に六枚の鏡を嵌めこみ北野梅鉢の形を表した額です。経年劣化により色がくすんでいますが、奉納当初は金銀の色鮮やかな額であったろうといわれています。創建当初の当社奉納品や建物には、剣梅鉢紋は唯一、神門の金沢城側につけられているのみで、神門の小松城側には軸梅鉢紋と剣がついていません。一国一城制の例外として認められた全国12の城のうち、小松城のみが大坂夏の陣以後に文化の城として改築されています。文化立国の願いをこめての当社創建でしたから、剣のない梅鉢紋は当社創建にはふさわしい奉納といえます。

 『加賀藩史台』によれば、生駒頼母の祖父 吉田直元は織田信長公に仕えて、永禄7年信長公の侍女を娶り、長男直勝を授かりました。直勝7歳の折に信長公の近習となり、生駒直勝と名を改めた。生駒直勝はその後、豊臣秀次、加藤嘉明、織田信雄に仕えた後、加賀藩二代、三代につかえました。直勝は織田信雄の娘を娶り、二人の間に長男直方と次男頼母が生まれた。次男頼母は、加賀藩四代藩主光高卿に仕えて1000石を食んでいたが、光高卿の没後、家を絶ち、長男直方が後を承けたとかかれています。

 

5)天満宮書幅(展示番号99番の参考パネル展示)

 

今回の歴博での展覧会がなければ、見捨てられていた当社宝物です。

これまで当社には、新修小松市史編纂事業等のための各種調査がなされましたが、全く関心のもたれなかった書であります。

 

 

この書は菅原一家秘伝のもので、菅公の代より一人だけ嫡嫡相伝してきたもので、第6代の三日翁日徳により天保4年(1833)に書かれたものです。神仏習合時の資料はほとんどが破却ないし散逸したとされていましたが、数十年前にまかれた紙状で発見され、現宮司により軸装されていたものです。ただ、北野天満宮社務所殿にお尋ねしても不明のため、日の目をみないままでした。

 ところが、今回の歴博展覧会の準備で調査中の学芸員の方により、同一の作者により天保10年(1839)にかかれた書をもとにした「天満宮扁額」が金沢市の泉野菅原神社殿に収蔵されていることが判明したのです。この額は、北野天満宮目代家(春林坊)において81歳の三日翁菅原道日徳が、一週間(十一月五日から十一日まで)修別火浴場潔斎して書いた書を、加賀本藩において定番御馬廻組番頭を勤めていた神戸盛雄が入手し、加賀の名工・武田友月に彫らせて奉納したものであり、立派な額です。

 当社蔵の書は、三週間潔斎して書かれたものであり、より複雑かつ個性的な書となっていますので、是非 見比べてみてください。ちなみに、雨文字や蛇文字や宝珠に加えて、当社蔵の書には、観音信仰ゆかりの長谷寺などの扁額に出てくる鳩文字が書かれているのが特徴です。

 

author:bairinnet, category:宝物紹介, 12:34
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石川県立歴史博物館における展覧会のご案内

 

来る9月14日より11月4日の間、石川県立歴史博物館において、「加賀前田家と北野天満宮展」が開催され、その中で、当社創建の意義や加賀藩三代前田利常公により初代別当に任ぜられた松雲庵(梅林院)能順の人物像を中心に、当社宝物も多数展示されます。展覧会については、歴博のHPをご覧ください:

https://ishikawa-rekihaku.jp/special/special_top.php?cd=2019080201

 

ここでは次の歴博のポスター裏面に丸印をつけてある展示品について紹介します。緑色の丸印で囲まれているのは、菅公800年祭(元禄15年、1702年)に加賀藩5代藩主松平加賀守(前田綱紀)により北野天満宮に奉納された「太刀 銘 恒次」です。作者の備中青江恒次は、後鳥羽院の御番鍛冶の一人です。安徳天皇の後に天皇になられた後鳥羽天皇は、神剣が安徳天皇入水とともに失われたことをいたく悔やまれ、自ら刀剣作りに挑まれ、そのために全国から名工といわれる刀鍛冶を呼び寄せて刀剣を鍛える相鎚方を務めさせました。天皇のおそば近くで奉仕する刀鍛冶には官職を与えられたため、我が国の刀工の地位は高く、世界的にみても大変珍しい存在になったのは、ひとえに後鳥羽院のおかげといわれています。北野天満宮宮司職の松梅院とともに、内陣に加賀守様御寄進のこの太刀を奉納したのが、当社初代宮司松雲庵(梅林院)能順でありました。北野天満宮内陣に入っての奉納は、能順一代限りとして特別に認められてのことでした。

 赤丸印で囲ったのは、前田長知(孝記)主水により、明暦3年(1657)当社創建時に奉納された「紅梅図額」です。前田長知は、守山城及び小松城において利常公の傅役(もりやく)を務めた前田長種の孫にあたる方であり、加賀藩4代藩主前田光高卿に仕えた方です。天満宮に奉納される梅花の絵柄は白梅がほとんどであり、紅梅の絵柄は大変珍しいものです。

 

 前田家による5本の刀剣奉納のうち、最後の刀剣奉納は、昭和2年斎行の菅公1025年祭に当時の前田家16代当主侯爵前田利為様により奉納されたものです。加賀藩三代藩主前田利常公をお祀りする小松神社は昭和1265日に金沢市の尾山神社より宮渡りされました。6月5日の遷座慶賀祭には代理として侯爵令嗣利建様が参列されましたが、その数日後に当社に正式参拝された時のお写真です。利為様は当時、陸軍大学校校長の職にあり、この後の昭和12年8月には第8師団長、昭和17年にボルネオ守備軍司令官に親補されるも、同年9月、57歳にて現地において殉職されました。5代綱紀卿らにより収集のなだたる古書や名品をあつめた「尊経閣文庫」と、その維持管理にあたる「前田育徳会」を設立するなど伝統文化の保存・継承に尽くされた方であります。今回の展覧会には前田育徳会より多数出品されています。

 

 

author:bairinnet, category:宝物紹介, 20:27
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秋祭りの斎行と敬老の日

当社秋季例祭式典及び恒例の漢詩奉納祭が9月4日に斎行されました。昌泰4年(901年)正月25日、従二位右大臣という高い位から左大臣・藤原時平の讒訴(ざんそ)により、太宰員外帥として太宰府に左遷され、2年後の延喜3225日に太宰府の配所でお亡くなりになられた菅原道真公でしたが、その80年後の西暦987年に時の一条天皇により北野社(北野天満宮)において勅祭が行われて名誉快復が進められたことを記念して、当社では毎年9月4日午前に秋季例祭式典が、午後にはわが国の漢詩文大成に貢献された御祭神の遺徳を偲び、小松梅林吟社会員各位らによる第17回目の漢詩奉納祭が斎行されました。奉納漢詩より改元を祝う漢詩と梅林吟社の吟朋をおもう漢詩を読み下し文にて紹介します。

 

祝新生令和   白嶺 中 誠治

  皇子継承し 年紀更(あらたま)る

  国書の抜粋で改元生ず

  衆人歓喜の同意を表し

  永世の安寧と発展の声

 

梅林の吟朋を憶(おも)いて  明鳳 宮前外彌旺

  梅林吟社に為す有るの時

  志は大 情(こころ)は深し 喜び知るべく

  一意専心 詩もて友を会せば

  作詩は多彩にして 興は涯(はて)なし

 

 当社宮司が宮司職を兼務します小松天満宮十五社会の各社では、これから秋季例祭が順次斎行されます。無事に収穫の季節到来を迎えさせていただいた感謝の気持ちをささげる秋祭りですが、9月には敬老の祝日が設定されています。何故、敬老日が9月、それももともとは9月15日に設定されていたかを理解するには竹取物語が参考になります。

 御承知のように、中秋の名月の9月15日(旧暦8月15日)、かぐや姫を迎えに月から使いが来訪します。その折、天人はこれを着たらこの世のことは忘れてしまうという天の羽衣と「不死の薬」をもってきました。かぐや姫を慕う帝に、天にかえるためにお会いできないことを記した文と共にこの「不死の薬」を帝に贈ります。もう会えないことを知った帝は、この国の一番高い山でこの「不死の薬」を燃やすことを命じます。「富士山」の命名といわれています。月は満ち欠けを繰り返すことから、月には不死の力や若返りの力があると信じられ、中国の古い説話には月には不死の木があるとされました。この不死の木はモクセイ科のきれいな花と強い香りを発する霊樹とされていました。令和命名の由来となりました万葉集にも、これにちなむお歌があることから、わが国でも古くから月には若返りの力があると信じられていたようです。それゆえ、中秋の名月の9月15日に定められていた敬老の日は、熟年の先輩各位のこれまでの労苦に感謝すると共に若返っていただいて、若者や若輩者と力をあわせてよりよい郷土作りに助力いただくことを祈念する日といえます。また、秋祭りのご神前では、収穫の季節到来を寿ぎ感謝申し上げると共に、ご祭神の御神徳の若返りを祈念させていただくよい機会となります。

 

 当社秋季大祭のご神前には、古流柏葉会小松支部の方により応用花が供えられました。月にあるとされたモクセイ科の霊樹にちなみ、高い真の枝と中位の流の枝には、白くて香りのある花をつけるモクセイ科のソケイ(素馨)が、低い地(受)の枝にヒバを用い、それに秋の花のオミナエシやコギクや秋の色のユリの花をあわせて気品の中にも華やかさをみせる献花をお供えいただきました。

author:bairinnet, category:祭典・行事, 16:51
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梅の木のコスカシバ食害を手作業で防止する4段階

 お盆の時期も梅ノ木の見回りはかかせません。2015.8.6の本ブログでもお知らせしましたコスカシバ食害の続報です。これの駆除には4段階あります。第一段階は枝に白い膜状のものがつくことです。

 

 

この白い部分を手袋などでこすり取ってしまいます。図2はこすり取った後の状態です。

 

図3はこれよりも食害が進んだ第二段階です。白い紐状のものが垂れ下がってきます

 

 

この紐状のものをとって中をみますと何か幼虫のようなものが潜んでいます。それが図4です。

 

この白い紐状のものをとらないで放置しますと、次が図5のような赤い丸い粒状のものが幹に付き出します。これが第3段階です。

 

この赤い粒状の卵らしきものは早ければ簡単に手などでとることができます。これを放置しておきますと、最終段階の第四段階になります。その状態が図6です。

 

 こうなりますとコスカシバ食害がかなり枝や幹に侵入していますから、枝を切り落とすか、幹の場合は、縦にコスカシバ侵入箇所を切り取ります。こうならないように、出来るだけ早期の段階で対処せねばなりません。

 ではそもそも図1の状態の前は何でしょうか? それは蜘蛛の巣状のものが梅の木のあたりにつくことです。ただ、これは通常の蜘蛛の巣とおもって見過ごしてしまいます。この4段階を対処するには梅の木1本で一人一時間くらいかかりますから、境内全体の梅の木について防止するには、目立ったところの対処がすんだら、その後で薬剤散布をせざるを得ません。

author:bairinnet, category:鎮守の森, 07:59
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筆供養神事ほかの夏祭り行事の斎行

 永延元年(987)八月五日北野社に一条天皇が勅使を参向され「北野天満天神」の神号が与えられ、北野祭を勅祭とされました。北野祭はその後、八月四日に祭日変更されましたが、無実の罪にて左遷された菅公の名誉が快復されたことをお祝いするとともに、収穫の季節到来を寿ぐ祭典です。当社では、明治の改暦以降は、94日に例祭が斎行されていますが、84日の当社では夏祭り行事が斎行されます。

 筆供養神事は、江戸時代末期から明治初期にかけて当社宮司家梅林院に寺子屋が開設されていた頃からのものと伝えられているもので、 一には筆の労に報い、二には筆道の上達、学業成就を祈願して、筆塚に廃筆を納める神事であります。「筆」と題する菅公の五言律詩の漢詩があります。筆の先はほそやかであってもその働きは決して軽いものではない。それゆえ、痛んでしまった筆はただ焼き捨てるのではなく、筆塚にほおむって筆の活動をとどめてあげよう。願わくは、筆がよい人の手ににぎられて、すばらしい名声をあげてほしい、といった趣旨の漢詩であります。

 図1は、神事のしつらえの様子を示しています。

筆を納める筆塚の左側に筆の形をした石塔が建立されています。この石塔は明治12年に金沢の石工によって作成されていますので、その頃から現在の神事の形が整えられたものと思います。

この神事は途中途絶えていましたが、東京オリンピック開催の翌年の昭和40年に筆正会を主宰する書道家の加藤石州師の働きかけにより復活し、以来、連綿と斎行されてきています。

 

 

 この筆型の石柱を神籬として、天神様にお下りいただき、神事斎行後に、参列の書道をまなぶお子さんや書道愛好家の皆さんの退筆や書道作品を各位の願いとともに筆塚に収めていただき、忌火によりお炊き上げをする神事であります。

 図2は筆塚に納めている様子であります。

 

 

 

 この筆供養神事に続いて、神殿では、小松天満宮奉賛会員祈願祭や小松天満宮持宮地域戦没者慰霊祭が斎行されました。夏祭りの神殿には、古流柏葉会小松支部の方による応用花が奉納されました。

 

author:bairinnet, category:祭典・行事, 02:20
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瑞龍寺の着工年が当社と同じ承応2年と判明

 令和元年7月27日の地元紙に、「瑞龍寺造営 通説の8年後」というスクープ記事が掲載されました。文武両道にすぐれ将来を嘱望されていた加賀藩4代藩主光高卿が31歳の若さで急死された正保2年(1645)に着工との通説を覆して、承応2年(1653)に造営工事が開始されたことを示す新資料の発見を伝える記事でした。

 現在は休止中ですが、平成21年の当社のHPに「小松天満宮の着工年をさぐる」という記事が掲載され、その中で、湿地帯に地盤改良工事をして当社造営に着工したのは承応2年と結論づけた理由を説明しました。当社の創建年は明暦3年2月25日であることは、創建の棟札から明らかですが、当社への奉納物の最初は承応3年です。しかも、承応3年には釣り灯籠はじめ金物ばかりです。そうした奉納物の一つが下記に示す奥村因幡守和豊(加賀八家奥村分家第二代当主奥村庸礼(やすひろ)の初名)により奉納の花瓶の全景と奉納者名等の記載部分です。

 

 

 

 

 着工年解明に際して用いた故事は、越後高田藩主の松平忠輝の生母 茶阿局が南禅寺 金地院崇伝に書を送って、御年22歳の忠輝が御座所より南の方に新城を建設しようとしているが、その吉凶を占ってほしい」との問いに対して、崇伝が方位を占って吉相を得たというものです。このことを紹介している玉置豊次郎著『日本都市成立史』の記述より、崇伝の用いた占法は古来からの方角占である「遊年」と推察されました。これを用いた呪符木簡は7世紀にも出土しており、古くからの占法です。

 これを用いて調べてみますと、1593年生まれの利常公は承応2年(1653)には還暦(61歳)の御年となり、遊年は艮方向(北東)となります。小松城が御座所の利常公にとって、艮方向に社寺を建立することは吉と判断されます。ちなみに、通説であった正保2年、53歳の利常公にとっての遊年は、同じく 艮方向です。今は休止中の当社HPにかわり、今回の新発見文書との関連で、平成21年記事についてお伝えしました。

 

author:bairinnet, category:神社の歴史, 07:04
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白山長吏家墓地を訪ねて

 当社に奉納収蔵されてきた古文書類は、長年にわたり故人となられた国文学研究資料館 棚町知弥氏とその後を継がれた筑波大学 綿抜豊昭氏により調査や目録作りや翻刻が続けられてきています。古文書を書かれた方々のお名前をみながら、お互いの関連や奉納の背景調査やゆかりの古文書やゆかりの地を訪ねることを社務所としては行ってまいりました。

 そうした古文書の一つに、「天神御連歌一代記」(寛政4年(1792)4月、能慮弟常丸写・1冊)があります。能慮とは、天明6年(1786)から文政4年(1821)の間、当社宮司を務めた梅林院五世能慮のことであり、能慮が伝えたことを書き記した『連歌之伝書』(金沢市立図書館蔵)があります。

他方、白山比弯声卅兔第2 「長吏日記」には、白山7社惣長吏 澄令の後を継いで白山7社惣長吏になったのが 澄固であること、澄固は小松梅林院四世由順の子であり、梅林院五世能慮の弟であると記載されている。澄固が継職した年が文政元年(1818)逝去したのは弘化2年(1845) 67歳とありますから、逆算すると常丸が「天神御連歌一代記」を書き記したのは、およそ14歳頃となります。常丸が白山惣長吏家に養子にゆくにはそれなりの理由があるが、本ブログの終わりまでには明らかになるのでお待ちいただきたい。

 幕末までの藩政期、白山本宮(現在の白山比弯声)を統括する長吏は、白山七社惣長吏を兼帯して、代々、「澄」の字を継いで世襲制で勤めていました。

 過日、白山比弯声劼凌誠Δ気鵑飽篤發靴討い燭世い毒鮖劃考家の墓地を訪れてきました。白山7社惣長吏を勤めた方といえば、かなりの数の方々がおられるのですが、文字がよめて現存する墓標は2基だけでした。

図1は長吏家墓地の全景です。

赤線で囲ってある墓石、没年が享保10年(1725)とよめますが、お名前の文字は「澄意」のようによめます。インターネット検索で白山7社惣長吏と検索して出てくる唯一の惣長吏が「澄意」で、この方は、越前藩と加賀藩で争った白山争議に関して、京都朝廷から白山山頂神祠再興の勅許を受けてきたことで、加賀藩五代藩主綱紀卿から褒美等を頂戴した惣長吏です。時は、寛文6年(1666)ですから、没年時のこの方の御年がわからないと、この方であるとは断定できません。

これに対して青線で囲った墓石は、割れてひどい状態ですが、澄盛、天明3年2月22日とよめます。没年月日からも、白山惣長吏 澄盛の墓石であることがわかります。

 

澄盛には3人の子供がいて、長男が次(澄盛を第一代とすると第二代)の惣長吏の澄昌、次男が第三代の惣長吏の澄令、もうひとりが娘さんで、この方が梅林院第四世由順の奥さんになった方です。由順には男の子が二人いて、長男が梅林院第五世の能慮、次男が常丸です。 この常丸が、第三代惣長吏 澄令の養子になり、第四代惣長吏になった澄固であります。ただ、澄固の墓石とわかるようなものは見当たりませんでした。

 明治維新後の神仏分離時の混乱期に長吏家の関係のものはなくなり、この2基の墓石は後年再建されたもののようですが、長吏家の墓地のため、維持管理が難しく、この時期に調査さしていただいてよかったというのが感想です。

author:bairinnet, category:宝物紹介, 16:03
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「令和」ゆかりの梅の和歌1首と5月5日までの御朱印帳への添え書き

 今を去る1290年前、西暦730年、元号で天平2年、太宰府庁の長官 大伴旅人の館で開かれた新春の宴で詠まれた梅の花の和歌32首の序文からとられましたのが、新元号「令和」であります。同じ時代、同じ情景を生きる人々の多様な心が寄り添い、相和す中から文化の華咲く平和な世が育つという意味をもつ元号といえます。この32首の中から一首のお歌を紹介してみます。

 

 梅の花咲きて散りなば櫻花 つぎて咲くべくなりにてあらずや

 

梅の花が咲いてちっていく するとそれについで桜の花が咲きそうになっているではないか、というお歌であります。

 明治時代から平成時代まで約150年強です。この間、明治憲法下でお三方の天皇陛下、新憲法下でお二方の陛下とさせていただきますと、およそ一代で三十年となります。長い短いの違いがありますが、各ご家庭でも当主は約30年で代替わりとなります。

 この和歌の意味するところは、祖父と同じことを父が繰り返し、父と同じことを孫が繰り返すのではなく、各代の当主がそれぞれの個性や資質を活かしてそれぞれの花をつけながら嗣いでいく、そのような時代になってほしいととれます。これは個々のご家庭だけではなく、会社や文化団体などにもあてはまることといえます

  当社では、白梅をふくめて梅は散りましたが、現在、境内に白藤が満開です。 

 

 

当社を訪れられる観光客の皆さんより、白色の藤の花は珍しいといわれます。

また、大伴旅人の頃の梅は白梅でしたから、新元号が令和になることを予想

して植栽したのですかと尋ねられます。この藤の木は随分前に自然発生的に

生え出たものですから、人為的に植栽したものではありません。植栽するなら、

日本舞踊「藤娘」で有名な紫色の花をつける藤の木を選ぶのでないでしょう

か?

令和の由来となった大伴旅人の時代の白梅が散り、それを嗣ぐように同じ白色の藤の花が新元号発布の頃に満開になることは、令和由来の時代に心を寄せる上で意義深いことであります。それゆえ、当社では、改元の5月1日より子どもの日の5月5日の御朱印帳記帳の際に「白藤満開の時」と添え書きをさせてもらっています。

 

       なお、御朱印の対応は当社の授与所にて午前9時から午後3時まで行っていますが、不定期にてお休みすることがあります。

  ご参詣の折にお立ち寄り下さい。

 

 

 

author:bairinnet, category:四季の景色, 20:49
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令和の御代の門出を祝う記念行事の紹介

 

 本日、新たな時代「令和」の門出をお祝いする二つの行事が斎行されました。

  1. 令和元年5月2日午前10時より11時過ぎまで、当社一円にて「新元号記念消防観閲式」が開催されました。

1)小松大橋上にて消防団19団らによる観閲行進

2)吉田姉妹による祝いの民謡

3)式典(当社対岸の梯川左岸歩道上)

4)水難者の救助訓練(当社南側の梯川において)

   ドローンから浮き輪を落とし,その後、ボートで近づいて救助。

 

 

5)当社輪中堤防上にて小松市内全域の消防団らによる一斉放水

 


 

   (正面から撮影したよい写真が5月3日付け北國新聞朝刊25面に掲載されています)

 

2.文化の華咲く小松「新元号を祝う集い」が、小松城ゆかりの芦城公園内の小松市公会堂で、5月2日午後1時半より午後4時過ぎまで開催されました。そのうちのいくつかを紹介いたします。

1)小松能楽会による能「鶴亀」(宝生流)の上演。

 

古代唐土の宮廷で行われた新春の節会に、皇帝への参賀のために集まった人々や皇帝の前にて、長寿の象徴である鶴と亀に舞を舞わせる様子を示しているのが以下の画像です。鶴と亀を舞うのは次代の能楽を担うお若い方です。

 

   (正面から撮影した良い写真が5月3日付け北陸中日新聞朝刊の10面に掲載)

 

2)コマツ HAPPY MELODY 児童合唱団によるわらべうた5曲の発表。小学生から中学生までの児童合唱団ですが、世界中どこでも歌えるようにとアカペラで全曲をうたいあげました。

 

 

3)小松詩吟協会による創作俳句8句と創作漢詩4首の吟詠。

 

 創作漢詩は小松梅林吟社会員による作詩、創作俳句は小松俳文学協会会員による作句です。詩吟では俳句は陽音階で、漢詩は陰音階で詠いますので、最初に創作俳句がその後に創作漢詩の吟詠がなされました。この令和の時代が、陰陽相和して新たなものを創造していく時代となるようにとの願いをこめての吟詠となりました。

 

 

この外にも、剣詩舞や邦楽舞踊や民謡諸団体による祝い唄や舞、太鼓の調べが披露され、納めに参加全員で「故郷」を合唱して、新元号をお祝いいたしました。

author:bairinnet, category:祭典・行事, 19:18
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春祭りの斉行と元号の話

 天皇陛下が皇后陛下とご結婚されてから60年となることを寿ぎ、小松天満宮春季例祭には、古流柏葉会の奉仕により礼華がお飾りされました。孔雀が羽根を広げているのをイメージして黄金こでまりが生けられ、鮮やかな緑色のルスカスを背景に、孔雀の顔をカラーであらわし、アリストロメリアとカスミ草で彩りを添えています。

 

 

小松天満宮十五社会氏子中や崇敬者よりの志納をおかざりし、小松天満宮ならびに十五社会の役員総代参列して、春季例祭の式典が厳かに斉行されました。式典後に、新元号発表を間近に控えて、元号と菅原道真公との係わりについて社頭講話がありました。

神武天皇から平成天皇まで、125代の天皇陛下がおられますが、元号は、大化の改新の大化から平成まで247の元号が制定されています。天皇の代替わり毎に新元号が制定されるのは通常ですが、それ以外に、南北朝時代に南朝および北朝がそれぞれ元号を制定し、また、吉凶との係わりで新元号が制定されてきました。吉凶の最たる例が「辛酉革命説」です。御祭神の菅原道真公の家系は儒学を家学とする学者の家系で、父も祖父も官僚の養成機関の教授職の文章博士を務め、公卿(参議)の位を受任しました。道真公は藤原摂関家の専横を防ぎたい宇多天皇の信頼を得て、国政を預かる右大臣の高位に昇られました。これに対して、道真公と対立する学派の三善清行は,昌泰3年(西暦900年)11月に道真公に引退勧告をしました。来年、昌泰4年が干支で辛酉年にあたり、辛酉革命説(辛酉の歳には天命が改まる、帝王が変わる、という中国後漢時代の鄭玄らの説)にもとづいて、引退を勧告したのです。道真公としては、帝に謀反の心などあろうはずもなく、若き醍醐天皇を補佐してほしいとの宇多上皇の信任に応えるためにも、この引退勧告を拒否されました。辛酉革命説にも与されなかったといえます。これに対して門閥派は、辛酉革命説の具現化をはかったわけです。道真公の娘さんが、宇多天皇の第三皇子の斉世親王に嫁いでいたため、兄にかわって帝位を奪わんとしているとの讒言を信じられた若き天皇により、太宰府に左遷されてしまいました。左遷後の昌泰4年に、三善清行は辛酉の歳には改元すべきと建議して、昌泰から延喜に改元され、これ以来、明治維新まで一部の例外を除いて、辛酉年には改元されるようになりました。このようなわけで、歴代天皇陛下の数よりも多い247の元号が存在します。

改元に際しては、帝の勅令により大臣より文章博士(もんじょはかせ)と式部大輔(しきぶのたゆう)に元号を出させます。文章博士も式部大輔も共に儒学者ですが、先例や中国古典の出典などを調べて

提案するのですが、採用された元号の提案者のことを勘申者(かんじんしゃ)といいます。勘申者として著名な家系は道真公の子孫の菅原家です。道真公の子孫は、幕末までに、高辻、唐橋、五条、東坊城、清岡、桑原の6家がありました。応仁の乱の開始された1467年の元号は応仁です。これから幕末の慶応まで、400年間に51の元号がありますが、このうち、50個の元号の勘申者を務めたのが菅原家の方です。このように元号と道真公には深いかかわりがあることがわかります。

author:bairinnet, category:祭典・行事, 21:07
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