31文字ですが、定型の57577ではなく 75577でよまれています。加賀国を「よろこび(賀)を加うる国」と表現しています。当時の人々は加賀国をそのようにとらえていたのですが、よい表現です。
本折において当時からすでに絹織りがおこなわれていたことを知るよい短歌ですが、ここでいわれた「もとおり」について小野寺松雲堂著『むかしの小松』第4巻「本折町の起源」において、道興が絹機を見た「もとおり」は、現今の龍助町であったろうと考えられるとし、その証に冨田景周著『故墟考』(寛政13年写、1801)の記述をあげています。本書は越中、能登、加賀の古城を記述したもので、本折城の項にて「語り伝えられることによれば、小松町 昔は梯の方を小松と云い、上口(あがりくち)三日市の方を本折と呼びしと也、」と記しています。この「上口」について、綿抜豊昭氏より「町の上手の端、京都側という意味かもしれません」との教示をいただきました。
次の図は、綿抜豊昭氏所蔵の「小松城絵図」の橋南地区を主体に示したものです。図の九龍橋のかけられた川(九龍橋川)から南側を橋南と呼ばれました。猫橋川に沿った道が「上使道」とかかれています。これは幕府領であった白山麓を数年おきに巡検にきた使者の通り道を示しています。巡検使は町の上手の端から小松町に入っていますし、三日市の方を本折と呼んだと景周は書き残しています。
さらに『むかしの小松』には、「現在の本折町は文化5年に餅能美屋、煎餅屋の草分け町屋が建ち始め、それから文政年間にかけて町屋建ち並び出町と名付けられた」と書かれています。上図には「出町 本折と云」と書かれていますので、この記述に符合します。上図には、大手門を出た小馬出町に小松城勤務の藩士の子弟の学問所「修道館」(安政元年1854から安政5年1858の間に創立)がかかれていませんので、この図は文政(1818-21)以降、安政以前にかかれたものです。
小野寺松雲堂は、道興准后の短歌にある「もとおり」とは「現今の龍助町であったろうと考えられる」と書いていますが、龍助町についても興味ある逸話を紹介しています。橋南中央部が享保7年から天保4年迄、107年間に大火災相次いで襲い、困窮難渋した事が4回あったとして,その度ごとに願い状を提出して金沢本藩へ御救助御貸米の貸与(返済は銀で10ケ年賦)をうけた詳細が記されています。
4回目の天保4年4月12日の火災は、橋南全部を焼失した大火災となりました。天保4年に1500石の御救助米貸与をうけたが、天保5年に再度500石の御救助米と銀100貫目を絹機屋へ御貸付許可がありました。天保4年の御貸与の際には「小松は城下町であるから龍助町は、二階家を揃えて建てるべし」との添え状があり、それで龍助町の町並は立派であった、と小野寺翁は記しています。
現在、橋南地区の龍助町・西町では、「北國街道まちづくり協定」を守り、良好な景観形成を図ると共に、にぎわい街づくりに人々が努力していますが、歴史が現代に息づいていることを実感します。その協定を説明した資料はインターネットでも見られますが、下図はその表紙の画像です。
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明治24年刊行の小野寺松雲堂著『むかしの小松』(本書と略)には、小松の町の由来や出来事を書き記した多くの興味深い記事がしるされていますが、そうした逸話の一つに、海岸に近い小松の防備力増強のために、町民より強壮な青年を選び、苗字・帯刀をゆるした「新兵組」なる組織を文久元年に編成した、があります。長らく単なる言い伝えとして玄人筋には本気にされることはなかったのですが、当社ブログR5.5.3号に「新兵組存在を証する文書発見」で説明しましたように、裏付け資料が発見され、爾来、社務所でも改めて折々に本書の逸話探訪を開始しました。本ブログではその成果の一つを紹介します。
本ブログの前号R6.3.9号では、小松の町衆が藩の許可を得て寛政6年(1794)に設立した「集義堂(小松習学所)を紹介しました。小松にはもう一つの学校、小松城勤務の藩士の子弟を対象にした藩校「修道館」が安政年間に設立されました。その場所は、嘉永6年(1853)作成の当社蔵の小松城下絵図に御馬出町(現在の小馬出町)の空地(赤丸印)に建てられました。小松城の三の丸から大手門を出て南につづく街路沿いの町が御馬出町です。R4年に金沢市立玉川図書館が入手した小松城下の詳細な絵図(安政6年1859から万延元年18601の間に制作)にはこの場所に「修道館」と明記されています。
さて本書に戻って、幕末小松の一大産業は和釘生産であり、橋北(九龍橋より北側)では新鍛治町、細工町、材木町が、橋南では、本鍛冶町、塗師屋町(現在の上寺町)、寺町、大文字町が、釘切り職工の集団町であったことが記されています。これについては昨年公刊の『新修小松市史資料編 通史編近世』において詳述されています。和釘の画像は次をご覧ください。
本書の横町のところに「釘騒動の顛末」が紹介されています。明治6,7年頃より洋釘が我が国に入り出し、和釘売れ行きが減少して、和釘仕入れをやめて洋釘に転換する釘問屋が増えてきました。釘問屋の大手であった金益に釘職人が押し寄せて「洋釘の商売を釘切職人に渡せなど」と騒動になった。金益の当主久右エ門は、押し寄せた釘職人に「かかる生活不安定の難渋となったも、時代が然らしめたで誰のわざでもない、皆様の激論されるのも当然の事である、他の業へ転換するに困難な方は、その人の買い入れ釘を無代で差し上げます・・・苦しさは問屋も職人もともどもであるから、もっと深く考えられて転換第一に、生活の途を開こうではないかと」と説得したのでした。その後、明治18年には釘切り職は完全になくなってしまいました。
ところで、下図は当社ブログ2024.3.9号で紹介した『江戸の小松絵図』の一部(上が北方向)を示しています。これに収録された小松町割図は町屋の登記簿から作成されているので年代が異なっています。『江戸の小松絵図』所収の山本佐一論文「小松の町屋」は町並みに説明を加えています。ここにのせた絵図には「中町(材木町)」とあり、これは中町から材木町が独立する前の天保4年(1833)頃の町並みを示しています。松任町と細工町の交差点から西側、中町までの通りが通称「横町」といわれますが、ここに赤色で囲んだ釘問屋を営んでいた屋号「福益屋」があります。これが後の金益久右エ門の商家のあったところです。
これからがあまり知られていない逸話で、本書の「小馬出町」の項にかかれています。金益久右エ門は明治17年に「修道館」跡地700坪を買収して、明治19年に製糸工場建築を起工し、翌明治20年5月に完成させます。創業当初は繭を長浜より買い入れていましたが、赤字になるので、県知事・能美郡長に請願してえた補助金に私費も投下して自前の桑畑造成に尽力しました。繭の自給はなったが、小松産の製糸の値段は繭一升で12匁、他県の製糸は繭一升で14匁と小松産の製糸の売値価格が低いことの原因が水質の悪さにあることが判明して、明治30年に金益の製糸工場は廃業に追い込まれてしまいました。小松においてジャカード機による紋織物がはじめて製織される5年前のことでした。
「製糸業は原料である繭が直接水に触れ、しかも用水中のアルカリ度および硬度の質的内容が、製品である生糸の品質と密接な関係をもつ特殊な水質が要求される―用水型産業である。明治以降、近代製糸の発祥地として栄えた岡谷地方や群馬など、いずれも良質且つ豊富な水資源をもつ地域であったことを忘れてはならない」と、農林水産省蚕糸試験場の宮内 潔(1983) 論文もまとめています。水質管理技術の皆無であった明治時代に新時代の物づくりに奮闘した金益翁の業績は、小松の歴史の一コマとして是非とも記憶にとどめたいものです。最後に、現在のわが国で生産される絹製品の99%は輸入生糸を使用して日本で加工されたものですが、原料となる繭の生産から製品になるまでの全ての工程を国内で行う「純国産」シルクである富岡シルクから購入した繭玉の画像です。この画像をみて金益翁の事績を偲んでいただければ幸いです。
ちなみに、金益久右エ門創業の製糸工場閉鎖後に「修道館」跡地に建設されたのが小松警察署であり、小松警察署が移転した跡にその建物をリノベーションして使用されているのが現在の「空とこどもの絵本館」です。
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ブログR5.2.1 「加賀百万石の城下町は金沢と小松」で紹介しましたように、城下町の役割には4つあります:1)城と城下町の防衛を考慮した街づくりになっていること、B) 町奉行所などの行政機能が働いていること、C) 町の発展を基礎づける商業機能を考慮した街づくりになっていること、4)公的支援をうけた教育活動が存続していること。本ブログではこのうち4)について紹介してみます。
加賀藩(金沢藩)が文科を教授する藩校「明倫堂」と武芸を教授する「経武館」を金沢に設立したのは寛政4年(1792)のこと。その2年後の寛政6年に小松のお医者さんらが中心になって、藩の許可を得て設立したのが「集義堂」です。その翌年の寛政7年には小松御馬廻組御番頭の牧 昌左衛門は加賀藩の年寄にあて「藩校創設以来、小松御馬廻の間でも学問が流行しているため、小松の集義堂に、藩校の講師の中からか、或いは小松の町医者のうち、相応しい者に講師をさせるか、詮議してほしい」旨の手紙を出しています(『新修小松市史資料編 教育』より)。藩校よりの講師派遣願いは後年になって実現することになります。それゆえ、この集義堂には町衆だけでなく藩士(の子弟)も学んだ学問所でした。
ちなみに、牧 昌左衛門は寛政3年(1791)6月から享和3年(1803)9月まで小松城に在職しますが、最後の年となる享和3年季春(陰暦3月)初旬に、当社に「浅井畷合戦」を画いた大額を奉納しています。
さて、この集義堂は京町に建てられましたが、その場所を明記した図面が、郷土史研究者の大西勉氏が編集責任者になって刊行した『江戸の小松絵図』に所収されています。この本には小松城下町の町並みを画いた3枚の絵図が含まれていますが、最初の絵図は、東は新鍛治町から、西は鷹匠町あたりまで、北は城内と城外を区画する三ノ丸橋あたりの殿町から、南は九龍川までを画いています(図1)。 その次の図2は、京町通りの集義堂(小松習学所)の立地場所を示しています。
図2の京町通りの東側の一角(赤色で囲んだ箇所)に、「寛政8年 習学所に買入」と記入されています。寛政6年の開学の2年後ですから、その間は間借りしていたのかもしれません。集義堂の設立場所が京町であったことがわかります。
明治5年(1873)8月の太政官布告により、全国あまねく学校設立をおこなうこととなり、集義堂(小松習学所)は「芦城小学校」と改称されることとなりました。ちなみに、「芦城」は小松城の通称名であります。芦城小学校は明治35年に現在地の西町に校舎改築移転しますが、移転に際して、「西町小学校」と改称してもよかったかもしれませんが、そうしなかったことは「集義堂」の歴史と「芦城」の名前にほこりをもっていたことを物語っています。現在はともすれば小学校区単位で競い合うことがあたりまえになっていますが、こうした歴史的経緯を大切にすることが連帯する心を養う上で大切なことと思います。
追: 「集義」という名前を課した藩校にはネット検索では大村藩の藩校「集義館」が出てきますが、珍しい名前です。「集義」とは、『孟子』 公孫丑章句上にでてくる孟子と門人の公孫丑との問答の中に出てくる言葉です。人間は多くの決断・意思決定の機会に遭遇します。そうすることがよいか悪いかの善悪の判断にせまられることが多々あります。そうした判断の際には、「理性による判断(論理的な判断力)」と「内的な、善の、直感による判断」を併用することが大切であり、この後者の直観による判断をささえているものを孟子は「浩然の気」とよびます。門人の公孫丑が「浩然の気」とは何ですか?と質問します。これに対して、孟子は、「人間の行いが義にかなわず、心を満足させないと浩然の気は消えて行ってしまう。浩然の気とは、義をおこなったのが積み重なって(集義)発生したものです」と回答しました。諸分野における不祥事を見聞きするにつけ、この言葉を選び伝えた郷土の先輩方々の慧眼に感心すると共に現代の私共にとっても大事な概念と思います。
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最初は、東参道沿いの白梅の咲き出しの情景です。まもなく元日の能登半島沖地震で倒壊した多数の燈籠の整理が開始されますが、その際、参道に近接して立つ高い燈籠は、地震再発の際の参道通行安全を確保するために、柱部より上方の火袋や笠の部分はとりはずされますので、この写真に写り込んでいる高い燈籠は見納めとなります。
次は梅園における濃い紅色(緋色)と淡紅色の紅梅咲きそろいの情景です。
最後は、社殿前の白梅です。神門から社殿にいたる参道沿いの白梅は、例年ですと、紅梅の花の開花が済んだ後、3月25日の春季祭典の頃に満開になるのですが、今年はすでに咲き始めています。
次の画像は、3月2日の雪模様の朝にとられた本ブログの最初の写真あたりの白梅の写真です。2月20日から12日後で開花がかなり進んでいますが、寒い日がつづいていますので、花のもちはよいようです。
雛祭りの3月3日の早朝5時には前夜の小雪も止み、下弦近くの月が南天に輝き、白梅との共演をしばしの間 鑑賞できました。
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今のところ梅園は紅梅がおおいですが、すでに境内の梅はかなり咲き始めています。
能登半島地震で被災した石造物の多くはいまだ整理されていませんが、それでも梅花が境内で咲き始めています。
この境内の梅花をごらんになりながらの参詣の後に、輪中堤に上がっていただきますと、昨年末から実施されています梯川の浚渫作業をご覧いただけます。2年前の8月3日夜から4日夕方にかけて累計399mmという豪雨により、梯川の水位も観測史上第一位の水位であります5.9mを記録し、梯川の上流域において大水害がおきてしまいました。その時の当社と周辺の梯川の状況は、2022.8.9付けの当社ブログをご覧下さい。
洪水時にたまった土砂を取り除いて河道の流下能力を維持するために、川の浚渫作業が天満宮輪中堤近くで実施されています。
図2は、台船上の油圧ショベルで川底にたまった砂利をすくい上げて、土運船に積み込む作業風景です。
次の図3は、砂利で一杯になった土運船を押船によって陸上の仮設桟橋に運ぶ模様を示しています。
次の図4は、陸上の仮設桟橋に土運船をつけて、押船で押さえつけながら、浚渫砂利をトラックに積み込んいる模様を示しています。
次の図5は、ダンプに積まれた浚渫土砂を泥倉に一時保管する模様を示しています。
泥倉にたまった川砂は水抜きのために暫し止めおかれます。その後、河川敷外の保管場所にダンプによって運ばれていく光景を示しているのが図6です。
現在は、この全ての工程をご覧いただけます。
梯川には春5月にはボラが遡上してきますから、川の水には塩気が含まれています。このことを前提にして、ここで採取された川砂がどのような過程で利用されていくのかを調べるのは、地元の小学校高学年より大きいお子さんの自由研究課題として面白いと思いますので、是非挑戦してみてください。ただ、今回のような浚渫工事はたまにしかないことですから、年中浚渫工事の行われている手取川付近の土砂採取業者さんに渡されるのかも含めて調べていただければ、梯川がより身近に感じられるのではないでしょうか?
最後に一点付け加えます。現在梯川で実施されています浚渫工事は、石田橋から小松大橋までの間の、主として、梯川左岸域で実施されていて、右岸域では実施されていません。この区間には葭原が残されていて初夏にはオオヨシキリなどの鳥類の生息域になっていた(数年前の豪雨時以来、葦原が減少してオオヨシキリもここ数年姿をあらわさないことが残念です))ために、この右岸域での工事を控えていただいているためと思います。
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当社では警備会社さんの助言をうけて、初詣三が日間は参道の真ん中にカラーコーンをおいて一方通行(右側通行)にしていました。皆さんが避難した後に、当社では神社の入り口を閉鎖して参拝停止にしましたが、その折の参道沿いの燈籠の倒壊状況を示したのが、以下の2枚の図です。
図1は、神門から社殿にお参りする方向の写真です。燈籠はすべて進行方向に向かって右側(北側)に倒れています。この時、カラーコーンの右側には、参拝をお待ちになって並んでおられた沢山の方々が参道上にうずくまっておられましたが、幸いにも燈籠が反対側に倒れたために、うずくまっておられた方々は無事だったことがわかります。
図2は、参拝を終えての帰り道の燈籠の倒壊状況です。これも北側に倒れていますが、いくつかは参道にかかって倒れています。行きの行列にくらべて、帰りはそれほど多くはなかったようですが、それでも、危うい目にあわれた方々より、燈籠が参道にちかすぎるとのお話をいただいたようです。
今回の震源は小松から北方向にある能登地方ですし、大きな揺れはすくなくとも2回以上はありましたので、震源域の北側に強くひっぱられて、燈籠が北側に倒れたのかもしれませんが、予断は出来ません。
地震時に参詣者の方々が参道上にしゃがんでおられたことと、これからの燈籠の倒壊がどちらにゆくかわかりません。これをふまえて、以下のようにさせていただきます。
一例として図3をご覧ください。手前の燈籠は柱より上が落下していますので、参道をはさんで反対側の高い燈籠も手前の高さと同じように上部(赤枠内)を解体撤去します。
なお、小松市指定文化財の十五重石塔は小松城の水口の正確に真北に建てられていて、利常公所持と推定される我が国最古の庭づくり指南書「作庭記」ともゆかりの石造物です。かたや、前回平成19年の能登地震の際にも被災して解体・再建していること、原石の坪野石が入手困難になっていることも考慮して、地震の動向や工法など、別途、小松市とも相談して、再建の方向で対処する所存です。
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図1は、鳥居の天端にある二個の笠石に四本の新しい「かすがい」を打ち込んで、セメントで養生する作業中の画像です。図2の赤丸印は予防修理完成した状態です。
次は、一の鳥居と二の鳥居の中間にある燈籠の柱部分のズレの修理作業中の画像です。まず、鳥居を解体して、クッション用にセメントをひいた上に解体した部材の一つを載せてから水平になることを確認してから、同様の作業を行って、最後に、笠と玉をのせて元通りにする、という具合に、燈籠の組直し作業もかなり手のこんだ作業になります。
図3は、修理中の画像、図4は修理完了後の画像です。
以上の作業を経て、本日より鳥居を通過しての参道通行が可能になりました。図5は作業完了後の鳥居前風景です。なお、当社の鳥居は二基とも、瀬戸内海の北木島産の北木石です。古くは秀吉による大坂城築城の際の石垣に使用され、日本銀行本館や靖国神社の大鳥居にも使用されています。
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第二に、参道の安全通行を確保するために、被害をうけた燈籠の倒潰・落下物を参道より出来るだけ離して整頓いたしました。これらの倒壊燈籠はこの後、境内にて保管します。半壊の燈籠は安全な形状になりましたので、震災遺構として出来るだけ現状のまま保存いたします。
地震後に鳥居を通過する参道部分を閉鎖していますので、その理由を説明いたします。図3をご覧下さい。図中の記号Aは第一鳥居を、記号Bは第二鳥居を、記号Cは二つの鳥居の間の燈籠を示しています。
このうち、第二鳥居は河川改修時に移築した鳥居ですが、被害はありません。第一鳥居は、昭和十年の奉納以来89年ほど経過しています。この第一鳥居の一番上にある二つの笠石部分の接合部(図4の赤丸印内)に隙間があるようにみえますので、本日早朝、石屋さんに上ってみてもらいました。その結果が図5です。
確かに二つの笠石の接合部に若干の隙間があり、二つの笠石をつなぐ金具が古くなっていて、金具の覆いもはがれてきています。このうち、若干の隙間は今回の地震によるものではなく、戦後まもなくの福井大地震などかなり前のもので、安全性には問題ないとのことです。さらなる余震発生に備えて、古い金具は新調の金具で取り換え、金具の覆いも新たにすることにいたしました。また、第一鳥居と第二鳥居の中間にある燈籠(図3の記号C) の柱部分が、図6の赤丸印のようにズレています。
能登地方だけでなく、金沢市と小松市において石造物の被害が多く生じていて、石屋さんは多忙をきわめていますので、出来るだけ早期の補修をお願いすることしかできません。
どうか、修理が完了するまでの間、二つの鳥居を通過する参道利用はお控えの上、図7の緑線印のように、鳥居の左側の空地を通行して、参道に出ていただくようにお願いいたします。歩行経路付近には排水桝がありますので、足下に注意して通行ください。
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令和六年元日夕刻に発生の能登半島地震により、参道沿いの古い燈籠や十五重石塔(小松市指定文化財)に被害が発生しました。
図1は十五重塔の上部三層と宝珠の落下した姿ですが、それ以下の層にも被害が認められます。また、参道沿いの燈籠にも多数倒壊が発生しました。
これをうけ、地震後の元日は参詣中止とし、二日、三日は、通常の参拝経路を変更して、参詣していただきました。
緊急策として、参道上の残存物を除去し、被害をうけた石造物に注意喚起の掲示を行って通常の参拝経路を通行可能といたしました。
今後も余震発生の起こりうることを考慮して、被害をうけた石造物の解体保管を行うこととし、その第一陣として、小松市指定文化財「十五重の石塔」の解体を来週中に実施いたします。図2は、足場組立後の画像です。
参道通行は可能ですが、お参りの際には石造物には近づかないようにお願いいたします。また、鳥居には被害がないと思われますが、細部の点検が済んでいないため、鳥居の左側の空地を通り抜けて進行ください。
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初詣対応(その1) 初詣の参詣・祈願対応について
令和6年の、初詣について当社は以下の対応をとらせていただきます。
初詣対応(その2):初詣期間中の開閉所時間について
<御祈祷・本殿>
大晦日 0時〜1時半
1月1日 8時〜18時
1月2日 8時半 〜18時
1月3日 8時半 〜17時
<授与所・お守り、お札の授与>
1月1日 0時〜 2時
6時〜 18時
1月2日 8時半〜18時
1月3日 8時半〜17時
初詣対応(その3)初詣臨時駐車場のご案内
初詣期間中は梯川分水路にかかる天満橋からの車両通行は出来ませんので、徒歩にてお参りください。また、下記のように、臨時駐車場3ヶ所(P1,P2、P3)を準備いたしましたが、駐車可能台数が限られていますので、極力、徒歩にてお参り頂きますようにお願いいたします。3ヶ所の臨時駐車場は大晦日から正月3日までご利用いただけます。警備員が誘導する際には、その案内によりご参詣ください。
臨時駐車場概略図
(上が南の方角(小松大橋から小松駅方向)として表示)
以下に各臨時駐車場の現況画像を示しますので参考にしてください。
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樹勢調査は、11の観察項目について、良好から不良までを目視により5段階評価しています。図1は、鳥居近くの黒松と対照木の黒松について評価結果を示しています。
平成23年はセメント改良工事が開始された年ですが、樹勢の評価項目はすべて良好を示しています。平成26年では、多くの評価項目で樹勢が大きく悪化しています。これは前年の平成25年の7月と9月に大雨がふり、特に7月の降雨では埴田観測所において観測史上最高の水位を記録する洪水となりました。そのため、平成25年の地下水位は7月から12月にかけて増加しました。井戸西付近の地盤高は2m34?ですが、12月には大木の根茎に悪影響を与えうる2m近くまで上昇いたしました。これをうけて翌年の樹勢は大きく悪化したものと推定されます。
平成29年には輪中堤工事が完成して、分水路に通水が開始されました。その後、境内の地下水位が急上昇するようなことは起きていませんでしたが、2020年6月12日付のブログで報告しましたように、輪中堤完成後まもなくの平成29年12月17日に、国指定重文の神門近くの赤松の大木が突然倒壊しました(図2)
幸い、神門や手水舎への影響はありませんでしたが、松枝樹木医殿の調査により、平成25年7月の豪雨による工事中の境内の地下水位上昇が長期間持続した時の過湿による衰弱時に、紫紋羽病の菌が侵入・進展し、根茎の破壊が拡大したことによると診断されました。
昨年令和4年8月4日には、観測史上最高の降雨量により当社参道も午前から午後にかけて冠水する事態となりましたが、排水施設整備により平成25年のような地下水位上昇の持続は生じませんでした。
図1の樹勢(樹木の衰退度)評価図では、本格的な工事着工前の平成23年では、11の評価項目がほぼ真円に近い状態(樹勢健全)になっています。ところが、工事終了5年後の令和4年においても回復は真円からはほど遠い状態です。
以上の経緯を踏まえて、昨年までの奉賛会(当社の崇敬者組織)総会では、樹勢回復が遅れていることの原因解明のためにも、樹勢調査の内容がより理解しやすいように、樹勢調査の「見える化」の要望が出されていました。
樹勢調査で実施している衰退度判定は、11の測定項目を目視調査により定性的に調査・判定するものです。金沢河川国道事務所では、衰退度判定を定量的に「見える化」することを目的に令和元年度より、地上レーザースキャナーによる樹勢調査の可能性を探ってきましたが、昨年度の樹勢調査より本格的に使用されました。そこで、社務所では、10月30日に実施された今年の樹勢調査に立ち会わせていただいて、調査手順を見学いたしました。
図3をご覧ください。
本図は南を上にした図です。緑円1は鳥居脇のモニタリング松1、緑円2はモニタリング松2、緑円3はモニタリング松3です。ここでは手水舎の北側にあるモニタリング松3(緑円3)の樹勢調査をレーザースキャナーで実施する手順をみてみます。図4はモニタリング松3の、図5は、ここで使用する地上レーザースキャナー(商品名:FARO社製)の画像です。
まず、調査対象木(緑円3)の周囲で約20m間隔に器械を設置して、地上レーザー観測を行います。図3の5つの赤色四角形は、レーザースキャナーの設置場所(器械点)を示しています。図6は、器械点4においたFARO(青〇印)と、その周囲におかれた標定点(赤〇印で表示)を示しています。
ここでは「スフィア」型の標定点を用いていますが、レーザースキャナーで撮影した画像の水平位置と標高、方向を与えるための基準となる点のことです。高さデータはレーザースキャナーが測定します。図3に示すように、今回は、モニタリング松3について、5つの器械点で撮影した点群データが得られます。次に、標定点の座標を介して、複数地点の計測データを合成して、モニタリング松ごとの三次元点群を取得しました。これら複数の点群データを重ね合わせて合成した三次元点群データ例が図7です。
図7の合成点群データは測定木のではありませんが、昨年の調査で得られた測定木(モニタリング松3)の合成点群データより不要な点(他の樹木や建物等の地物など)を除去(データスクリーニング)して得られたのが、図8です。
レーザースキャナーによる調査対象木の測定は、図1の11個の衰退度判定項目のうち、1)樹勢、2)樹形、3)枝の伸長量、4)枝葉の密度、5)葉の大きさ、の「見える化」が目的です。このうち、3)、4)、5)は「点群データの点数」で測定することとし、図8では 258.7万点となりました。3)枝の伸長量については、「幹から枝先までの長さ(m)」で測定することとし、昨年度は「4.2m」でした。2)樹形、3)枝の伸長量、5)葉の大きさ、については、「樹幹の面積(平方メートル)」で測定することとし、昨年度は 「82平方メートル」でした。
また、図8が示すように、モニタリング松3は、国指定重文の「神門」の方角(東側)に傾いています。これが、図2のように倒木すると大事になりますので、衰退度判定項目外の項目「樹木の傾き」で測定することとし、点群データからの昨年度の計測では「18度」でした。
以上の測定結果が、初期値になりますので、今年度の測定結果との比較が重要になります。図1の衰退度判定チャートの他の項目(樹皮の傷、大枝・幹の欠損、下枝の先端の枯損、梢や上枝の先端の枯損)の「見える化」は、高解像度カメラでの撮影により実施されましたが、その結果は検討中です。
以上
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今年の小松天満宮宝物館公開は10月6日(金)から10月7日(土)は午前9時半から午後4時まで、10月8日は午前9時半から午後1時まで、「百万石刀剣文化の始りと掉尾を飾る2刀の展示」と題して実施されます(宝物館入場にはマスク着用でお願いします)。
なお、10月8日(日)午後1時半より午後3時まで、当社境内の清真館において、研磨にあたった研師・柏木良先生、刀身彫刻・柏木重光先生を招いての講演会を開催します。ただし、清真館内へは、マスク着用、入場無料、入場数に限り有り、を御承知おきください。
本ブログでは、10月3日に開催されました「慶応4年奉納刀の研磨修理に関するマスコミ説明会」の成果について紹介します。宝物公開時の参考資料としてください。
ブログR5.9.21 で説明しましたように、当社には慶応4年正月に奉納の大太刀を掲げた「奉掛の大額」が伝来していました(図1)。
大額の表(右側)には「新鍛治町若連中」とかかれていることから、鍛治町で知られた新鍛治町の若連中がこの奉納行事を取り仕切っていたことを物語っていました。この大額の裏面には多数の寄進者名・町名・寄進額や刀や大額作成にかかわった作人・大工名などが記されていました(図2参照)。
平成15年夏に新鍛治町出身の当社伶人が神具の整理中に所在不明であった大太刀を発見いたしました。これは不思議なご縁と神社役員共に感じ入り、小松市史編纂委員を務めていた方々により、大額裏面の解読作業が開始されました。解読作業の完了を待って平成16年5月に、多くのテレビ局や新聞社が参加してのマスコミ説明会が開催され、その場において、大額に奉掛された大太刀が披露されました。それが、図3です。
その後、大額裏面に記された奉納町と和釘生産との関わりなど背景調査が続けられましたが、20年経過した今年、石川県において31年ぶりに国民文化祭が「いしかわ百万石文化祭」と題して開催されることになりました。百万石文化が華開くのは、わずか3歳にて藩主になられた綱紀卿(利常公のお孫さん)のときからです。お孫さんが元服の歳(承応3年, 1654)に、利常公により瑞龍寺に22点の奉納刀と当社に薙刀を奉納されました。綱紀卿の藩主としての武運長久を願ってのことといわれます。そこで、この家忠作の薙刀と、戊辰戦争初戦の鳥羽伏見の戦いと同時期の慶応4年(1868)正月に奉納の大太刀を奉納当時の姿にかえして、展示することとして研磨に出しました。
平成16年当時にお世話になった有識者の方々や奉納町の代表各位をまねいて、研磨された大太刀のマスコミ説明会が10月3日に開催されました。説明会では担当の当社神職が研磨で明らかになったことを説明しましたが、その中から6点紹介します。
1)奉納刀の全長は155.5センチ(5尺1寸)。刃長は119.4センチ(3尺9寸)。そりは3.5センチ(1寸1分)。目釘穴は2穴。銘・表に「源吉真(花押)」と 「世話人新鍛治町若連中 吉忠」と刻され、銘・裏に「於加州小松」と「慶応四年戊辰正月吉日」と刻されていました。
2)刃文があらわれ、「広直刃(ひろすぐは)小乱(こみだれ)焼き落とし」と判明しました。以下の図4に刃文の広直刃・小乱の一部を示しています。
3)刃文には「焼き落とし」があります(以下の図5の赤丸部分)。刃文が「はばき」までではなく、「はばき」の手前で刃先にぬけさせて終わっているのを「焼き落とし」といいます。白山比?神社蔵の通称「真柄の大太刀」(石川県指定文化財)は「はばき」まで刃文があるとのこと(当日参加の有識者談)。今回の大太刀と同様の「焼き落とし」は 平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した豊後国(大分県)の豊後行平や平安時代中期の伯耆国(鳥取県)の刀匠・伯耆安綱など古刀にもみられるので、必ずしも焼き入れの不首尾といえません。まして、今回のは、加賀梅鉢紋が「はばき」に刻され、多くの人からの多額の拠金で製作されていることから、藩の役人の立会もあったであろうことを考え合わせると、作人の意図的なものとも考えられます。
4)「はばき」については、ブログ9月21日号で説明しましたが、刀身の下部(柄に収まる部分)は「なかご(茎)」とよばれます。下図(図5)は「なかご」表をしめしていますが、赤丸印に刀の作人「源吉真」(みなもと よしざね)花押と刻されています。作人名の上方に「世話人新鍛治町若連中 吉忠」と刻されていますが、デジカメで撮影するのは無理でした。
5)「なかご」に空いた穴は目釘穴(めくぎあな)とよばれます。これは柄(つか)と茎(なかご)を留め具で固定するためのものです。図5を見てもおわかりのように、二つの目釘穴の、特に、茎尻(なかごじり)近くの目釘穴の位置が不自然です。これについて、説明会に出席の有識者の方より、これは大額に固定するための穴でなかろうかと指摘がありました。そこで大額を調べたところ、確かに、二つの目釘穴に対応する小さな穴が開けられていることが判明しました(図6参照)。
このことから、慶応4年奉納の大太刀は、この大額に奉掛して社殿に大絵馬のような形で掲げられていたものと判明しました。
6)作人は「源吉真」ですが、日本刀銘鑑に記載のない刀工です。加州新刀大鑑には一代鍛冶として、「加州大聖寺住村口九兵衛尉 源吉重、安政頃」とあります。時代的には近いので、この刀鍛冶の弟子筋とも考えられる、との当社神職の見解が示されれました。
今回の研磨によって、多くの方に「源吉真」という「加州小松住」の刀工の存在を知っていただき、同銘の刀が出てくることで、その人物の解明につながることを願っています。
なお、宝物公開に来館の方が、国定忠治(1810-1851)愛用の刀が、加州小松出身の刀工「小松五郎義兼」によるもの、それゆえ、この小松には江戸後期にも刀工がおられたことを話されていました。
以上
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本ブログでは、掉尾をかざる慶応4年奉納刀について紹介します。この奉納刀の存在が公けにされましたのは、昭和61年発行の小松天満宮等専門調査会(事務局:小松市教育委員会)調査報告書「加賀 小松天満宮と梯川」において、
「慶応四年(1868)に小松の新鍛冶町の若連中が世話人となり.....多数の寄進を得て太刀を奉納したことである。太刀の 作人は源吉真だった。太刀は伝来しないが奉掛の大額が残っている」(158頁)
と記載された時です。図1が、奉納額です。
図2が奉納額の裏面です。確かに多数の寄進者の情報が記されています。
その後、平成15年8月に、新鍛冶町出身の当社伶人が神具の整理中に大太刀を発見いたしました。先人の導きともいえるこの発見を記念して当社では、小松市史編纂専門委員の山前圭佑、大西 勉両氏の協力を得て奉納大額裏面の解読作業を開始し、また、奉納大太刀の特徴等について県立歴史博物館(当時)の長谷川孝徳氏に依頼して調査を行いました。
奉納は、徳川第十五代将軍が大政奉還を行った慶応3年10月後の、鳥羽・伏見の戦い(慶応4年1月3日から6日)と同時期の慶応4年正月吉日に行われています。奉納者は新鍛冶町はじめ12町の286名と上寺町はじめ7町の若連中によるもので、奉納総額は銀建で「7貫936匁3分」でありました。いわば、藩政期小松町の最後を見届けた郷土の若連中による大太刀(刀身4尺)奉納であることが判明しました。
その概要について、平成16年5月25日にマスコミ向け説明会を開催いたしました。説明会の模様を図3に、発見の大太刀を掲げた大額を示すのが図4です。
爾来、20年の歳月が流れましたが、今年、31年振りに石川県にて国民文化祭が「いしかわ百万石文化祭2023」と題して開催されることを祝して、百万石刀剣文化の掉尾を飾る刀剣として、慶応四年正月に奉納の大太刀を研磨することになりました。研磨は、鳥取県在住の刀剣研(とぎ)師「柏木 良」先生と刀身彫刻家「柏木重光」先生により実施され、奉納当時の姿がよみがえりました。図5をご覧ください。
手前のが当社の奉納刀で(刀長4尺弱、119cm)ですが、撮影場所の都合で切先の部分が欠けてうつっています。奥にあるのが、標準的なサイズよりもやや大きい2尺5寸(75.8cm)の刀です。使用する玉鋼の量も、2尺5寸刀のよりも5倍ぐらい使用するとのことです。
刀身具の一種に「ハバキ」があります。鞘と刀身を固定するために必要なものですが、図6は当社の刀剣のハバキです。
当社のハバキは、素材となる真鍮に金メッキをしたものです。表面に加賀梅鉢紋の彫刻が入っていますから、この奉納行事は加賀藩の許可を得て斎行されたことを物語っています。慶応4年以来、一度も人の手が入っていなかったためか、研師さんがこれを外すのに大変苦労されたそうです。また、155年という年の経過とともに、刀身とハバキの間に緩みが生じていたため、タガネを入れて締めていただいたとのことです。
追:百万石刀剣文化の始りの刀剣として展示されます「承応3年8月銘の薙刀」については、本ブログの令和2年10月28日号、令和3年4月20日号、令和4年4月30日号をご覧ください。
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小松ビジュアル俳句コンテストは5部門にわかれて作品を募集していますが、そのうち3部門の選者名を記したのが図2です。ここに、森村誠一(作家・写真俳句提唱者)とあります。そうです。ビジュアル俳句の提唱者が森村誠一氏なのです。
森村誠一氏が『森村誠一の写真俳句のすすめ』を出版されたのが2005年、その7年後の2012年に「小松ビジュアル俳句コンテスト」の第一回が開催されました。このコンテストには、高校生以下の投稿を対象にした「能順の部」があります。能順とは当社の初代別当を務めた近世連歌の大家といわれる方で、芭蕉も奥の細道の途中に能順を訪ねてきたといわれている方です。
小松ビジュアル俳句コンテストが誕生する3年前の2009年七夕前日に、森村誠一氏が能順の住まいした梅林院旧跡を角川春樹事務所の方とご一緒に訪ねてこられました。能順師は「脩竹斎」とも号しましたが、梅林院竹林には高い竹があるのをご覧になってくつろいだ時に即興で詠んだ句「竹林の奥の香集め 茶を分けぬ」の色紙をもってのにこやかなお姿が印象的でした。7月の和名は「文月」ですから、文芸にもゆかりの月です。当社にお参りされた時も七夕の時でしたが、先月、その文月24日に90歳にて逝去されました。なつかしいお姿を想い、氏のご冥福とビジュアル俳句の一層の継承を祈念して記念投稿といたします。
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安政五年(1858)、六年と安政の大獄の嵐が吹き荒れる中、西洋列強の東漸に対抗する海防論が加賀藩においても盛んになってきました。当時小松には御馬廻三百石、黒坂左兵衛景行ら三士を頭として、二百五十石成瀬与一郎正時以下の武士三十二戸足軽五十人あまりしかいないので、海岸に近い小松として防備力不足を補うことことが重要と、文久元年新兵組の組織が命じられました。町民より強壮な青年を募集したところ応募者二百名余りあつまったといいます。筆算・体力・操行の検査を経て、五十人に士格を与え、苗字帯刀が許可されたというのです。著者の小野寺氏の父龍助氏も二十二歳でこの新兵組に編入せられたとのこと。この新兵組は調練は小松城内や安宅の海浜でおこない、仮屯所は城内で借用であったが、明治維新と共に解散したとのこと。
当社社務所がこの逸話に関心をもちますのは、明治改元の慶応四年(1868)正月、まさに鳥羽伏見の戦いの直前、小松の町人二百九十六人と七町の若連中の浄財をもとに製作された長さ四尺の奉納刀と奉納額(図2)が伝来してきているからです。
このように小松の町方を網羅する多数の若者が団結して奉納する心意気の背景に近づきたいとの思いからです。明治維新前後の戦いでは銃砲が主力武器となりますから、純粋に武器としての刀剣の奉納とは考えられません。発起人となった若連中の住する「新鍛治町」は明暦万治年間、軽海村の鍛冶職が藩の命令によって移住したのが起源とのことです。
大太刀の作者がどういう鍛冶職なのかは明らかになっていませんが、新時代を若者の力で切り開いていくという心意気を「大太刀」に託して奉納したのでなかろうか。旧弊を打ち破って新時代に参画せんとする若者の心意気は「新兵組」に応募した若者の心意気にも通じるものがあるのでは、との思いからです。
ところが、これまで「新兵組」のことを記す当時の文書が見つかっていません。社務所では長年にわたり調査してきましたが、数日前に金沢市立玉川図書館近世史料館にて文書が発見されました。それは、所蔵文書をまとめた『加越能文庫解説目録』上巻記載の「先祖由緒幷一類附帳」収蔵の一文書「黒坂景次郎」を閲覧して発見されました。黒坂景次郎の父親「黒坂左兵衛景政」が小松城に勤務していて、慶応元年五月二十三日に「新兵組頭」に任命されていたことが明記されていました。これをもって、小野寺松雲堂氏が記した「新兵組」が現実に存在したことが明らかになりました。ただし、版本で小野寺氏が記す黒坂左兵衛「景行」は「景政」の誤記といえます。
以下は、本文書の筑波大学の綿抜豊昭氏による翻刻です。社務所にて、職名にカッコをつけ、読み下せる箇所は読み下し、注記をつけさせていただきました。
【翻刻】(職名にはカッコをつけた。◇は難読文字)
父 黒坂故左兵衛景政
左兵衛義は、天保十三年七月十一日父宗垣隠居仰せつけられるに付、本高之内五拾石を隠居料、四百五拾石で家督相続を仰せつけられ、御「馬廻頭」支配を罷在り候処、同年八月十四日御「大小将組」仰せつけられ、同年九月廿一日組入を仰せつけらる。嘉永六年七月父宗垣 病死 仕候ニ付、同年十二月十六日右宗垣の隠居料五拾石は本高之内ニ付、御◇仰せつけられ 都合五百石拝領仕う。同七年二月二日知事様附の御「大小将」仰せつけられ、安政六年三月「小松御馬廻御番頭」仰せ付けらる。御「役料知」の百石下され、文久三年九月十日「小松御留守居物頭」仰せつけられ、御「役料知」百五拾石下されるにつき、先の御「役料知」は除かれました。元治二年正月十日「組頭並」兵士支配を仰せつけられ、御「役料知」百五拾石下されるに付き、先の御「役料知」は除かれました。慶応元年五月廿三日「新兵組頭」仰せつけられ、御「役料知」百五拾石下されるに付き、先の御「役料知」は除かれました。同二年正月廿八日役義御免除を仰せつけられ、明治二年二月御軍装御変革ニ付、「一等上士」(注1)仰せつけられ、同年十月御◇政ニ付き、御捧録高ニ御「基斜綜之法」(注3)を以て知行高御減少仰せつけられ候之旨仰せ渡され、同年十一月「士族長支配」を仰せつけられ、同月晦日病死仕ル。
以上。
(注1)明治2年三月二十八日に藩によって出された「士分の階級を定むにより、旧八家を上士上列、人持組を一等上士、頭役及び頭並みを二等上士 。。と定むこととなった。(『加賀藩史料幕末篇下巻』)
(注2)明治2年10月16日に出された「藩士の給禄改定の儀」では、三千石以上の給禄を十分の一、百石以下は減少なし、となるように定率で減少させる方法のことを「基斜綜之法」といっている。明治二年は版籍奉還により、政治体制が大転換した年であり、「藩士の給禄改定の儀」には、「今般大御変革に付、我等自俸旧禄十分の一被仰付、藩士の給禄も適宜に改革致し候様朝廷被仰出候趣、、、、、政令帰一海外万国と並び立ち、独立自主の御政体確乎不抜の大基礎を立つため。。。。朝命遵法の意を体して」、俸禄減少を受忍してもらい旨の文言がみられます。
以上
謝辞: 翻刻をブログに掲載することを御許可いただいた綿抜様に感謝申し上げます。
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花の色をみればヤマフジかノダフジかがわかりますが、花の色ではなく、つるの巻によって識別する方法がインターネットにもかかれています。ただ、最近は、ノダフジが「左肩あがりの左巻き」、ヤマフジは「右肩あがりの右巻」とかかれていますが、これは、下ないし横から見た時の巻の識別です。具体的にみてみましょう。
最初は当社ブログの前号で紹介した当社のヤマフジ((図3)の根元のつるの巻方(図4)です。赤線で表示したように右巻になっています。
これに対して芦城公園の大藤の根元は複雑で識別が難しいので、公園内の別のノダフジ(図5)の根元を示す画像が(図6)です。赤線でみますように、左肩あがりの左巻きになっています。
以上は下方ないし横から見た巻方の識別方法ですが、上からみるとヤマフジは左巻、ノダフジは右巻きと逆になります。これをみるために、画像7をみてください。横からの画像ですから、巻方はまさしく右肩上がりの右巻です。
これに対して「上からみた」ときの巻方の識別には、「握った手の形」から識別する方法がネットでも紹介されています。図7の筒を、ヒモの端が親指になるように握ったのが図8です。図8では、左手で握っていますから、上から見た時のヤマフジは「左巻です」。
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これに対して当社の藤の木は、白い花をつけます。今から40年ほど前の昭和57(1982)年発行の「小松天満宮誌」の四季の景色の中に「白藤は白山産と言われ、花房が愛らしく垂れて、赤門の朱色にひときわまぶしい。花期は5月上旬である」として、現在と同じ樹形の成木の写真が掲載されています。ちょうどこの頃に神門の塗装が簡易的に塗り替えられていましたから、ひときわ色彩の対比が際立っていたのだと思います。
今を去る1293年前、西暦730年、大宰府庁の長官 大伴旅人の館で開かれた新春の宴で詠まれた梅の花の和歌32首の序文からとられましたのが、現在の元号「令和」です。同じ時代、同じ情景を生きる人々の多様な心が寄り添い、相和す中から文化の華咲く平和な世が育つという意味をもつ元号です。まさしく今の世の人々の願いそのものですが、少なくとも「同じ情景」が伝わらない世界になっていることは残念なことです。
この32首の中に一つのお歌があります:
「梅の花咲きて散りなば櫻華 つぎて咲くべくなりにてあらずや」
当社参詣にはよみかえて、
「梅の花咲きて散りなば白い藤、つぎて咲くべくなりにてあらずや」
白の藤の花ことば「懐かしい思い出」にふさわしい好季節の境内となっています。
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今年の秋には、31年ぶりに石川県にて国民文化祭が「いしかわ百万石文化祭」として実施されます。また、今年は加賀国が立国して、小松に国府がおかれてから1200年の記念の年でもあります。百万石文化花開く基盤作りとなった一大藩政改革「改作法」が小松城を実施本部として成就した歴史とこの二つの慶事に思いをはせつつ、本ブログ2022.6.5号「梯川ミズベリングを歩いてみませんか?」で紹介した小松城から加賀国府地内の灰塚をめぐる梯川ミズベリング沿いのウオーキングに「埴田の虫塚」も追加するお薦めの投稿です。
小松市の主要道路の一つ、産業道路を軽海西交差点から北上してしばらく行って埴田南交差点を右折したところの小高い丘の上に「埴田の虫塚」が立っています。同じく産業道路沿いにある「灰塚」から南に300メートルほど離れたところにあります。ただ、ここには駐車場はありません。
この虫塚の説明板によると、藩政時代の天保10年(1839)に南加賀一帯にこぬか虫(ウンカ)が大発生し、出穂期の稲作に大きな被害を与えた。この大発生にあった徳橋組の8代目十村役田中三郎右衛門はウンカを木綿袋23袋に集めて現在地に埋め、被害の経過やウンカの駆除法(および参考書)を石柱に刻み,後世教訓として残すために建立したというのです。
この虫塚については、石川県農業総合研究センターの農業研究専門員(当時)森川千春氏が雑誌「農業と科学」の平成16年11月1日号に論文を発表しています。この中で、森川氏は「この碑文、日頃、科学論文に慣れ親しんでいる身としては、。。。。科学論文の形式となっており、極めて簡潔明瞭で無駄がない。十村役田中三郎衛門(これは田中三郎右衛門の誤記)の知性の高さが窺える」と評しています。この碑文の翻刻の画像が次です。
詳細はこの論文(インターネット検索でも見れます)をお読みいただければ思いますが、防除方法として田中三郎右衛門が採用した方法です。参考書の「防蝗録」では、ウンカが発生したら、田んぼの除草をし、水面に鯨油の油膜を形成してウンカを駆除する方法です。ところが、ウンカが多発する九州(西国)で鯨油を買いつくして加賀藩までは回ってこない。そこで隣藩の状況などをも観察して、代替品として「木の実油」(油桐)の使用を選んでいることが、簡潔に文章をまとめる力と共に知性の高さの一つの証左となっていると思います。
一方、最近になって筑波大学の綿抜豊昭氏の解読された『天保15年甲辰より自他句集』(小松市立図書館所蔵)により、虫塚建立者の田中三郎右衛門およびその妻、子息らが俳諧をたしなんでいること、また、田中氏らは和歌などを楽しむグループ「小城歌連」の集いをもっていて、当社(梅林院)と那谷寺に和歌を記した額を奉納していることが判明いたしました。この扶持人十村役田中三郎右衛門を中心に、この埴田の地において文芸活動も盛んであったという、「新修小松市史」でも取り上げられていなかった、これまで知られていなかった歴史も明らかになってきました。
国民文化祭が開催される10月から11月はウオーキングにも好適な季節ですので、是非、小松城からのウオーキングをお勧めします。ちなみに、虫塚周辺にはコンビニは立地しています。
]]>それゆえ、このコロナ禍3年間は、これまでの生活習慣を見直し、日頃から免疫力を鍛えておくことの必要性という、有意義な学習をさせていただいたと前向きにとらえて、今年を新たな再生の旅立ちの春とさせていただきたい。このような願いでの令和5年の春季例祭式典が、ご祭神の菅原道真公が大宰府にてご逝去された延喜2年2月25日(旧暦)にちなみ、3月25日に、崇敬者各位よりの志納品をはじめ御食御酒海川山野の品々をお供えし、小松天満宮奉賛会役員、小松天満宮十五社会役員、献華奉納者が参列して斎行されました。
当社宝物中に、藩政期に加賀藩八代藩主の病気平癒を感謝して、侍医の多賀元方により奉納の律詩額があります。図1は律詩8句の3句と4句を示しています。
風裡の香に 通信の早きを知り
霜前の色に見る 後凋(こうちょう)の栄ゆるを
菅公のご生涯とその後の子々孫々の繁栄を、四句「霜の寒さにこごえた色に見る 後凋の栄ゆるを」とよんでいます。コロナ禍3年間の自粛の経験を糧に 新たな発展の願いをこめての春祭りにふさわしい一句と思います。
ここで「後凋」とは、『論語』子罕に出てくる孔子の言葉「歳寒 然後に知る 松柏の後凋(しぼむにおくるる)也」が典拠となっています。寒さの厳しい年にこそ、松柏の真価がわかることの喩(たとえ)で用いられます。
また、古流柏葉会の地元会員により、生華が奉納されました。花材は「イチイの木」です。古来、中国では高位の官僚に象牙の笏を授与したが、日本には象牙がとれなかったため、イチイの木で笏を作り、仁徳天皇が「正一位」の名称を与えたとの伝えにより「イチイ」の名がつけられたといわれています(インターネット検索参考)。「イチイの木」はお祝いごとに利用されるおめでたい木であります。また、ご祭神はご逝去後の正暦4年(993)の一条天皇の御世に「正一位太政大臣」の位を授けられていますので、ゆかりの木による献華をお供えすることができました(追記参照)。
備考)令和5年3月21日放送のBS番組「免疫システム 未来への備え」の放映がありました、人のもつ免疫力には「自然免疫」と「獲得免疫」があります。コロナウイルスとの闘いにおいて、前者は斥候の役目を、後者は斥候隊の持ち帰った新型ウイルスの情報をうけて、新型ウイルスを攻撃する攻撃隊の役割をします。コロナウイルスが体内の細胞に入り込む先端部(スパイクタンパク質)にフタをして入らないようにするのが攻撃隊の役割です。前者と後者の働きには時間遅れがあり、すぐには攻撃できません。新型ウイルスの特徴は、短期間に変異を繰り返しますので、この時間遅れを短縮して攻撃隊の出動を早めるために接種するのがコロナワクチンというわけです。2019年末の中国武漢での最初の発生後の翌年3月に変異株デルタ株が発生して、その後の4−5月にワクチン接種が開始され、その年の11月にオミクロン株の発生という経過がありました。これらの経過の医学的経過観察により判明したことがあります。ワクチン接種の支援をうけて、感染を防ぐ抗体(コロナウイルスのスパイクタンパク質にフタをする)が獲得免疫によって産出されますが、この際、特定の変異株だけでなく、その他の変異株に対応しうる抗体を適当に作って準備していることが判明しました。この免疫力のもつ潜在能力を開発するために、日ごろから免疫力を鍛えることの大切さを伝えたのが番組の内容でした。具体的な方法は「免疫力アップ」とインターネットで検索してみてください。
追記) 令和5年4月4日放映のNHKBSプレミアム「新日本風土記:天神さま」では、当社を含めて各地の天満宮とゆかりの行事が数多く紹介されました。ゆかりの行事の中には小松市駅前の曳山交流館「みよっさ」で毎年正月はじめに開催の「天神堂」の展覧会もありました。映像の中に、道明寺天満宮所蔵の国宝に指定されている道真公愛用の「象牙製の笏」が紹介されていました。道真公の時代の右大臣には象牙製の笏が使用されていたことがわかります。
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例年だと、3月25日の春祭りに向けて紅梅と白梅がばらばらと咲きだすのですが、今年は例年になく同時に咲きそろうという珍しい光景です。
また、3月10日頃から咲き出していた宝物館前の白梅はそろそろ散りだしていますので、今週末が見納めのようです。
また、河川改修により当社宝物館は藩政期に連歌会の斎行されていた梅林院地内に移転しました。河川改修前に宝物館の立地していた旧地のあたりは河川改修により輪中堤から境内への坂路などに転用されましたが、旧宝物館傍に植栽されていた白梅数本は河川改修から生き延びて、昨春に献木された白梅ともども咲きそろって当時の社地境界付近の在処を今に伝えています。
ちなみに、当社創建とゆかりの小松城の二の丸跡地には維新後に小松中学(現在の小松高校)が創立されました。旧宝物館跡地にあった白梅が河川改修により伐採の憂き目にあることを惜しんだ当時の保護者会役員の方の尽力により、創立110周年の記念の年に、小松高校正門付近の緑地に白梅2本が植え替えられて生徒さんの学業を見守っていることは喜ばしいことです。
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図1は、当社の十五重塔の近くにある説明看板の図と同様ですが、1780-1785の間、小松城番を勤めた冨田景周が『越登賀三州志来因概覧附録9』(加州小松城考)に記す「小松城の水回り」を白線にて示したものです。当社の向いの水口から梯川の水をとり、外堀、内堀にまわして、再び、梯川に戻しています。この水回りにおいて重要な隘路(ボトルネック)になる箇所が二か所あります。一つは外堀(白鳥堀)の水を梯川に排出する箇所(水門)、もう一つは、本丸をめぐる内堀の水を外堀に出す箇所(赤丸印)です。
冨田景周は小松城の大改築以前について概略次のように記しています。「寛永16年、利常公の命をうけて大改築を開始するまでは、前城主の丹羽氏在城のままであったろうが、白鳥塹(堀)もこの時、掘られたと云う」。小松城の外堀をなす白鳥堀は大改築の時に掘られたとなれば、内堀の水を外堀に排出するための水路(図1の赤丸印の水路)も作らねばなりません。
このことの証左になることが、「通史編1」から判明します。第7章第3節「小松町と周辺の産土社」において「梯町稲荷宮」(現葭島神社)が小松城内から現在地に移転したことを紹介しています。すなわち、「町内泥町の梯町稲荷宮(現葭島神社)は。。。旧来小松城内の区域に鎮座していたが、。。。。同城の造作に着手するにともない、正保元年(一六四四)に現在地に遷座したとされる」と。
これに関連して、『新修小松市史資料編9 寺社』は、享保2年(1717)11月「小松 五穀寺」(藩政期に稲荷宮の別当として奉仕した小松山伏頭の寺院名)の作成した「小松稲荷社略縁起」(『神社大系 神社編33』151-152頁)を記載しています。そこには大略以下のように記しています: 「当社小松梯町稲荷宮の開闢は・・・承保元年に鎮座し給い、梯町・泥町・枇杷嶋等の産土神にして城内本丸・二の丸の地まで産土地なり・・・・・寛永年中、中納言利常卿小松御入城の後、稲荷の宮地町並に相成に付て。。。移転の儀仰出され・・・旧社地は城中兎門際にて、正保元年八月十八日に今の地に遷座・・・」
ここで注意すべきは、「梯町稲荷宮」の梯町とは、現在の梯町のことではないということです。昭和62年に公刊の『加賀 小松天満宮と梯川』の「小松城のその後の変遷」の節(郷土史家の北野勝次氏執筆)に次のように書かれています:「寛永十九年(一六四二)九月、小松城梯に亭榭園🈶を営む。。。葭島のお花畑など仰せつけらる」。この文章より、小松城内に「梯」という地名があったことと、葭島地内あたりにあったことが判明します。このことから、「稲荷宮」が神仏分離後に「葭島神社」と改称されていることも理解しえます。ただ、移転の原因となった「稲荷の宮地町並に相成に付て」とあることから、「町並になった町名が梯町」とも考えられますが、城中にあったという「梯町」の由来は不明です。
確かなことは、稲荷宮の旧社地が城中兎門際にあったです。当社蔵の「小松城下絵図」で兎門とは、図1(西を上)の赤丸印で囲ったところの門の名前です。以下の図2の赤丸印で表示する「兎御門」は、本丸をめぐる内堀に水をとりこむための水路に面する門の名前であり、このあたりにあった「稲荷宮」の旧社地は、内堀と外堀との水の行き来を確保するための水路を開削し、新たに外堀などを造成するために必要とされた地所であったことが判明します。
次の図3は、「稲荷宮」の旧地と移転地の関係などをしめした図です。
赤丸印あたりが旧地(梯町)で右下の白丸印(稲荷五穀寺)が移転地(現在地)です。また、梯川沿いの黄色丸は、関ケ原合戦時まで小松城の城主であった丹羽長重によって建立された寺院の「養福院」(図中には、愛宕と記す)です。下牧町鎮座白山神社においては、毎年七月一日に産土社の「白山大権現社」の例祭が斎行され、利常公による小松城整備の際に、愛宕地内の土地を献上したために、愛宕地内にあった「白山大権現社」が梯川の対岸に移転したと伝えられています。これらより、「養福院」と琵琶嶋を隔てる堀も小松城大改築時の白鳥堀の造作と共に新たに掘られたと推定されます。以上より、小松城大改造前の小松城のおおよその範囲は、図3の青丸印の範囲とみられます。小松城を描いた最も古い絵図は「承応元年(1652)図」(玉川図書館近世史料館蔵)ですが、図3の青丸印内は「本丸」と「二の丸」と記されています。『加賀 小松天満宮と梯川』には、小松城の大改築の開始された寛永16年の翌年(寛永17年)6月に利常公は小松城に入城されて、小松二の丸御仮屋に入られたと記されていますから、これも傍証になります。
追記:市史編集者への要望
読者が市史の文章中に疑問に思ったことや関心をもったことを検証したり、それを手がかりに深く学習しうる手だてを提示して、市史執筆者各位が原稿を執筆していただくことを要望します。具体例を上げます。ブログでも紹介した「梯町稲荷宮」という名称は、『神社大系 神社編33』151-152頁に掲載の「小松稲荷社略縁起」に依拠しています。ところが、『神社大系 神社編33』151-152頁に掲載の「小松稲荷社略縁起」は翻刻ですから、その原典が何なのかは不明です。同様の文章は『加賀志徴』上編復刻344頁の「小松稲荷社」にも記載されていて、ここに「貞享二年小松稲荷別当山伏養源坊由来書に、小松梯町稲荷宮は。。。」とありますから、この「貞享二年小松稲荷別当山伏養源坊由来書」が原典と思いますが、加賀藩政期の文献資料を収集する玉川図書館近世史料館には収蔵ありません。玉川図書館近世史料館に収蔵するのは、貞享二年(1685)よりやや後の時代に作成された「小松稲荷五穀寺略系譜」です。これにも「正保元年八月十八日小松御城中御氏神、兎橋御鎮守稲荷大明神。。。ご遷宮仰せつけられ」と遷宮のことは記載されていますが、「梯町稲荷宮」という名称は出てきません。この場合は、翻刻版を出典とするのでなく、もとの古文書名を記載するように要望いたします。
]]>令和5年の今年は、石川県にて31年ぶりに国民文化祭が「百万石文化祭2023」として開催され、ここ小松市においても様々な協賛行事が行われます。
ところで、インターネットで「加賀百万石の城下町は金沢と小松」と検索してみると、出てくるのは「加賀百万石の城下町「金沢」」という記事ばかり。それではと「加賀百万石の城下町「小松」」と検索してみると「加賀百万石の城下町「小松」 について誰かに聞いてみよう」と出てきます。
大坂夏の陣直後の慶長20年(1615)閏6月に江戸幕府によって制定された「一国一城令」により、藩主の居城以外の全ての支城は破却されました。加賀藩では金沢城以外の高岡城や小松城は破却されました。ところが、一国一城令の例外として認められた城が各藩(徳川親藩や大大名の藩)にあり、その内容はウィキペディアにも列挙されています。寛永16年(1639)、加賀藩3代前田利常公は、長男光高卿の加賀本藩(金沢藩)約80万石、次男利次卿の富山藩11万石、三男利治卿の大聖寺藩7万石を分立し、自らは隠居領として約22万石にて小松城を改修して居城とすることを幕府に認めてもらいました。これにより、「一国一城令」の例外として、小松城が認められました。
利常公逝去後には、隠居領は加賀本藩に組み込まれて、加賀百万石となり,加賀本藩内に金沢城と小松城の二つの城が幕末まで存続いたしました。小松城の大規模改修とともに城下町も整備されましたので、城下町であることは明らかですが、なぜ、あまり知られていないのでしょうか? ここでは3点にわけて検討してみます。
このキーワードでインターネット検索してみますと、トップにでてくる記事には、城下町の役割として3つあげています(https://www.for-hobbyist.com)。それは、A)城と城下町の防衛を考慮した街づくりになっていること。B)町奉行所などの行政機能が働いていること。C)町の発展を基礎づける商業機能を考慮した街づくりになっていること。
図1は、当社蔵「小松城下絵図」です。城の境界や城下町の主要部は梯川の水を利用した堀で区切られ、この絵図には描かれていない南側(図の画面の左側)にも城下町は広がっていましたが、城下町の南隣には加賀藩から分立した大聖寺藩が控えていました。さらに、城下町北端の茶屋町・大川町(藩政期の町名は泥町)から北國街道沿いに歩いていただくとわかりますように、いたるところにクランクのある街路になっていますから防衛機能はよく考慮されています。一例として、本ブログ2022.10.6号にて紹介した綿抜豊昭氏蔵の小松城下絵図の橋南地区をみてみます(下図)。現在の北國街道は龍助町から真直ぐに本折方面に行きますが、藩政期には、図の赤線で表示したように、龍助町から南に(図では左に)直進してクランク部分から五日市町をとおり猫橋をわたって本折方面に出ます。八日市から三日市をとおって(赤の点線)てからクランク部分から五日市町をとおり猫橋をわたって本折方面に出ます。現在は、水路は残っていませんが、猫橋は、猫橋銀座として残っています。橋は防衛上大変重要ですから、このようにクランク部分を多用して橋をわたるようになっています。(ストリートミュージアムを兼ねた北國街道をあるく行事では、この猫橋をわたるルートで実施したいものです)
ついで、藩政期を通じて小松町奉行所が機能していましたから、行政機能もOKです。
商業機能については、2020.10.16の本ブログ「松永尺五の漢詩にみる。。。」で紹介しましたように、利常公小松城入城4年後の尺五の漢詩(絶句)の起句に尺五は「城の堀を修築して、地域に住みつく人を定められた。」と詠んでいます。小松城大規模修築にあわせて武士や寺社や商人・職人といった町民の住む町を整備され、寺町、鍛治町、材木町といった町名にも残されていますから、商業機能の集積を考慮した街づくりになっています。
このサイトでは言及されていませんが、城下町のもう一つの大切な機能は教育です。加賀藩の藩校「文理を教える明倫堂と武芸を教える経武館」は寛政4年(1792)に金沢にて開校しました。そのわずか2年後に小松のお医者さんたちが中心になって、藩の許可を得て京町に町衆の子弟の教育をおこなう「集義堂」を創立し、安政4年には小松城勤務の武士の子弟の教育をおこなう藩校「修道館」を小馬出町に創立しています。このように、小松は城下町の機能を備えていますから、城下町であったし、街並みの骨格は現在も維持されていますから、加賀百万石の城下町とよんで何ら遜色ありません。
2)定まった城主がいないせいか?
一国一城令の例外として認められた伊達藩の白石城や尾張藩の犬山城には城主がいましたが、利常公逝去後の小松城には、定まった城主が決められず、城代や城番がおかれたためでしょうか?
一国一城令の例外で城代がおかれた城に、紀州藩(本城は和歌山城)の支城であった松坂城があります。松阪市役所観光プロモーションサイト内に「松阪路―城下町を歩く」というサイトがありますから、城代がおかれた城が城下町でない、とはいえません。
もう一つは、「加賀百万石の城下町「金沢」」で検索して出てくる記事は、ほとんどすべてが金沢市観光協会や金沢市の観光関連業といった金沢人によって作成されたものです。ということは、小松市の方々があまり、自分たちの町が城下町であるという意識をもたれていないことが原因かもしれません。それらしき文章がありますので、最後にそれを見てみましょう。
3)それらしき文章と小松城絵図の不備
平成2年(1990)に発行された『郷土の漢詩:小松の自然と歴史を詠う』があります。著者は集義堂や藩政期の小松町奉行所や絹織物産業の変遷研究で業績をあげられた郷土史家の大西勉氏です。本書は、加賀百万石漢詩文化の伝統を引き継ぐ漢詩人が小松の自然や歴史を詠った漢詩を、「白山、安宅、琴湖(今江潟)、牙湖(木場潟)、三湖台、浅井畷、小松天満宮、集義堂、社倉、小松城跡」の項目別に収録したすぐれた漢詩集です。この中の「集義堂」に関する漢詩の紹介の序文に以下の文章があります:
「戦国時代から明治維新後に破壊されるまで存在した小松城は、寛永17年(1640)加賀藩三代藩主利常が老を養うため入城し、二十年後の万治元年(1658)に没した後は、彼に従っていた四百余名の藩士は金沢へ引きあげ、僅かな警備要員が残るだけとなった。従って城があっても城下町ではないという類のない町人の町が出現することとなった。」
この文章が書かれたのは1990年ですから、加賀百万石文化の礎を築いた一大藩政改革「改作法」が、小松城を実施本部として加越能三州の大半で実施されたことの詳細な実証研究成果が発表されたのは2021年10月(木越隆三著『隠れた名君前田利常』)というごくごく最近のことですから、「老を養うため入城」と書かれたのはいたしかたありません。
ただ「僅かな警備要員が残るだけとなった」との文章が書かれたのには、少なくとも二つの理由があります。一つは、一昨年までに明らかになっていた小松城下絵図が不十分であったことです。平成11年(1999)発行の『新修小松市史資料編1 小松城』には、金沢市立玉川図書館近世史料館蔵「分間絵図」のように、小松城の最も精度の高い絵図を収録するなど優れた出版物です。この328-336頁(第五章第二節「城下絵図」)に掲載されている城下絵図は、小松城内が白地になっていたり、城内の記載があっても城内の活動等につながる記載はありません。
ところが、昨年の当社宝物館公開(本ブログ2022.10.1号の「絵図ミステリーハンター:令和4年小松天満宮宝物館公開」を参照)で関係資料を展示しました「小松城下絵図」には小松城内はもとより小松城下の詳細な記載があります。この絵図は、令和3年(2021)に玉川図書館近世史料館が入手した「小松城下絵図」(絵図2と略称)です。小松市史の第三章口絵には、上述の図1の当社蔵の小松城下絵図(絵図1と略称)が「個人蔵」として、「居住者の氏名等から文政年間頃の図と思われる」と掲載されています。図2は、小松城内三の丸地区から大手門をぬけての小馬出町を示していますが、青い枠線が三の丸居住の武士名を記す箇所です。
「玉川図書館蔵」の絵図面(絵図2)にも、三の丸居住の武士名が記載されています。それゆえ、絵図1と絵図2の三の丸居住の武士名の比較と玉川図書館蔵の各家の系譜などより、いろいろなことがわかってきます。一例をあげましょう。絵図1の三の丸居住の武士名6名の中にある「疋田貞右衛門」は嘉永7年に隠居していますが、絵図2には記載ありません。絵図2に記載ある「中村吉五郎」は嘉永7年に小松御馬廻に就任していますが、絵図1には記載ありません。それゆえ、当社蔵の絵図1は市史が推定した文政年間頃ではなく、嘉永6年作成と判明します。
もう一つと例として、図2の赤丸印内は空地ですが、絵図2には、ここに藩校の「修道館」が明記されています。修道館跡地には明治維新後に小松警察署がおかれ、その瀟洒な建物は現在は「空とこども絵本館」として子供たちに利用され、その隣には交番がおかれています。図3は現在の情景です。
市の顔ともいえる、公共建築物には、「市民目線」と「旅人目線」の両者が必要です。前者は現代を生きる市民の要望に応える役割があり、後者は観光客など市を訪問する方々への「もてなし力」を高める役割に関係します。「修道館」では文武両道の教育がおこなわれていましたので、市民の安全を守る警察には武芸の伝統が、その後の絵本館には文の伝統がいかされているといえます。それゆえ「修道館跡地」にたつ「空とこども絵本館」は両者の役割を生かした公共建築の好例といえます。
図2の青枠内にある「成瀬常右衛門」は天保13年(1842)に亡き父の跡をついで小松馬廻に就任し、万延2年(1861)正月に死去しています。絵図2には、成瀬常右衛門の居住地に弟の成瀬与一の名前が後書きのような字体で(絵図2が作成された後に記載か)記載されています。成瀬与一は文久元年(1861)3月に藩校「修道館」教諭、同年7月兄である故常右衛門の末期養子認められて、兄の跡目を継承して小松御馬廻を仰せつけられています。このように、小松城三の丸居住の武士の中には代々にわたって小松城に勤務した武士のいることがわかってきました。
本ブログも随分長くなってしまいました。
小松城が「僅かな警備要員が残るだけとなった」城でないことが判明したのは、もう一つの絵図が昨年明らかになったことです。これについては、2022.10.6日号の当社ブログ「小松城へのお米の搬入場所明示の絵図みつかる」をご覧ください。
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昨年11月中旬に社殿を北方からの風雨雪から保護しているスダジイの大木の根元に大量のコケが発生しました。
急いで除去してみますと、このコケは図2の示すように白色で枝分かれしないようなコケのようでした。
そこで、河川改修前から樹勢調査などでご指導いただいている松枝章樹木医殿にサンプルを持ち帰って調査してもらいました。その結果、このコケは「シロヒメホウキタケ」といい、腐った木の上や地表際に粗皮上(今回のはこれ)に発生するもので、樹木への実害はないことが判明しました。発生した箇所は、根元のくぼんだ箇所で水がたまったり、水気の多い箇所でしたので、助言を得て、保水性・排水性と通気性に優れている鹿沼土でもって養生することにしました。
(図3,図4)。
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菅家三代の漢詩集をご覧になった醍醐天皇の御製「右丞相の家集を献るを見る」にはじまり、ご逝去間近の延喜3年(903)正月の作「謫居(たくきょ)の春雪」までの46首の漢詩の講読会でした。毎回、大部の説明資料を準備いただいて懇切に説明していただいた講義でした。
今回、各詩の各句の詳細な解釈はもとより、詩形と平仄、典拠となった唐詩などや源氏物語、北野縁起等の関連する書物の紹介など、各詩の背景にいたるまで丁寧に説明された柳澤良一編著『菅家後集』が公刊されました(図1参照)。
講読会も終わりに近づいた第27回、平成12年10月21日に取り上げられた漢詩は、延喜2年(902)晩秋の作「燈滅(ともしび きゆ)」と題する二つの絶句であり、二つ目の絶句の読み下し文は以下の通り:
燈滅二絶(二)
秋天いまだ雪ふらず 地に蛍なし
燈きえて書(ふみ)をなげうつに 涙 暗におつ
遷客の悲愁 陰夜に倍す
冥冥(めいめい)の理(ことわり) 冥冥に訴えんと欲す
二句(承句)目の「燈が消えたので 読みさしの書物を投げ打ち、涙が人知れずながれおちる」、四句(結句)の「人には知ってもらえない、この玄遠たる天の道理を、奥深く 遠い天に向かって強く訴えたいと思う」(当時のノート)とあります。
この漢詩と例年11月25日斎行の当社の新嘗祭特殊神事「お火焚神事」において、ご祭神に忌火をさし上げてお心をおなぐさめする儀式との関連性、それと当社の創建年である明暦3年(1657)11月25日(旧暦)が冬至の日であったことなどから、発見されたのが、創建時に建立の社殿(本殿)と神門が、冬至の日の出線上に沿って配置されているという事実でした。建造物の配置は有形文化財であり、一社に固有の特殊神事は無形文化財であります。この両者がそろって継承されていることが判明したのは、菅公の漢詩の講読会のお陰であります。
講師を務めていただきました柳澤良一氏による『菅家後集』の公刊を寿ぎ、広く購読されることを祈念して紹介記事といたします。
付記:宮司の思い出
当社宝物に、元禄13年の版本『菅家文草 六冊』と貞享4年の版本『菅家後草 1冊』の入った箱があります。箱を開けた状態を示したのが図2です。
この箱の中に一枚の紙切れが入っています。その一折り目を示したのが図3です。
藩政期の天満宮別当は、寺院であった梅林院住職でしたが、「住職は時々この文草を謹んで読誦すること。また、後継ぎのものは幼い時より読み書きの教えを受けるべきものなり」と書かれていました。藩政期には、後継者は幼い時より、菅公の漢詩集の教えを受けよとの意味と理解しました。
近づく菅公1100年祭の迎え方や、河川改修問題などでしばしばご指導していただいていたのは北野天満宮の片桐宮司殿と浅井禰宜殿でしたが、当時の北野天満宮の社報では菅公の漢詩の紹介文を連載していました。また、小松天満宮の文庫には金沢大学の川口久雄先生の当社への贈呈本が収蔵されていました(図4)。
贈呈の日付が神忌1076年2月とありますから、川口先生が『菅家文草 菅家後集』の第9刷を出版された1973年の数年後に当社に奉納されたものです。しかも、菅公がお亡くなりになられた2月という月にちなんで奉納されています。
上記の3点を勘案して、菅公がご苦労された、大宰府左遷後の漢詩集『菅家後集』の勉強会を、川口先生のお弟子さんの柳澤良一氏にお願いして開催することになりました。快くお引き受けいただきました柳澤氏へのお礼と、なつかしいご本の出版を祝して、一言、思い出を披露させていただきました。
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11月23日夜から24日早朝にかけての大風により、当社手水舎北側に生い立つ黒松の大枝が参道に落下しました。雪かき後に落下したあたりに戻してみたのが図1です。
このあたりには、手水舎はもとより国指定重要文化財の神門がありますので、落下の原因究明が急務でしたが、幸いにも、河川改修前後から当社の鎮守の森の見守りをしていただいている松枝章樹木医殿に調査してもらうことができました。まず、枝の落下箇所は図2の丸印で囲んだ部分に枝がおれた跡がみえるところです。
図3は落下した大枝をもちあげてみたところです。白矢印の箇所に生えていた枝が以前に折れていたことがわかります。図の右側は落下した枝の根元部分です。
次の図4の白丸部分は、以前におれた枝のあった箇所から菌が入り込んで、根元にかけての枝の幹をよわらせていることを示しています。
松の木は幹に傷がつくと、自己防衛としてヤニをだして傷口のひろがりを防止します。
次の図5の白い部分は、樹心(髄)で、赤い部分が松ヤニです。今回の場合は、この松ヤニの広がりよりも菌の広がりの方が勝って枝が落下したとのことです。
河川改修中に樹勢の衰えた樹木の樹勢の経過を、3本のモニタリング松の定期観察によって追跡している金沢河川国道事務所による樹木調査では、「マツモグリカイガラムシの被害」が観測されていますが、今回の落下枝には、青々と茂った松の葉が沢山ついているので「マツモグリカイガラムシの被害」ではないとのことです。この菌がどういった菌なのかは、松枝樹木殿に調べていただくことになりました。
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数年来、鉄道建設・運輸施設整備支援機構により、梯川を通過する橋梁はじめ線路桁架設・防音壁設置工事が進行し、小松市内の工事は完成に近づいています。防音壁工事の開始当初から、崇敬者より「この工事によって冬至の日の出の差し込みが悪影響をうけるのではないか?」との指摘をいただいていました。
これをうけ、令和2年8月に、社務所では「北陸新幹線 梯川橋梁他特定建設工事共同企業体」の担当者の方に調査方を依頼してきました。この申し出を行った年末頃の、当社近くの小松大橋から望む工事写真(図1)です。当社への冬至の日の出入射方向にある防音壁工事はまだ未完成の頃でした。
その後まもなく、共同企業体の担当者の方より、完成後の構造物の高さ等をふまえて、防音壁設置後においても冬至の日の出線の神門への射入時間には影響を与えない旨の回答を得ることが出来ました。この回答内容は、令和2年(2020).12.20付の本ブログ「新幹線工事と冬至の日の出の射入時間への影響の有無」にて説明いたしましたが、結論部分(誤植を訂正)を再計算して説明してみます:
共同企業体」の担当者の方の調査では、当社への冬至の日の出の射入位置方向にある新幹線の防音壁までの高さ(標高)=24.482m、これより当社本殿の標高2.64mを差し引いた21.842mとなります。この値を本殿から防音壁先端までの距離541.5364mで割ると、三角関数のtan の値がもとまります。逆三角関数(tan-1)を求めますと、本殿からみた防音壁先端の高さの角度として、2.31度がもとまります。河川改修後の現在の冬至の日の出の射入角度は、 2.75度から約3度 までですから、新幹線防音壁先端と本殿のなす角度2.31度は、これ以下となりますので、河川改修後の現在の射入時間には影響を与えないことが判明しました。
このことを現場で確認せんとしましたが令和2年、令和3年と冬至の日は曇天でした。今年の冬至は12月22日、明後日ですが、日の出頃の降水確率は80%の予報ですから今年も無理のようです。
もう一つの課題は、2020.12.20付のブログの追記に書きましたが、「騒音がひどい場合には防音壁の嵩上げ工事がされる場合がある」とのことでした。これについては、令和4年10月20日に開催されました鉄道・運輸機構 北陸新幹線建設局 環境対策課による関係町内会への説明会「北陸新幹線の環境対策説明会」における質疑応答より「新幹線高架橋の耐久設計に応じた防音壁高さを敷設しており、防音壁がこれ以上の高さに嵩上げされることは無い」旨の回答がありました。
以上より、新幹線高架橋防音壁による当社への冬至の日の出の射入には将来にわたって影響しないと結論されますことをここに報告いたします。
ちなみに、図2は平成28年(2016年)、平成の河川改修により当社の輪中堤が完成直後の冬至当日12月21日の朝日の射入画像ですが、この風景が今後とも持続することが明らかになりました。ご指摘・ご協力いただきました関係各位にお礼申し上げます。
追記:
当社ブログの開始されました頃にかかれたブログ、平成23年(2011).11.19付「冬至線を守る(2) 何故、太陽高度等の計算方法を知る必要があるか?」について補足説明いたします。確かに、国立天文台のホームページにある「こよみの計算」に、観測地点の緯度経度と標高、観測年月日と時間を指定すると、当該地点・当該時刻における日の出の太陽高度や方位角(真北から日の出線までの角度)を即座に算出してくれます。ただ、この場合の太陽高度は小数点以下一桁まで(例えば、高度3.3度)、また、測定時間も何時何分(例えば6時10分)までで、6時10分30秒といった指定はできません。本文で引用しました2020.12.20付のブログに書きましたように、「河川改修後の冬至の日の出の射入角度は、(河川改修工事主体の金沢河川国道事務所の調査により)太陽高度で 2.75度から約3度」となっていますから、小数点以下二桁の値を算出しうるプログラムが必要となり、平成17年頃に社務所にて独自にプログラムを開発しました。それの使用法を例示してみます。
例題として、令和2年(2020)12月24日(冬至3日後)午前7時26分、神門に射入する日の出をとってみます。この時の画像が図3です。
当社で使用しているエクセルプログラムは2011.11.19付ブログ「冬至線を守る(2)」に説明した計算方法に沿って作成したものですが、その全体画面が下記の図4です。
観測者が入力すべき箇所は赤字の箇所で、4行(ステップ)あります。
第一行(ステップ)には6か所あります。順番に
指定日の1日前の世界時の日付(T1)=12月23日
日本時と同じ日付=12月24日(T2)
指定時間(7時26分を時間単位で表示)=7.4333
T1時の太陽の赤経=271.7558
(『2020理科年表』26頁より計算して求める)
T2時の太陽の赤経=272.8654(同上)
第二行(ステップ2)にも6か所あります。最初の3か所は第一行に同じ。
T1時の太陽の赤緯=-23.42722(『2020理科年表』26頁より)
T2時の太陽の赤経=-23.4108(同上)
第三行(ステップ3)
観測地点の経度=東経136.4486度
観測地点の緯度=北緯 36.41617度
第四行(ステップ4)
観測月日(T2)= 12月24日
世界時0時におけるグリニッジ恒星時=92.979度
(『2020理科年表』28頁より)
観測時間(指定時)=午前7時26分
世界時0時(日本時午前9時)からの指定時の経過時間を
日単位で表示した値 =―0.065277
以上の値を挿入して求められた太陽高度が図4の最終行に青字でかかれています。
エクセルプログラムで求めた令和2年12月24日(冬至3日後)
午前7時26分に神門を通過する日の出の太陽高度
= 3.2934度
ちなみに、国立天文台暦計算の値= 3.3度
となりますから、ほぼ同じですが、プログラムの方が小数点以下2桁ないし3桁まで値が求まります。
ちなみに、この3.3度という値では、神門を通過する日の出の光は本殿には達しません。前述したようには太陽高度3度以下でないと本殿には達しないからです。また、観測時に秒単位まで出る時計を使用すれば、このプログラムを使用することでより正確な値が求まります。このように、自前のプログラムがあれば、現場写真からいろいろなこと(本殿に達するかどうかなど)が判明する一例をご紹介しました。
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年に一回の恒例の小松天満宮宝物館公開も二日間の日程を無事終了させていただくことが出来ました。今回の展示では、藩政期の城下町小松で作成された多くの城下絵図の代表ともいえる近世史料館蔵「小松城下絵図」を中心に当社蔵の絵図も展示させて頂き、小松の伝統文化の一つに「絵図の町こまつ」のあることを実感させていただきました。此をふまえて、本ブログ前号では、来年の「いしかわ百万石文化祭」協賛での「小松城下町絵図総覧の展覧会」を提案させていただきました。これに関連して「図はビジュアルですので、ストリートミュージアムまで発展させることができれば、観光で町を散策してくれる若い人もふえるでしょう」、「絵図面に反響があって,小松の町並み再発見で,面白いですね。最近,北国街道のビジュアル化をしてSNSに上げているなど、各町の若衆が,伝統を守り伝えようと,新たな試みを考えながら盛り上げています。この企画も実現して,多くの若い人が散策する町にしたいですね。」といったコメントをいただきました。
ここで一点問題になることは、明治維新後に新政府の命令を受けて小松城の破却・堀の埋め立て・売却・新市街地造成がおこなわれてきたという現実とどう向き合うかということです。ここで改めて、小松城内を描いた下図を御覧ください。
三の丸地区は「芦城公園や文化・教育施設地区」に、二の丸地区は「石川県立小松高校の校舎群に」、本丸地区の大半は「小松高校の運動場や散策路と本丸櫓台」として、いずれも公有地として保存管理されています。
確かに、堀は埋め立てられました。当社宝物館公開の来館者のお一人が「この堀が残っていればよかった」と発言されたのに対して、もう一人の方が「でも、この堀を維持管理していくのは大変だったでしょう」といわれました。加賀藩という藩があってはじめて、小松城を改築整備された利常公の意図をふまえての維持管理が出来たことです。さらに、藩政期には、徴税の一環として、小松の町衆が小松城の堀の浚渫に奉仕していたようですから、これも藩が健在であって初めて可能なことです。それゆえ、廃藩置県の後に埋め立てられたことは残念なことですが、おちついた住宅街として整備されてきたことは評価されることです。何はともあれ、小松城の骨格が今も公有地として保存継承されてきていることは喜ばしいことです。
さらに、次の城下町の絵図をご覧ください。
薄緑色地区は小松城内です。藩政期の小松城下の町割りを当社蔵絵図にもとづいて示しています。九龍橋川よりやや南側までの町割りを示しています。本折方面までの町割りを示しているのに、小松市立図書館蔵の江戸中期頃の小松城下絵図があります。この絵図も、町割りの状況は上図と同様です。小松城下絵図に描かれた町割りは、概ね現在の市街区パターンに残っています。それゆえ、現在の小松の町並みは、小松城跡を含めて「小松城下絵図」に描かれた風情を残しており、ストリートミュージアムまで発展させうる潜在力を秘めていると結論されます。
「絵図の町こまつ」の企画が実現して、この潜在力が顕在化して、こまつの街がどんどん発展する契機になることを祈念しています。くしくも、本ブログを投稿する今日は、小松駅前を中心に小松市民のお祭り「どんどんまつり」が開催されます。
天気もよいようですので、ふるってご参加ください。
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宝物館初日を終えて感想があります。小松は曳山子供歌舞伎に代表される「町衆文化のまち」として知られていますが、城下絵図といったものは「政」のために作成されるものですから、小松が城下町である証左の一つです。確かに、小松の伝統文化を代表する能楽、茶道、華道は城下町文化の伝統を継承するものです。こうしたことに思いをはせますと、承応元年作成絵図から明治14年頃作成の小松中学蔵絵図までの一連の「小松城下絵図」を展示する展覧会を小松市立博物館なりで開催していただけないか、特に、来年は石川県で30年振りに「いしかわ百万石文化祭2023」と題して国民文化祭が開催されますので、それにふさわしい企画とおもうのですが。
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小松はこじんまりした城下町ですから、1640年の利常公小松城入城から明治維新までの230年ほどの間に多くの絵図が作成されています。新しい小松城下絵図が見つかったときのポイントは二つです。
第一のポイントは、その絵図が正確なものかどうかを見るために、小松城水口の正面が少なくとも天満宮境内に面しているかどうかです。面していれば、次に、正面が当社十五重塔の方向を向いているかどうかです。向いていれば、ある程度、正確な絵図といえます。
第二のポイントは、本丸櫓台の名称です。ここに「天守」とかかれていれば明治維新前後に作成された絵図です。小松城で最も精度の高い絵図は、『新修小松市史資料編1 小松城』において、犬丸博雄氏が紹介された金沢市立玉川図書館近世史料館蔵「分間絵図」です。これは19世紀初頭に作成された絵図ですが、これには「御櫓台」と記載されています。元和偃武以後、さらに、一国一城令の例外として建立の許可された小松城には、もともと天守閣でなく、月見櫓風の櫓が建っていましたから、櫓台という名称が正式です。もともと天守閣が存在した白石城でも、伊達藩で二番名の城ですから、「天守」という言い方はさけていますと案内板に明記されています。
ところが、幕末の国防意識の高まった時期かつ徳川幕府の威信が低下した明治維新前後に作成された絵図には、本丸櫓台のところに「天守」という文字が記載されるようになります。
以上の二つのポイントを念頭において、「綿拔蔵小松城下絵図」をみてみます。図1は全体図です。
北端の当社から、南は「山王」と記載された本折町の「山王宮」あたりまでを描いています。
図2は本丸地区を切り取ってみた図です。
ここには「天守」と明示されていますから明治維新近くの時期に作成されたものです。
第一のポイントを見るために、小松城の水口付近を切り取ってみたのが次の図3です。
これをみると明らかに、水口の正面は「天神」とかかれた当社境内をはずれた場所を指していますから、この絵図は正確なものではありません。
ところが、この絵図には、これまでのどの絵図にもなかった「御米下シ道」という文字が書かれています
(次の図4の白丸内)。
黄色丸は「米蔵」ですから、能美郡内からの年貢米等のご用米を「天神」北側に記載されている水路(折橋川)などで運んで、小松城内の米蔵に運び入れる箇所が明示されています。赤丸印は「足軽等」と読めます。
今年の当社宝物館公開で披露する近世史料館「小松城下絵図」には、水口手前に船着き場が明示されており、赤丸印部分は「足軽屋敷」と書かれていますから、ご用米の搬出入に従事した足軽等の屋敷とわかります。さらに、紫丸印は「御徒」と読めますから、「御徒士」(おかち)のことです。足軽と異なり、苗字・帯刀の許される武士の屋敷です。これらの徒士は、米蔵の警護だけでなく、いわゆる、「そろばん侍」(搬入・搬出の経理担当侍)の役目をはたしていたのでしょう。近世史料館蔵「小松城下絵図」には、これら徒士の氏名も記入されているようですから、この絵図と併用することで、小松城内での活動内容の理解がすすむと思います。
本社には、慶応年間に越前浜坂浦の城谷氏により奉納の「なで牛」があります。近世史料館「小松城下絵図」には、当社対岸に立地の「稲荷社」背後に「泥町口御収納蔵」と記す多数の蔵屋敷を描いています。綿拔蔵小松城下絵図より、この蔵屋敷群が米蔵であることがわかります。二つの絵図は、当社前面付近の梯川がご用米の運搬・荷下ろし等で賑わった場所であったことを物語っています。それゆえ、越前の船主が海洋安全祈願をこめて「なで牛」を奉納したことも理解しえます。このように当社周辺の昔の風景を物語る貴重な小松絵図です。当社宝物館公開の参考資料にしていただければ幸いです。
謝辞:絵図中の難読文字解読には綿拔氏のご教示を頂いたことをお礼申し上げます。
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(検温で37.5度以上の方は入場お断り)
の条件のもとで、10月7日(金)と10月8日(土)の二日間、時間は午前10時から午後4時の間で宝物館を公開いたします。
展示内容
1)絵図ミステリーハンターへのいざない(安政5年特集展)
今回の展示の目的は二つです。
金沢市立玉川図書館近世史料館が昨年入手した「小松城下絵図」(近世史料館により作成年代は安政4年から万延元年、絵図1と略称)と当社蔵の作成年代不明の「小松旧城絵図」(絵図2と略称)との比較と当社の神具所建立時の棟札から、絵図1の作成年代は安政6年(1859)から万延元年(1860)と絵図2の作成年代は嘉永6年(1853)と判断する関係資料を展示します。絵図2の画像です:
なお、絵図1の画像は、10月2日発行の地方紙の一つに掲載されています。
B. 絵図1は、南北に長い小松城下町の全体(北端の当社から南端の多太八幡宮まで)を描く絵図であり、
町の要所を記載しているのが特徴です。一例としては、町並みの整備が完了しました龍助町から本折町にはいる
左手に「猫橋」という地名が残っています。絵図1には、小河川にかかる橋に「猫バシ」と記されています。ここ
には梯川につづく水運に利用された水路があったことがわかります。(ただ、「猫バシ」という文字は原図をみな
いと読み取れませんので、今回の展示の複製パネルでは確認出来ないことを申し添えます)これは一例ですが、藩政
期の町並みがよく描かれています。
また、安政5年には久しぶりに加賀藩主が東海道廻りで江戸から帰国した年ですが、この帰国に際して作成された道中案内絵図(当日展示)にも、絵図1にも藩主が小松から松任への帰路に使用された「湊往来、湊街道」が明記されていることも展示されます。この箇所の画像を以下に表示:
2)瑞龍寺奉納刀と同時期・同一作者による薙刀
利常公はお孫さんで幼い藩主(加賀守綱利、後の綱紀卿)の元服の歳の承応3年に藩内の刀工22人に各1刀を謹作せしめて、刀工名と承応3年8月吉日を刻して高岡の瑞龍寺に寄進しました。現存するのはわずかに2振といわれています。『微妙公御直言』には「御領国所々の大社の内に御籠物として御刀等仰せ附けられたのは、加賀守武運長久の為である」とかかれていますが、近時、当社にて、瑞龍寺奉納刀の作者22人の一人である藤原家忠による薙刀が発見され、『微妙公御直言』の記載を証拠づける初めての御籠物であることが判明しました。2018年に初展示し、利常公小松城入城380周年記念として、研師の柏木良先生に委嘱して研いでいただいた品を昨年の宝物館公開にて初展示しました。今年に入り、石川県立歴史博物館の広報誌「石川れきはく」の137号に学芸員の野村将之氏による資料紹介「前田利常書状 浅野藤左衛門宛」が掲載されました。利常公が、寛永20年より万治2年6月まで小松町奉行を務めた浅野藤左衛門にあてて「家忠が薙刀一振を献上したことに対して礼を述べている」との書状です。
この書状については、書かれた月日が「卯月七日」と、年号がかかれていません。ただ、利常公への献上刀が当社奉納刀とおなじ「薙刀」であることから、初代家忠から献上された薙刀をご覧になって、この献上刀に「承応三年八月」の年紀をいれさせて当社に奉納したか、ないしは、同様の薙刀を新らたに作らせて当社に奉納したかのどちらかの可能性が考えられます。卯月(旧暦四月)から作り始めても旧暦八月には完成しているとおもわれますので、後者の可能性が高いようには思えます。この書状の書かれた年が承応3年ないしそれ以前であれば、後者の可能性が高くなると思います。瑞龍寺への奉納が総て刀剣であるのに、当社へはなぜ薙刀か?の疑問にせまる書状の発見です。
本ブログ2020.10.28 「承応3年銘の薙刀の刃文よみがえる」などを参照ください。
<駐車場紹介>
下記の茶色表示のように、仮設駐車場4ヶ所を準備いたしましたが、駐車可能台数が限られていますので、極力、徒歩やタクシーにてお参り頂きますようにお願いいたします。また、天満橋から鳥居にいたる坂路は歩行者もおられますので車での通行の際は、歩行者に注意して減速して通行下さい。仮設駐車場での事故は責任を負いかねますので、注意して駐車下さい。
追記:絵図1と交通安全との関わり
絵図1を北から南に歩んでみます。梯大橋をわたり下泥町、上泥町、松任町から京町へ右折して進むのが、北国街道です。明治時代中頃以降に北陸線が開通して小松駅が出来た関係で、現在では松任町から細工町に直進して進む道がよく使用されますが、細工町の左側には上宮寺さん、本蓮寺さんというお寺さんを通過して進みます。、そこが現在では隘路になっています。ただ、南側から本蓮寺さんの前を通っていくとやや広い空地があるお陰で、そこを利用してこの隘路部分を通過できますので、随分と運転手にとっては交通安全確保に役立っている広場です。絵図1より、藩政期には「本立寺」というお寺さんがあったことがわかります。本立寺さんの旧地がそのまま空地(おそらく公有地)として現在に引き継がれているようです。このことを知りながら、この隘路部分を通過することは運転手各位の交通安全に大いに資することになると思います。
]]>(検温で37.5度以上の方は入場お断り)
の条件のもとで、10月7日(金)と10月8日(土)の二日間、時間は午前10時から午後4時の間で宝物館を公開いたします。
展示内容
1)瑞龍寺奉納刀と同時期・同一作者による薙刀の展示
利常公はお孫さんで幼い藩主(加賀守綱利、後の綱紀卿)の元服の歳の承応3年に藩内の刀工22人に各1刀を謹作せしめて、刀工名と承応3年8月吉日を刻して高岡の瑞龍寺に寄進しました。現存するのはわずかに2振といわれています。『微妙公御直言』には「御領国所々の大社の内に御籠物として御刀等仰せ附けられたのは、加賀守武運長久の為である」とかかれていますが、近時、当社にて、瑞龍寺奉納刀の作者22人の一人である藤原家忠による薙刀が発見され、『微妙公御直言』の記載を証拠づける初めての御籠物であることが判明しました。2018年に初展示し、利常公小松城入城380周年記念として、研師の柏木良先生に委嘱して研いでいただいた品を昨年の宝物館公開にて初展示しました。今年に入り、石川県立歴史博物館の広報誌「石川れきはく」の137号に学芸員の野村将之氏による資料紹介「前田利常書状 浅野藤左衛門宛」が掲載されました。利常公が、寛永20年より万治2年6月まで小松町奉行を務めた浅野藤左衛門にあてて「家忠が薙刀一振を献上したことに対して礼を述べている」との書状です。
この書状については、書かれた月日が「卯月七日」と、年号がかかれていません。ただ、利常公への献上刀が当社奉納刀とおなじ「薙刀」であることから、初代家忠から献上された薙刀をご覧になって、この献上刀に「承応三年八月」の年紀をいれさせて当社に奉納したか、ないしは、同様の薙刀を新らたに作らせて当社に奉納したかのどちらかの可能性が考えられます。卯月(旧暦四月)から作り始めても旧暦八月には完成しているとおもわれますので、後者の可能性が高いようには思えます。この書状の書かれた年が承応3年ないしそれ以前であれば、後者の可能性が高くなると思います。瑞龍寺への奉納が総て刀剣であるのに、当社へはなぜ薙刀か?の疑問にせまる書状の発見です。
2)絵図ミステリーハンターへのいざない(安政5年特集展)
今回の展示の目的は二つです。
B.
絵図1は、南北に長い小松城下町の全体(北端の当社から南端の多太八幡宮まで)を描く絵図であり、また、一例として、現在「猫バシ」という地名だけが残っている場所が龍助町から本折町にゆく途中に存在します。実は、「猫バシ」とは水運に使用された小河川にかけられた橋であることが明記されているなど藩政期の町並みがよく描かれています。また、安政5年には久しぶりに加賀藩主が東海道廻りで江戸から帰国した年ですが、この帰国に際して作成された道中案内絵図(当日展示)にも、絵図1にも、藩主が小松から松任への帰路に使用された「湊往来、湊街道」が明記されていることも展示されます。この箇所の画像を以下に表示:
<駐車場紹介>
下記の茶色表示のように、仮設駐車場4ヶ所を準備いたしましたが、駐車可能台数が限られていますので、極力、徒歩やタクシーにてお参り頂きますようにお願いいたします。また、天満橋から鳥居にいたる坂路は歩行者もおられますので車での通行の際は、歩行者に注意して減速して通行下さい。仮設駐車場での事故は責任を負いかねますので、注意して駐車下さい。
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奉納行事場所近くには、文政二年(1819)当社より金沢観音院への出開帳時に桃とともに奉納された唐金造六角釣灯籠が見下ろしています。
奉納者は藩政期に金沢・浅野川南側近くの鍵街在住の醉墨洞社長 高田 魯により奉納されたものです。鍵街は明治4年に上新町に編入され、現在は金沢市尾張町二丁目になっています。文政二年より八年前に作成された文書(金沢市立玉川図書館近世史料館蔵)では、家数は21軒で高田姓は手跡指南(手習い師匠)の高田専悦一人です。奉納者のお仕事は手習い師匠のもとで学習する子供たちの筆や墨などの書道具を扱うお店の主人のようですから、手跡指南の専悦さんとゆかりの親族と推定されています。この釣灯籠は鬼退治や悪霊退治ゆかりの桃とともに奉納されましたが、悪筆や学業からの逸脱心を退治する願いにも通じ、コロナ禍無事収束の願いにも通じます。金沢観音院での出開帳での奉納以来203年振りの金沢のお子さん方々によるゆかりの奉納行事といえます。
法螺貝演奏につづき、楽太鼓と横笛の演奏にあわせて、少なくとも我が国では当社のみに現存すると推定されています小松市指定文化財の石塔「十五重塔」の文字と筆塚に刻された「天心在梅花」の二文字の楷書体での揮毫が書DOLLの皆さんによってなされました。下図はその模様を示す写真です。
なお、奉納された揮毫書は、8月14日まで境内に展示されていますので、ご参詣の折にご覧ください。
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この時の水位は3.7mでした。
また、その時の当社境内(神門東側)の冠水状況を示すのが図2です。
排水路も整備されておらず、境内周辺域が矢板で囲まれていた工事中の状況写真です。
8月4日の豪雨は石川県河川総合情報システムの加賀南部雨量一覧表から、小松市白江町にある南加賀土木総合事務所での雨量観測では、8月4日午前1時の累積雨量22mmから17時までの累積雨量355mmと、16時間に333mmと平成5年7月29日の雨量をはるかに上回る雨量が線状降水帯の滞留によってもたらされました。その結果、埴田地点の水位は8月4日午後1時に5.89mと平成29年7月の最高水位5.23mを上回る水位を観測しました。
8月4日は午前10時から筆供養神事、午後11時から奉賛会員祈願祭、正午から小松天満宮持宮地域戦没者慰霊祭と夏祭り行事が目白押しで、神職は神殿にこもりきりで外出できませんでした。ところが筆供養は通常は筆塚の前にて神事を執り行うのですが、今回は降雨のため、神事は神殿で行いました。その後に筆塚でのお焚き上げを行う予定でしたが、筆塚周辺が水没していて土砂降りで不能ということで、後日に延期して社務所側にて執り行うことにいたしました。
図3は、夏祭りの齊行された神殿に供えられた古流柏葉会の小松支部会員による献華をです。
左勝手にいけられています。主たる花材のまゆみでもって、天の枝がやや左方向にたわんで伸びて、地をあらわす「受」の枝が左下方に、天と地の恵みをうけて栄える人をあらわす「流」の枝が右側中段に生けられています。「真前」にはニュウサイ蘭の葉とリンドウの紫でもって彩をそえ、初秋の白色をユリの花で活けていただきました。
すべての祭典の終了した午後2時過ぎに境内周辺の写真をとりにでかけました。 図4は午後2時半に撮影された当社に隣接する小松大橋付近の水位状況です。小松大橋よりやや下流の牧観測点での水位が午後2時で3.19mと1時間単位でこの日の最高水位でしたから、図4の小松大橋での水位状況は、この日の最高水位に近い状況を示しています。
小松大橋の橋桁の水位をみると平成25年7月の豪雨時と同程度の水位にみえますが、当然ながら降雨量ははるかに大きかったですから、河川改修によって河川の流下能力が増大したおかげと思います。このことを理解するのに役立ちますのが、次の図5と図6です。図5は、河川改修によって建設された梯川(小松天満宮)分水路の午後2時半頃の水位であり、図6は分水路の構造図です。
分水路の神社側(写真の向かって右側)の擁壁は天端より4段下がると平場になり、その下に深さ4mの水路が建設されています。この水路は梯川の水深と同水深になるように建設されていますので、図5にみえる水位は梯川の水位と同水位です。それゆえ、図5の水位がわかれば、図1の時の水位3.7mとの比較が可能になります。
図5の水位は天端から1段さがり、その下の2段目の下部あたりにあります。図6より平場のところでの水位が1.51m、擁壁1段目と2段目が接続する箇所での水位が4.38mですから、格段の高さは0.956m、2段目下部での水位が3.42mとなります。
図1の平成25年時の水位3.7mと同水位になるためには、2段目の下部から29%程度、水につからねばなりません(2段目の高さ全体を100%として)。ほぼそれに近い水位にみえますから、平成25年度で洪水水位と同程度の水位が小松大橋で観測されたと推定されます。それゆえ、梯川の流下能力増大に、河川改修による分水路の建設が貢献していることを今回の豪雨が顕示しているといえます。
午前中に筆塚周辺の参道が冠水していた当社境内の午後3時前には、下図が示すように参道全体は冠水していません。
これは河川改修によって排水路と排水機場が整備され、排水機場内の排水槽の水位が一定以上になるとポンプが作動して境内から河川に排水される仕組みになっているため、午前中にはいまだ排水槽の水位がポンプ起動水位に達していなかったためにポンプが作動せず、そのため筆塚周辺が水没していたことが判明しました。
河川改修工事の大切さを実感させていただいた一日でしたが、梯川の支川であります鍋谷川や滓上(かすかみ)川が梯川に合流する地点付近の古府町や中海町では河川の越流などにより甚大な被害が出ています。早期の河川改修事業等の洪水防止策が講じられますことを祈念いたします。
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下図は、梯川流域を対象地域として、安宅海岸から小松城跡、加賀国府、そして遊泉寺銅山跡を結ぶ全長10キロの「梯川ミズベリング」による散策・おもてなしの景観づくり構想をまとめたものです。
図中に二つの黄色の○印があります。左方のは小松城本丸櫓台跡を、右側のは、加賀国府跡地内にある利常公灰塚を示しています。大化の改新(645)から大宝律令(701)制定にかけて国の行政組織が整備されていきましたが、それとともに、地方ごとに政治の中心となる「国府」が設置されていきました。最終的に68の国府が出来ましたが、その最後に、加賀国が823年に越前国から分国して立国しました。その加賀国府跡と推定されている場所が小松市国府町地内にあり、その中に利常公のご遺体を荼毘に付した跡(灰塚)があります。
本ブログの付録に詳しく説明しますように、本丸櫓台上からお彼岸中日の日の出を仰ぎますと、ちょうどその日の出方角に灰塚のあることが判明しています。お彼岸とは先祖や先人の遺徳をしのぶ日ですから、灰塚をもうけるには大変よい場所といえます。これからは暑い日がつづきますが、すずしくなるのを待ってウオーキングに挑戦してみてはいかがでしょうか?
なお、小松には歴史上、3つの大きな街作りがありました。古くは2200年前の日本海を行き交った弥生の宝石{碧玉の管玉}などの生産拠点であった「八日市地方遺跡」、1200年前の加賀国立国にともなう加賀国府の整備、それと400年前の利常公による小松城の大規模改修と現代につづく小松の街作りの三つです。
利常公は「八日市地方遺跡」のことはご存じなかったと思われますが、加賀国府のことは国司の後継者として、ご存じだったと思います。小松城での一大藩政改革の「改作法」を執行するのに手となり足となって働いた品川左門を遺骸に供奉する人として指名するなど手はずを整えておられた利常公ですから、小松城と国府跡との位置関係もご存じの上で、荼毘の地としてこの方角を選ばれたことがうかがわれます。
付録
2015.3.16付けの本ブログ「小松城跡の現状を憂うる」で紹介しました本丸櫓台への登台禁止措置が令和2年末に解除されました。藩政期にはこの櫓台上に三階(二階は中二階になっていた)建ての櫓が聳え、櫓の玄関口は北方にありました。図1は、登台禁止であった櫓台北西角の階段に仮設階段を設置したものです。図2はこの階段を上り、玄関のあった北から南をみた本丸櫓台上の現状を撮ったものです。
図3 の赤丸印は、櫓台上に設置された二等三角点を示す石であり、これを拡大したのが図4です。
この石の表面には真北を示す十字が刻まれています。図4の青点線は、真北と真南を結ぶ子午線を示しています。図4は、櫓の玄関口のあった北方から櫓台の向きに沿って撮影しています。赤線は櫓台の向き方向を示しています(図の線はおおよその線)から、この櫓台の向き(方位)は真北から時計回りに約13度偏っています(『新修小松市史、資料編1』417-419頁による)。磁石の北(磁北)と真北との差は偏角といい、1600年頃から1650年頃まで東への傾き(東偏)が大きくなり、その後は偏角の値は減少して1800年頃には磁北と真北とはほぼ一致、その後は現在にいたるまで西偏しています。ただ、1600年代中頃に大きくなっても10度には届かない値である( 考古学と自然科学、第5号の渡辺直経, 1972論文参照)。櫓台の向きが真北から東に13度偏っているということは、この櫓台の向きが磁石の磁北に合わせて決められたとは考えられません。何を意図して櫓台の向きが決められたと思われるかについては、本ブログ(2020.2.18日号、2011.3.23日号)を参照ください。
彼岸入りの昨日は東の空に雲がかかっていましたが、今日3月18日は快晴の日の出を拝する事が出来ました。6時15分に本丸櫓台からのの日の出風景を示したのが図5です。
今日3月20日も晴天の朝となり、6時12分きっかりに本丸櫓台の三角点前からとった日の出の写真が図6、丸印が日の出の位置です。3月18日の日の出位置よりはやや北側にシフトしています。
小松高校の体育館の上方に連なる白山山系を越えて上る日の出をみることが出来ます。この時の太陽高度をインターネットサイト「国立天文台・暦計算室・こよみの計算」で求めてみますと、高度2.2度と求まり、日の出の方位角(真北からの角度)は、91.7度と求まります。真東近くから昇ってくることがわかります。
ここからが面白いところです。昨年10月に小松市指定文化財に登録された文化財の中に「前田利常公灰塚」があります。万治元年(1658)10月12日に小松城にて薨去された利常公のご遺体を荼毘に付した地に、その遺灰を集めて作られた灰塚であります。小松市街地から産業道路に出て右折してしばらくゆくと右側にあります。図7はその外観です。図8は昭和29年9月に国府村によって灰塚の上に立てられた標柱で小松城の方角に面しています。また、前田家13世の前田斉泰卿により建立の石碑にかかれた灰塚の由来は、説明板の裏側に復刻されています。
Googleマップでこの灰塚の地点の緯度経度を調べますと、(東経36.410792, 北緯136.509193)と求まります。国土地理院の「測量計算・距離と方位角の計算」サイトに、小松城跡の二等三角点と灰塚の緯度経度を入力して方位角を求めますと、真北より91.4度と求まります。これは、小松城跡・本丸櫓台上から眺める彼岸中日の日の出の方角(91.7度)にほぼ一致します。
以上
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現在、石川県立歴史博物館では「大加州刀展」が開催されています。
石川県立歴史博物館では、定期的に展示更新している常設展のみどころや学芸員の研究活動などの情報を満載した広報誌「石川れきはく」を発行しています。その最新号、No.137に学芸員の野村将之氏による資料紹介「前田利常書状 浅野藤左衛門宛」が掲載されました。『新修小松市史 史料編1 小松城』239頁より、浅野藤左衛門は、寛永20年より万治二年六月まで、小松町奉行を務めています。今回紹介された書状は、加賀藩三代前田利常公が「加賀藩士(小松町奉行)の浅野藤左衛門に宛てたもので。。。「金城ノ鍛冶」家忠吉兵衛が「薙刀一振」を献上したことに対して礼を述べている」。ここでいう家忠吉兵衛とは、当社薙刀の作刀者である家忠のことです。初代家忠と判断する古文書とあわせて書状の詳細は、「石川れきはくNo.137号」untitled (ishikawa-rekihaku.jp) をご覧ください。
この書状については、書かれた月日が「卯月七日」と、年号がかかれていません。ただ、利常公への献上刀が当社奉納刀とおなじ「薙刀」であることから、初代家忠から献上された薙刀をご覧になって、この献上刀に「承応三年八月」の年紀をいれさせて当社に奉納したか、ないしは、同様の薙刀を新らたに作らせて当社に奉納したかのどちらかの可能性が考えられます。卯月(旧暦四月)から作り始めても旧暦八月には完成しているとおもわれますので、後者の可能性が高いようには思えます。この書状の書かれた年が承応3年ないしそれ以前であれば、後者の可能性が高くなると思います。瑞龍寺への承応3年8月銘の奉納が全て刀剣であるのに、なぜ、当社へは薙刀であるかの疑問も氷解しうる重要書状の発見でもあります。
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当社境内の梅の花は、例年ですと2月初旬から中旬にかけて梅園の桃色の梅の花が最初に咲き出します。
つづいて2月中旬以降に、濃い紅色の梅の花が咲き出します。
最後に2月下旬から3月初旬にかけて白梅が咲き出し、遅咲きの白梅は3月下旬頃まで観賞できます。
ところが、今年は2月下旬頃まで降雪や寒い日がつづき、3月10日以降に急にあたたかくなったせいか、一度にこの3種類の梅花が鑑賞出来る大変珍しい年となっています。
次のは 天満宮(梯川)分水路・輪中堤遊歩道からとられた東参道沿いの白梅と梅園の紅梅の画像です。
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相輪をもたない(仏塔ではない)十五層石塔の現存は、少なくとも我が国においては現在までのところ当社のみです。小松天満宮七不思議のうち、解明されていなかったのは「なぜ十五か?」のみでしたが、ようやく解明にいたりました。まず、図1は当社十五重石塔を西側から見たものです:
1) 黒岩重人論文:十五は「河図」の中央の数
七不思議の最初の「小松城(本丸艪台に二等三角点)と金沢城(三等三角点)を結ぶ一直線上に小松天満宮が立地している」ことを発見された陰陽五行研究家の黒岩重人氏は、平成3年((1991) 発行の「小松天満宮だより」第7号への寄稿論文「十五重の石塔の意味するもの:陰陽五行の視点から」において、十五重の塔に秘められた意味を4点にまとめられた:
1-1) 社地の中央に建てられており、「中央の土」に象ったものである。
1-2) その形は「天円地方」の天地を準えたものであること。そしてそれは、河図の中央の「天五・地十」の数を導き出すものであること。
1-3) そして「十五」の数は、太陽(天)と太陰(地)の合数であり、さらにそれは,
河図の「天五・地十」の数、および洛書の鬼門線の八・五・二の「土気の数」に基づいていること。
1-4) 以上の3点は次のことに集約される:小松天満宮の社地は、低湿地帯に盛土をして造成されたものであることがボーリング調査によって明らかになっている。それゆえ、「土気は水気に勝つ」との五行の相克説にもとづき、土気を強めて社地を水気から守るために十五層の石塔を建立した。
ここでは河図について概略説明する。河図とは、中国太古の王である伏羲の世に、黄河から龍馬が背中に背負って出てきた図象といわれるもので、図2の白丸(陽に対応)と黒丸(陰に対応)の組み合わせで表現される。地上の世界が、東西南北の四方位(四正)と中央からなり、各方位に、この世の物体を構成する五要素である五行が割り当てられている。南には「火気」が割り当てられ、それは、陽数(天数ともいう)7と陰数(地数ともいう)2の組み合わせによって象られます。北には水気と(天数、地数)の(1,6)が、東には五行の木気と(3,8)が、西方には五行の金気と(4,9)が、中央には五行の土気と(天数5、地数10)が割り当てられています。各方位への天数、地数の組み合わせは儒教経典の一つである「易経」の注釈書である「繋辞上伝」に述べられています。
2) 1991(平成3)年から2007(平成19)年までは黒岩論文がファイナルアンサー
黒岩論文の4要点のうち、要点C)は、「洛書」の数字を引用しています。ここで 「洛書」とは、遺跡発掘等から存在が確実視されている中国最古の王朝である夏王朝初代「禹王」の時に、洛水から霊亀が背中に背負って出てきた図象といわれているものです。南を上にして図示したものが、図3です。白丸が陽数に、黒丸が陰数に対応しています。河図と同様、陽数は奇数で、陰数は偶数で表示され、各数字は八方位と中央に割り振られています。
白丸(陽数)は奇数に、黒丸(陰数)は偶数に対応していますから、洛書は数字で表示することができ、それが図4です。亀の頭を南方位にして、9つの数字によって図示されています。
縦方向、横方向、対角方向の3つの数字の和がすべて同じ(ここでは15)になっていますから、魔方陣の一種です。黒岩論文のC) でいう鬼門線とは、数字の(2,5、8)の対角線のことですが、ここで、番号2が小松城(の主である利常公)に、番号5が十五重の石塔のある小松天満宮に、番号8が金沢城(の主である五代藩主綱紀卿)に対応しています。小松城―小松天満宮―金沢城が、2.5万分の一の地図上でも一直線上に立地していることと利常公の生まれ年の九星が「二黒土星」、綱紀卿の生まれ年の九星が「八白土気」と中央の数字五の九星が五黄土気であることから、黒岩論文の要点C)は確かに要点をついたものであり、黒岩論文が「なぜ十五か?」のファイナルアンサーであると思われていました。
3)新たな事実の発見
図5は、昨年10月28日付けの当社ブログでも紹介した図です。
図5の赤線で表示した神門中心(点A)―十五重塔中心(点B)―拝殿前列中央(点C)が一直線上に配置されていることに加えて、A-Bの長さとB-Cの長さの比率が6対4であることが社務所による調査で明らかになったのは2007年(平成19年)のことでした。この配置と比率が、図4の洛書と儒教の経典であります「書経」の「洪範篇」に記された君主の守るべき九つの大法に関係していることは推察されましたが、詳細は不明のまま15年近くの歳月が流れました。
昨年、この直線が、五代藩主綱紀卿の元服年であります承応3年9月18日(陰暦)をグレゴリオ歴に換算した10月28日の日の出線に対応していることが判明しました。この9月18日という日は、三代将軍家光逝去をうけて承応に改元した日であります(昨年10月28日付けの当社ブログ参照)。これがきっかけとなり、ファイナルアンサーに至るミッシングリンクが見つかります。
4)さらなる新たな事実の発見
改元の時には、漢籍の中からふさわしい元号名と出典名を勘申者から朝廷・幕府に申告します。
当社建立年は、四代藩主光高卿が齢31(数え)で早世してから13回忌にあたり、五代藩主綱紀卿が15(数え)歳になる明暦3年です。明暦への改元理由は後西天皇即位によるものですが、勘申者は道真公の子孫の従三位・大学頭・菅原為庸です。出典は中国前漢時代のことを記した歴史書『漢書 律暦志』中の以下の文章:
「箕子言、大法九章、而五紀 明歴法」
および「歴」と「暦」が同じであることを記した『後漢書』の文章:
「黄帝造歴 歴与暦同作」
です。我が国最古の史書である『日本書紀』もそうですが、歴史書を編むためには、王朝最初の王が何年に即位したかを記さねばなりません。そのためには暦を作成して、それを過去に遡らせねばねばなりませんから、歴と暦は同作となります。元号の「明暦」は「明歴」と「歴与暦同作」から勘申されたことがわかります。前者の『漢書 律暦志』の文章を仏教大学図書館デジタルコレクション『漢書』巻21で原文を閲覧してみますと以下のようになっています:
「至周武王訪箕子 箕子言、大法九章、而五紀 明歴法」
この文章には孟康と顔師古(中国・初唐の学者)による以下の注記が小文字で記されています
「孟康曰 歳月日星辰 是五紀也
師古曰 大法九章 即 洪範九疇也
其四曰 協用五紀也」
これにより、「書経」の「洪範篇」に記された君主の守るべき九つの大法のことが利常公はじめ政治に携わる藩主層には知られていたことが判明すると共に、図五に示す神門中心(点A)―十五重塔中心(点B)―拝殿前列中央(点C)が一直線上に配置されていることが、図4の洛書と儒教の経典であります「書経」の「洪範篇」に記された君主の守るべき九つの大法に関係していることが明らかになりました。
4-1) Bの長さとB-Cの長さの比率が6対4で、十五重石塔の立地位置が洛書の中央(社地の中央)の数字「5」に対応し、九つの大法の五番目が「中庸にのっとって、依怙贔屓なく公平に政を行う」に対応していることから「5の位置を秤の支点としますと、点Aに重り4を吊り下げ、点Cに重り6を吊り下げると秤は平衡を保つ」ということです。九つの大法の第四番目「五紀を協用して政を行え」が神門に対応し、九つの大法の六番目「時に応じて三徳に留意して政を行え」が拝殿前列中央(点C)に対応していることがわかります。ここで「五紀」とは年の巡りを記す「歳」、月々の巡りを記す「月」、日々の巡りを記す「日」、二十八宿といった星の巡りと日・月の巡りを示す「星辰」、暦を定める「暦数」のことです。また、三徳とは「正直」、「剛毅」、「柔克」のことをさします。「世の中が平らかに治まっているときには、心を正直(せいちょく)にして物事に対処すること」、「我儘な輩が勢力をもっているときには、剛毅な心持で不正をただしていけば世が平らかになる」、「皆がやさしく睦あっていく世ならば、やさしい心で皆と親しんでいけば万事支障なく物事が行われる」を指し、まさしく君主の政の留意点を示しています。
長さの比率が6対4ということは、比率が3対2でもよいことになりますが、(2,5,3)の和が15にならないことから当初は外しましたが、その後、神門中央を通る冬至の日の出線の事実が明らかになりました。図6は、平成24年の冬至(12月21日)の日の出が神門中央から差し込む様子です。
冬至とは中国古代王朝の暦作りにおいて一年のはじめに指定された日であり、太陽が天球上の28宿といった星々の間を一年かけて一周する道(黄道)で北半球から最遠点のことですから、まさしく第四番目の大法「五紀の協用」に合致する日といえます。この事実の発見により、長さの比率が6対4でなければならないことが判明しました。
このように、将来を期待されて早世された四代藩主光高卿の忘れ形見であり、十五歳になられた五代藩主綱紀卿がよき藩主となられることを祈念しての配置といいえます。ブログも随分長くなってしまいました。十五重石塔の真南に小松城水口があることとのかかわりの説明は、ご参詣のおりに十五重塔近くの説明板をご覧ください。関連して、利常公所持と推定される我が国最古の作庭書である『作庭記』依拠の代表的な庭園であります平泉の毛越寺庭園もぜひご観賞のうえ、大坂の陣後の偃武の時代に、一国一城制の例外の城のうち、ただ一つ天守閣(武の城の象徴)ではなく、本丸櫓台の上に風流な建物をたてて、金沢城の二倍の敷地に縦横に堀をめぐらした浮き城を築き、文化の城であることを印象づけた、在りし日の小松城の遣り水など作庭の特徴に思いをはせていただければ幸いです。
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JUGEMテーマ:初詣
コロナ感染症感染拡大防止の為、初詣について当社は以下の対応を取ります。
?縁起物(熊手・破魔矢等)の授与は12月27日(月)から始めます。
?1月1日から3日までの間、境内一方通行(左側通行)を実施致します。授与品は「行き」にお求めいただいてから社殿方向にお進みください。
?参拝者と直接対応する場所においては飛沫感染防止の為にフィルムやアクリルボードを設置致します。
?神職や巫女、職員はマスクを着用致します。
?境内各所に手指消毒用のアルコールを設置致します。
?御祈祷については、1グループ(家族)2名までとし、殿内の最大人数は4グループ(8名)までと致します。
?社殿内の換気に留意し、空気清浄機を設置致します。
?直会のお神酒は取り止めと致します。
?御朱印は全て書き置きでの対応とさせていただきます。
?従来のみくじ掛けを撤去し、手水舎にみくじ掛けを設置します。
特に、御祈祷については例年ご家族様全員での昇殿となっておりましたのでご不便をお掛け致しますが、ご理解ご協力のほど、宜しくお願い申し上げます。
初詣対応(その2):初詣期間中の開閉所時間について
<御祈祷・本殿>
大晦日 0時〜1時半
1月1日 8時〜18時
1月2日 8時〜18時
1月3日 8時〜17時
<授与所・お守り、お札の授与>
27日から31日 9時〜15時
1月1日 0時〜2時
6時〜19時
1月2日 8時半〜18時
1月3日 8時半〜17時
初詣対応(その3)初詣臨時駐車場のご案内
初詣期間中は梯川分水路にかかる天満橋からの車両通行は出来ませんので、徒歩にてお参りください。また、下記のように、臨時駐車場3ヶ所(P1,P2、P3)を準備いたしましたが、駐車可能台数が限られていますので、極力、徒歩にてお参り頂きますようにお願いいたします。3ヶ所の臨時駐車場は大晦日から正月3日までご利用いただけます。警備員が誘導する際には、その案内によりご参詣ください。
臨時駐車場概略図
以下に各臨時駐車場の現況画像を示しますので参考にしてください。
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この線(拝殿・石塔・神門線)は本日 10月28日の日の出線であり、この日の出線に沿って3つの指定文化財建造物が並んでいることが判明しました。図2は、本日の日の出時刻6時31分に拝殿・石塔・神門線上と思われる位置から日の出を撮影したものです。図3は、図2をとった後に振り向いて石塔方向をとったものですが、点線でしめした赤○は撮影者の影が石塔中央に写っている様を示しています。
では何故10月28日なのでしょうか? 承応元年(1652)となった改元の日は9月18日ですが、承応元年時点では当社の造営工事は開始されていません。当社造営のための地盤改良工事の完成したのは、利常公が家忠に作らせた薙刀や藩の重臣達より釣り鐘灯籠や金属製の花器が奉納された承応三年と推定されていますが、この承応三年9月18日を現在使用されているグレゴリオ暦に換算した日が10月28日というわけです。
承応元年の前年の慶安四年四月には三代将軍家光が逝去し、この年から加賀藩最大の藩政改革である改作法が開始されています。承応三年正月十二日には五代藩主である犬千代君御歳11歳にて元服し、加賀守四位少将に任官しています。加賀藩にとっても新たな御世の始まりであり、当社造営が本格化する歳でもありました。この目出度い承応改元の日の日の出にあわせて当社の主要建造物の配置をきめられたと推定されます。冬至の日の出線、承応改元日の日の出線、小松城水口の真北といった連立方程式を解く形で、当社の指定文化財であります社殿、十五重石塔、神門の配置や大きさが決められたことがわかります。ちなみに、利常公は承応三年4月には江戸より小松に帰国されていますから、現地で今日の日の出をご覧になっておられたものと推察されます。
アフターコロナの新た世の到来を多くの方々が願われている今年という歳にこのことが判明して本当によかったと思います。残る謎は何故十五かのみとなりました。
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(検温で37.5度以上の方は入場お断り)
の条件のもとで、10月9日(土)と10月10日(日)の二日間、時間は午前10時から午後4時の間で宝物館を公開いたします。
展示内容
1)瑞龍寺奉納刀と同時期・同一作者による薙刀
利常公はお孫さんで幼い藩主(加賀守綱利、後の綱紀卿)の元服の歳の承応3年に藩内の刀工22人に各1刀を謹作せしめて、刀工名と承応3年8月吉日を刻して高岡の瑞龍寺に寄進しました。現存するのはわずかに2振といわれています。『微妙公御直言』には「御領国所々の大社の内に御籠物として御刀等仰せ附けられたのは、加賀守武運長久の為である」とかかれていますが、近時、当社にて、瑞龍寺奉納刀の作者22人の一人である藤原家忠による薙刀が発見され、『微妙公御直言』の記載を証拠づける初めての御籠物であることが判明しました。2018年に初展示しましたが、利常公小松城入城380周年記念として、研師の柏木良師に委嘱して研いでいただいた品を展示します。
2)明治維新の変化期を守り伝えられた宝物の紹介
2-1)絹本着色聖徳太子御像
今年は聖徳太子ご逝去千四百年の節目の年ですが、本像は、昭和十二年六月二十九日に「重要美術品」に指定されました。現存する作品の
多くは、太子信仰の盛行した鎌倉時代以降とされ、『新修小松市史資料編 美術工芸』では、本像は室町時代の十四から十五世紀の作とされて
います。
2-2)紙本墨書般若波蜜多経(般若心経)百巻(欠有)
本品は寛保三年(一七四三)に小堀定明によって奉納されたものです。定明の父の小堀永頼は小松町奉行を務め、天神画像(次ぎの2−2a)として展示)を奉納しています。般若心経は聖徳太子の命により遣隋使となった小野妹子が持ち帰ったともいわれていますが、第六講に「涅槃を究竟する」という文言があります。「人生には楽しいことばかりでなく悲しいことなどもある。そうした悲しみを詩にしていく余裕が出来ると、悲しみのままで受け入れていける心境になる。」という言葉です。菅公は大宰府に謫居された晩年に五言絶句の漢詩「偶作」をよんでおられます。これは天台宗で重んぜられた仏書「天台止観」の言葉「四山合わせ来たり、逃避する処なし」(四山とは老衰病死のこと)を念頭におかれて、「謫居の生活が始まると、老衰病の三賊におかされ、最後の死賊がやってくるであろうが逃れる処はない。死賊を思う度に観音助けたまえと念ずる」という内容の漢詩です。左遷の汚名をそそぎ、京都に帰ることを願われ、生きるというこだわりを捨てておられないところに菅公のお心の尊さをみると評されています。般若心経は菅公ゆかりといえます。ちなみに、神仏習合時代には菅公の本地仏は観音様といわれていました。
2-2a)絹本着色 天満宮霊像
享保九年(一七二四)から四年間、小松町奉行をつとめた小堀永頼(二千石)が享保十一年に奉納した天神画像です。藩政期は毎月二十五日に開帳したほど尊重された束帯天神像です。画像の上面には漢詩二首と和歌一首が記されています。
右端のは、七言絶句の漢詩です。菅公が太宰府にてご生涯を閉じられた延喜三年(903年)より九十年後の正暦四年(993)八月二十九日に、朝廷は菅公の曾孫の菅原幹正を太宰府に下らせ、安楽寺に参詣して、菅公に正二位従一位左大臣の官位を贈り給う位記の詔書を読み給いし時に、化現したと伝えられるお詩です。
このお詩の化現した翌、正暦五年に朝廷は菅公に正一位太政大臣の官位を贈られましたが、その時にご託宣と伝えられしお詩が真ん中の七言絶句の漢詩です。
左端のは、左遷の詔書をうけて京都を去るときにうたわれたとされる有名な和歌です。
2−3)「天満宮書幅」天保四年(一八三三)七月奉納
この書は菅家秘伝の書で、菅公の代より嫡々相伝されてきたもので、第二十六代の三日翁日徳により天保四年(一八三三)に、北野天満宮目代家(春林坊)において、三週間潔斎して書かれましたが、北野天満宮には現存しないものです。
石川県立歴史博物館における令和元年秋季特別展「加賀前田家と北野天満宮展」において、当社蔵の書幅と同一作者の三日翁日徳が天保九年(当社の書幅をかいた五年後)に書いた書を扁額にして金沢市の神社に奉納されたものが展示されました。「天満宮」の書体のうち「満と宮」にある雨文字、蛇文字、宝珠は当社と同様ですが、当社蔵の書には「天」の文字に、当社の十五重石塔にみられる蕨手(わらびて)と宝珠とともに、鳩文字が書かれているのが特徴です。展示では、何故、鳩が画かれているかについて、菅公の漢詩を参考にしての推理も紹介しています。
2−4)絵図面「教訓一代名所道知辺」
これは太宰府「安楽寺」にあった原本を安永五年(一七七六)に書写したものです。人の誕生から安楽寺に隠居するまでの人生行路の難所を教訓図で知らしめた絵図面です。出来るだけ原文に依拠してパネル化したものを展示いたします。太宰府天満宮には現存しないものです。本絵図の左上にかかれた和歌
「かせぎつつ思惟となさけを深くせよ。欲といろとにとかく迷うな」
が本絵図の要点といえます。
<駐車場紹介>
下記の茶色表示のように、仮設駐車場4ヶ所を準備いたしましたが、駐車可能台数が限られていますので、極力、徒歩やタクシーにてお参り頂きますようにお願いいたします。また、天満橋から鳥居にいたる坂路は歩行者もおられますので車での通行の際は、歩行者に注意して減速して通行下さい。仮設駐車場での事故は責任を負いかねますので、注意して駐車下さい。
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長期にわたる感染防止や自粛生活を余儀なくされている現在の状況は決して平常な世の中とはいえず、いわば「異界」を旅している状態といえます。古事記・日本書紀に語られる物語には先人の知恵が潜んでいるともいわれます。こうした物語には、神々や皇子たちが異界を旅して、より力強い人格でこの世に蘇ってこられるお話がいくつもあります。小松天満宮奉賛会員はじめ崇敬者各位が、このコロナ禍を三密回避・手指口消毒・マスク着用・ワクチン接種といった感染予防に留意してこれからもご健勝にお過ごしになられると共に、コロナ禍という「異界」の中に潜む将来の発展の機会を見つけられて、力強く蘇っていただくことをご祈念するとの社頭講話がなされました。
式典の斎行されました社殿には「古流柏葉会」の地元会員により「禮華」が奉納されました。
主花材のヒサカキの枝葉にいくつかのお花が添えられています。中央最下部には白色のトルコ桔梗が、その上にリンドウが、そのまた上にユリの花が飾られ、両脇にはベロニカの花が添えられています。
今年6月5日斎行の小松神社例祭・小松商工祭斎行のブログで紹介されました献華は、辟邪の願いを込めた「禮華」でしたから、孔雀の形をしていけられていました。それゆえ、ショウブの葉によって孔雀の尾が表現されていました。今回の「禮華」には尾がありませんから、生けた方のお話では自由花風の「禮華」とよんでおられましたが、一つの工夫がされています。この正面からの画像では見えませんが、主花材のヒサカキの背後に椿の葉がいけられています。 柳田国男は『雪国の春』所収の「椿の旅」の出だしを次のように書いています。「(秋田の)男鹿の風景のことに詠歎に値するのは、永い年代の目に見えぬ人の力が、痕もなくこの美しい天然の裡に溶け込んでいることである」と。縄文時代の日本列島に南方から弥生文化の代表である稲作が北方へと伝搬していく様を椿の木が物語っていることを示していると語っています。「禮華」にそれとなく潜んでいけられた椿の葉は、このコロナ禍に潜む新たな発展の機会を表象しているようで意義深い献華といえます。
す。
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「世界で最も美しい10の実験」の一つであるフーコーの振り子については、本ブログ2014.1.24号の「科学に親しむ」項目中で扱いましたが、最も美しい実験の上位に来てもよいと思うのに、空気の重さ(大気圧)の値=101.3キロ・パスカル、を求めたイタリアの物理学者トリチェリ(1608年生ま)による「トリチェリの実験」があります(ここでは説明しませんが、インターネットで「中一物理(トリチェリの実験)」などを参照して下さい)。本稿では、キルヒホッフの法則の実用例として、水位計の仕組みを紹介します。
本ブログ2011.6.1号「当社地下水が宙水とよばれる由縁」で紹介しましたように、「当社の地下水は周辺の地下水体とは分離独立して局所的に存在する自由地下水体(「宙水」とよばれる)」と推定されるものです。また、2014.1.9日号「地下水位の上昇と植生影響(その2)」の説明するように、「境内の地層は、地下5mまでの浅層に盛り土を含め、粘土・シルトといった細かい粒質の土層が層状をなしているため、降雨が地下深くに浸透しにくい地層になっています」。そのため、境内に降った雨が地下水位を上昇させるリスクがあります。図1は、境内二カ所の井戸のうち、本殿近くの井戸の地下水位の経年変化を示したものです。河川改修工事は平成24年から平成29年まで実施され、この間、境内境界は矢板によって囲まれ、排水路も仮設排水路の状態でした。境内樹木にとっては地下1m以内に地下水位が上昇すると、根腐れを起こし、樹勢を弱める原因になります。
境内の地盤高は2.34mであることを念頭に図1をみてみますと、特に、平成25年の7月以降にかけて地下水位が上昇していることがわかります。この年は、7月と9月に大雨が降り、特に、7月の降雨では当社より上流の埴田観測所において、観測史上最高の水位を記録する洪水となりました。平成25年12月になると、神門脇のタブノキ等の樹勢が悪化してきましたので、タブノキ近くに深さ1m程度の仮設の穴を掘って地下水位を見た時の画像が図2です。深さ40センチぐらいまで地下水位があがっていました。
図3は、河川改修による植生影響をみるためのモニタリング松3本のうち、境内入り口(鳥居内側)の1本と境内中央に近い手水舎北側の1本について、金沢河川国道事務所により平成23年より毎年実施している樹勢調査結果のうち、工事直前の平成23年、工事中の平成26年、工事完成後の令和2年について図示したものです。樹勢調査は、11の観測項目について、良好から不良までを目視により4段階評価しています。河川改修直前の平成23年には、すべての項目で良好です。平成26年には多くの項目で樹勢が大きく悪化しています。これは前述の地下水位上昇が大径木の根茎に与えた悪影響によるものと思われます。改修工事完成後の令和2年になっても樹勢の回復は、葉の大きさ、枝葉の密度、枝の伸長良などにおいて半分程度の回復度合いとなっています。それゆえ、樹勢調査と共に、地下水位の観測は継続していくことになっています。
さて、地下水位をはかるには、手作業では重りをつけた糸を垂らして、水にぬれた部分の糸をはかるなどして計測しますが、これでは連続測定は不可能です。それゆえ、当社境内井戸で使用されている水位計は、静止する水の圧力(静水圧)をはかることで水位を計測しています。
ところで、水深が判明しているときの静水圧の計算式は、静水圧を記号(Pa、パスカル)、水の密度を ρ、重力加速度をg、水深を H であらわすと
Pa = ρ x g x H
と書けます。ここで、ρ = 1.0 ton/㎥、g = 9.8 メートル/(毎秒の二乗)、H =5メートルとしてみますと、静水圧は49000ニュートン/平方メートル=49キロPa と求まります。ここで、ニュートン(N)とは、1キログラムの質量をもつ物体に、1メートル/(毎秒の二乗)の加速度を生じさせる力のことであり、質量1キログラムの物体に働く重力の大きさを表す力の単位のことです。
当社の変動する地下水位を連続計測するために使用されているのが水圧式水位計です。図4は、水位計の構成を簡単に図解したものです。
水位計開発のきっかけは、金属は変形すると電気抵抗が変化するという性質を見つけたことです。この性質を利用して開発されたのが、「ひずみゲージ」です。測定したい井戸内の静水圧(圧力)で金属片にひずみが生じ、それによって抵抗値が変化することによる電圧変化を計測することで、地下水の水深を計測しようというわけです。井戸の底に吊り下げられた水圧計の底部には、地下水の重さ(静水圧)だけでなく、大気圧(この大気圧は表水面の大気圧と同一値をとる)もかかってきますから、この大気圧を差し引いた静水圧だけを計測する仕組みになっています。
静水圧を感知する「ひずみゲージ」の電気抵抗変化を正確に計測するために使用される電気回路が「ブリッジ回路」です。イギリス人の科学者S.H.クリスティによって1833年に発明され、その後、1843年にイギリス人の物理学者C.ホイートストンによって広められたことから名付けられた「ホイートストンブリッジ回路」(下図参照、以下ブリッジ回路と略)です。この回路の仕組みを理解するのに使用されるのが、高校物理(電気回路)で学習する「キルヒホッフの法則」です(ちなみに、この法則は本ブログで紹介している「ホメオスタットの仕組み」の理解にも適用可能です)。
この図においてR1,R2,R3 は既知の抵抗、R4は「ひずみゲージ」からの電気抵抗を伝える可変抵抗、Viは既知の入力電圧、Ii,I1,I4 は各接点間を流れる電流値です。出力電圧Voの値から可変抵抗値R4の値を求めるのに使用されるのが二つの法則です。一つは、よく知られている電気工学の法則で、1826年にドイツの物理学者G.オームによって発表された「オームの法則」(電流と電圧の関係を示す)です。抵抗Rを通過して電流が流れている導体中の二点間の電位差を求める法則、V=RI(電流に比例し、比例定数を示すのがR)です。
もう一つが、プロイセン生まれの物理学者G.R.キルヒホッフ(1824-1887)の提唱した「キルヒホッフの法則」で、二つの法則「電流則」と「電圧則」からなります。前者は、「電気回路中の任意の接点において、電流の流れ込む方向をプラス、流れ出る方向をマイナスとすると、接点につながる複数の線の電流の総和=0」というものです。
これを適用するための補足ですが、出力電圧V0の測定器の抵抗は、ブリッジ回路で使用される4つの抵抗R1〜R4に比べて大きくとってあるため、電気回路中の接点間c−dに流れる電流は無視できるほど小さく、それゆえ、接点c−b間の電流=I1、接点d−b間の電流=I4 となります。
ここで、電流則を接点aに適用すると、
Ii – I1 – I4 = 0 (1)
同様に電流則を接点bに適用しても(1)式が得られます。
後者のキルヒホッフの法則の「電圧則」とは、「任意の閉回路に沿っての各部分回路の電圧の総和=0」というものです。入力電源Viと接点a-c-b からなる閉回路に電圧則を適用すると、
Vi = I1 R1 + I1R2 (2)
入力電源Viと接点a-d-b からなる閉回路に電圧則を適用すると、
Vi = I4 R4 + I4R3 (3)
(2)、(3)より二つの電流値が次のように求まります。
I4 = Vi / (R3 + R4) (5)
出力電圧 Vo は、接点cと接点dとの間の電位差ですから、
Vo = V(a-d) – V(a-c)
= Vi (R2R4-R1R3)/[(R1+R2)(R3+R4)] (6)
となります。ここで計算の簡単化のためだけに、ひずみ測定に使用されるブリッジ回路では、初期時点には、4つの抵抗値の値が同一値になるように設定されているとします。すると、(6)式より、初期時点の出力電流=0となります。これがひずみの無い時(井戸の表水面ではかった場合)の出力電流値です。
地下水中に計測器を投下させ、それにより「ひずみゲージ」と呼ばれる金属の抵抗線が伸ばされることにより可変抵抗値の値が微少に変化して
R4 ――――> R4 + ΔR
になったとします。すると (6)式は
Vo = [ΔR/(4 R + 2 ΔR )] Vi (7)
と書き換えられます。ここで、「ひずみゲージ」の抵抗変化が極めて小さい(微少な変化を感度良く測定出来るように「ひずみゲージ」を設計する)とすると、(7)式分母の2 ΔRは無視できますので
(7)式は
V0 = ΔR Vi /( 4 R ) (8)
となります。(8)式を用いると、出力電圧の値 V0 より「ひずみゲージ」の抵抗変化(ΔR)が求まり、これより水深を(連続的に)計測することが可能になります。
(7)式の示すように、抵抗変化が微小であることが要点であります。それゆえ、微少な抵抗変化を感度良く測定出来るように「ひずみゲージ」を設計(使用する素材を含めて)することが大切になります。この水圧式水位計の電源が乾電池であることを考慮すると、効率のよい「ひずみゲージ」の開発が重要になります。
備考:本ブログ作成にあたり、ヒヤリング調査に協力いただいた金沢河川国道事務所および当社の測量業者各位にお礼申し上げます。
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昨年の春先に発生しました世界規模での新型コロナウイルス感染症流行は現在にいたるも終息の気配が見通せない中ではありますが、三密回避に留意しつつ、恒例の筆供養祭、奉賛会員祈願祭、持宮地域戦没者慰霊祭の神事は、神職、関係役員のみ参列する形で無事斎行させて頂くことが出来ました。恒例の筆供養神事は通常は境内の筆塚前にて執行されますが、熱中症警報が発令中でもあり、今年は神事は社殿にて執り行い、古筆のおたきあげのみ筆塚にて斎行いたしました。
3神事の斎行されました神殿濱床には、古流柏葉会地元会員による直立型応用華の献華が奉仕されました。
新たな応用華の献華は、昨年の春祭り時にも奉納されましたが、コロナ禍退散を願う五色の花材が用いられています。真っ直ぐ高く生けられているユキヤナギの左下方に紫色のアガパンサス、その下に白色の柏アジサイ、その奥にピンクのりんどう(画像では隠れているが)、この三色は色が顕示されています。残りの二色は既に咲いたか、これから咲く花に秘められた色です。高く伸びるユキヤナギのやや右下にあるキソケイは黄色い花をつけ、根元近くのツバキはまもなく目に見える形で赤い花をつけます。
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しもつけの花の咲き始めた候の六月五日に、近世小松の街づくり・殖産興業発展に御力を尽くされた微妙院 前田利常公をお祀りする小松神社例祭「小松商工祭」が斎行されました。
昭和五年の橋北大火、昭和七年の橋南大火からの復興が進行中の昭和八年頃より、小松の商工業者の集まりでありました小松商工会の方々より、小松「商工祭り」開催の機運が高まりました。当時、別格官幣社尾山神社に合祀されていました利常公をお祀りする小松神社を当社にお招きして、商工祭を斎行さしていただきたいとの願いが成就して、昭和十二年、利常公が小松城に入城と伝えられる六月五日に小松神社の宮渡祭が斎行されました。爾来、六月五日に式典が斎行されているものです。
コロナ禍いまだ終息しない中にあって、本年も昨年同様、祭典には代表者各位として、小松神社の当社への宮渡りに尽力いただきました先達の方々の願いを引き継がれます小松商工会議所会頭殿、ご祭神のご事蹟をひきつがれます小松市長殿代理副市長殿、小松市議会議長殿代理副議長殿、また、利常公により建立されました当社の指定文化財建造物の維持管理に助力いただいています当社奉賛会長殿にご参拝いただき、風雅の道をたしなまれました利常公を偲び、古流柏葉会の地元会員による礼華の献花も備えられました。
礼華とは、害虫や毒蛇を食べる孔雀の形にいけるともいわれ、ショウブ、マユミ、アスナロ、小菊といった花材を、古流家元先生の意匠にもとづいて前田弥冨氏の制作した花器にいけていただきました。無病息災の利益をもたらすといわれる孔雀明王は孔雀の上にのり、手には孔雀の尾を持つ姿で描かれますが、礼華にも左上にショウブの葉によって尾が表現されています。ワクチン接種の速やかな進展によりコロナ禍克服を願う時宜を得た献花といえます。
式典後に宮司より、御祭神のご事績を偲ぶ講話がなされました。来年の高校教科改定により、世界史と日本史とを互いに関連づけて学習する「歴史総合」科目が新設されることになりました。歴史の見方への新動向をふまえて、利常公が慶安四年(1651)から明暦七年(1657)にかけて、小松城にて実施されました一大藩政改革であります「改作法」の意義を当時の全国的な動向であります「動乱、大飢饉、幕政の大転換」と関連づけて再評価する講話がありました 。
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参詣者各位よりこの掲額についてお尋ねがありますので、ここに回答いたします。漢詩本文の文字数は全部で28文字ありますから、ここには七言絶句の漢詩がかかれています。絶句は起句、承句、転句、結句の四句からなり、七言ですから各句は七文字からなっています。
御衣拜罷獨長嗟
身落紫溟天一涯
莫把江州司馬比
青衫徒自泣琵琶
山田長宜拝
作者の山田長宜(新川、太刀山人と号す)は『石川県史』第3編によれば、越中の人で、初め医学を志し後に詩にて一家を成し、又書を能くした方です。明治2年に金沢藩が招聘して藩校「明倫堂」助教となり、廃藩後に加賀本吉(現在の白山市美川町)に移居し、明治11年東京に遷り、明治三十八年七十九歳にて没しました。これよりすると、掲額の年は長宣が40歳前後の幕末から明治10年までの間と推察されます。
七言絶句の読み下し文は以下のようになります:
御衣 ( ぎょい ) を拝し罷 ( おわ ) り 独 ( ひと ) り長 嗟 (ちょうさ) す
身は紫溟 ( しめい ) の 天の一涯 ( いちがい ) に落つ
江州司馬を 把 ( と ) りて比すること莫 ( なか ) れ
青衫( せいさん ) 、徒 (ただ) 自(おの)ずから琵琶に泣く
漢詩文の理解には、関連する典拠の理解が不可欠ですが、この漢詩の場合は典拠が三つあります。一つは太宰府に左遷された菅公が一年前の昌泰三年(900)九月十日、朝廷で開催された重陽後朝の詩宴において菅公の読まれた「秋思」の漢詩に対して、感銘をうけられた醍醐天皇が自らの衣を脱いで菅公に与えられたことを思い出しての菅公の七言絶句です。下記に読み下し文を記してみます。七言の漢詩は二文字・二文字・三文字をひとまとめにして読み下すことが大事です:
去年の今夜 清涼に侍す
秋の思ひの詩篇 独り断腸
恩賜の御衣 今ここに在り
捧げ持ちて日ごとに 余香を拝す
もう一つは、中国唐時代の漢詩人 白楽天の漢詩「琵琶行」です。白楽天は西暦772年生まれで、29歳西暦800年の時、科挙の進士科に合格。44歳の西暦815年に時の宰相武元衡暗殺をめぐり、黒幕を調査すべきとの上書をなしたことを越権行為とみなされて江州司馬に左遷されてしまいました。左遷された一年後に、今は江州の商人の妻となっている女性が、若い頃に長安の都で妓女をしていた頃を思い出しながら琵琶を弾いているのを聞いて、作詩した七言古詩(十四句))の漢詩「琵琶行」です。 これは長文になりますので、ネットなどで内容をご覧ください。
三つ目は、昌泰三年八月十六日に菅公が菅家三代の漢詩集合わせて二十八巻を醍醐天皇に奏進されたことに対して、醍醐天皇の詠まれた七言律詩「右丞相の家集を献るを見る」です。律詩は、起承転結がそれぞれ二句からなる漢詩です。ここでは起句と結句のみを読み下し文で記してみます:
門風古(いにしえ)より これ儒林
今日の文華は みな悉くに金(こがね)なり
・・・・・・・
更に菅家の 白様に勝れること有り
これより抛(なげう)ちすてて はこの塵こそ深からめ
この律詩の結句が大事です。「奏進された菅家の家集には白楽天の詩の姿よりもすぐれたものもある。これからは白楽天の詩集は書箱の奥にしまいこんで見なくなってしまうであろう。」このように、菅公の詩と白楽天の詩とは当時からよく比較対象になっていたのです。
以上の準備のもとで、神門見返り掲額の七言絶句の漢詩を解釈してみましょう:
起句
御衣を拝しおへて 清涼殿で天子より戴いた頃を懐かしみ長嘆息する。
承句
身は時平の讒言により流されて南涯、筑紫太宰府の地に在る道真公。
転句
江州司馬(白楽天)ごときに比べること莫かれ
(起句にあるように「帝から衣をかけていただいた」高い位(右大臣)から左遷された菅公であるから、「皇太子つき一職員」の身分にて越権行為をとがめられて左遷された白居易とは位が異なるとの意で、比べることなかれ)
結句
それでも低い身分(の象徴たる青色の衣)に落とされた菅公が、白居易の琵琶行の漢詩を思い出され、あたかも琵琶の音を聞かれたかのごとくして落涙されている様が目にうかんでくる。
以上です。本漢詩の翻刻に際しましては、今は共に故人となられた大西 勉殿、三田良信殿、また、北野天満宮社務所殿を通じて藤井譲治殿、柴田純殿にご教示いただきましたことお礼申し上げます。文責は小松天満宮社務所にあります。
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本ブログでは以下の順序で、説明いたします:
1) 第一の謎
1.1)『新修小松市史 資料編12 美術工芸』135頁の文章
1.2)十五重の仏塔例
1.3)「ラジューム福寿鉱泉」絵葉書により135頁の文章の誤り明らかになる
1.4)何故 十五重なのか?
2)第二の謎解明さる
2.1) 第二の謎とは?
2.2) ファロスの灯台
2.3) 十五重の石塔とファロスの灯台の比較
2.4) 第二の謎の解明
1)第一の謎
1.1) 『新修小松市史 資料編12 美術工芸』 135頁の文章
当社の十五重の石塔は仏塔でしょうか?仏塔には石塔の頂上部に相輪をもちますが、当社のは相輪ではなく宝珠をのせています。これにつき 『新修小松市史・資料編十二』一三五頁には以下のように書かれています。十五層の「最上部におかれた宝珠は後補であろう。塔の最上部には相輪を置くのが通有である。。。昭和二十三年の福井地震で・・・倒壊し、昭和二十七年に修理されている。この際、相輪の代替品として宝珠を置いた可能性がある」と書かれています。小松市史におけるこの記述は、当社の十五重塔が仏塔であるとの観点からの記述です。
1.2) 十五重の仏塔の例
それでは、我が国において、十五重の仏塔が存在するのでしょうか? 社務所による長年の調査より一件の存在が確認されています。それは昭和57年に東京都文化財に、平成18年に国の名勝に指定されている東京都の「旧古河庭園」内の十五層の仏塔です。図2はその画像、図3は現地にある説明板ですが、これからも仏塔として建立されたものが明らかであり、相輪があります(風害をさけるため、これを撮影した平成18年当時は地上部におろされていました)。ちなみに旧古河庭園は、もとは不平等条約改定に貢献した陸奥宗光の別宅でしたが、その後古河家が譲り受け、大正3年頃に隣接地を買収して洋風庭園(英国人のジョサイア・コンドルが設計)と和風庭園(京都の著名な庭師である小川治兵衛が設計)を整備しました。なお、この十五層塔は、古河グループの人々より寄進されたとのことです。
社務所による長年の調査では、明治維新以前には十五層の石塔は確認されておらず、当社のが唯一のものです。
1.3)「ラジューム福寿鉱泉」絵葉書により135頁の文章の誤り明らかになる
大正十四年に新寺井(旧根上町)から新鶴来間を結ぶ能美電鉄線の開設に貢献した寺井野村の大地主(石川県内で最大)(『能美電ものがたり』より)の酒井芳氏は、旧小松城二の丸にあった「土形」なる土地を購入していました。大正四年に低温湯を汲み上げ、一時に百人入れる総浴場と旅館「長生館」を備える「ラジューム福寿鉱泉」を設立しました。図5は、「長生館楼上より梅林院の眺望」と題された絵葉書ですが、そこに当社の十五重の石塔が写っています。層石は現在と同数の十五ですが、途中に層石の坪野石とは異なる石が二個挿入されていて、現在よりもより高く建てられています。大正時代撮影のこの写真には宝珠が置かれており、「昭和二十七年の修理時に設置された可能性有り」との執筆者の推定は誤りと判明します。このことが判明したのは酒井芳氏および撮影者のお蔭であり、お礼申し上げます。
1.4)何故、十五重なのか?
下図は当社の十五重石塔の説明板です。
この説明板に記されている品川左門は、2021.3.20付当社ブログで紹介したように、利常公の葬送行列の供奉を命ぜられた近臣です。梯川にかかる橋を渡りながら石塔を望みつつ「重ねあげにし塔なれど限りありてぞ見果てぬる」と心中語りかけたとの記述は『三壺記』にかかれているものです。ここにおいて「重ねあげにし」との文言は重要です。利常公が意図的に十五重になるように重ねあげたことがうかがわれるからです。
十五重の石塔の謎とは、「何故、利常公が十五重の石塔を建立されたか?」です。これは未だ解明されていない謎となっています。
2)第二の謎
2.1) 第二の謎とは?
下図は十五重の石塔の土台(基壇)と初層軸部を示しています。土台は四角形であり、その上に八角形の石がおかれ、真ん中が丸く切り抜かれていて、四方からみても同じような形をしていて、その上に十五層の屋根がついています。この初層軸部につき、小松市HP「小松市の文化財」中の「十五重の石塔」の説明文では「初層軸部は。。。頂点を大きく面取りし、中央には円孔が穿たれる」とあるだけです。
十五層の屋根部分の加重を支えるだけの目的の初層軸部にしたければ、面取りをすることなく、円孔を穿つことなく、前述の旧古河庭園の十五層塔のように、四角の立方体にすればよかったのです。そうしなかったという事実そのものが、八角形にこだわったことを顕示しているといえます。四角形の基壇と八角形(中央に円孔)の初層軸部が何故この形をしているのかが第二の謎でした。
2.2) ファロスの灯台
5月4日のBSハイビジョン特集 エジプト発掘「妹を憎んだクレオパトラ」において、アレキサンダー大王の死後、エジプトを統括した大王の部下だったプトレマイオス一世が紀元前280年頃にアレキサンドリアのナイル川河口に建立したファロス灯台が紹介されました。その灯台の画像は、テレビの再放送をご覧いただくとして、お手元のネットで「Emad victor Shenouda」と検索すると、彼の作成した推定画像を見れます。ここでは取り急ぎ作成したポンチ絵を下図に示します。
番号1 は灯台の基壇であり、その上に四角柱(番号2)が、その上に八角柱(番号3)が、その上に円筒形の建物(番号4)があり、その上部に円形の柱で囲まれた空間(番号5、ここで夜間、火を焚いて灯台の明かりとしていた)があり、その上が屋根部分となっていました。
ファロスの灯台は番号1,2が四角形です。ファロスの灯台は高さが110-130メートル推定されていて、当時の世界ではギザの大ピラミッド(高さ147メートル)に次ぐ高さをもつ建造物とのことですから、この高さを実現するために、番号2部分を挿入することは不可欠です。テレビ番組では、クレオパトラの妹であったアルシノエ4世のお墓と推定される建造物がトルコのエフェソスで発見され、その復元画像も紹介されていました。このお墓は、灯台のように高くする必要はないですから、当然ながら灯台部分の番号2部分はなく、四角形の基壇の上に八角形の構造物と屋根からなっています。
このことからも、土台の上の四角形部分(番号2)は灯台という高さをかせぐために挿入されていることがわかります。この灯台の特徴は、四角形の上に八角形の建物(番号4)があり、その上に円形の建物(番号4)と最上階の火を燃やす場(円形)があることです。
2.2) 十五重の石塔とファロスの灯台の比較
比較してみますと、当社のは八角形が四面ありますが、ファロスの灯台は四角形が八面あります。ファロスと同じように、八面とも八角形にすると、各面の八角形がとてもいびつなものになってしまいます。それゆえ、当社の十五重塔の初層軸部は出来るだけ円に近い形の八角形を保ちたいとして四面になっていることが考えられます。
円形を八角形の中に取り込むという違いはありますが、四角形の上に八角形の構造物を載せるという類似点がみられます。また、何故、ファロスの灯台が八角形の構造物をもっているかについては、古代の航海における風の方向を探る重要性との関係が指摘されています。このことが、十五重の石塔の初層軸部が単なる面取りではなく、八角形を意識したものであるとの解明につながることになりました。
2.3) 第二の謎の解明
前漢の武帝の頃にかかれた『淮南子』「天文訓」には「天は丸く、地は四角」という言葉があります。「天は円、地は方」ともいわれる言葉です。また、「天に九野あり」と書かれています。天を中央と八方に区分するという考えです。ここで 中央部は、『史記』の「天官書」を参考にしますと、天の北極星を中心とする部分で、天の中心部が円形をしているのは、北斗七星が一昼夜で北極星の回りを一回転する様に擬せられています。春夏秋冬のどの季節でも、また、東西南北のどの方向においても北斗七星は一昼夜で北極星の回りを巡ります。こうした古代天文学の考えにならって、十五重の石塔の基壇が地に対応する方形になっており、初層軸部が四面からなり、どの面も八角形で中央に円孔をもつ形になっているものと推定されます。
2011年11月14日号の本ブログ「小松城の水の取り入れ口を探す」で説明しましたように、小松城の水口は十五重の石塔の真南に位置していました。十五重の石塔の初層軸部をなす八角形の中央部の円孔が真北(北半球では北極星の方向とほぼ同じ)を象徴していることが明らかですし、真北を象徴するためにも円孔になっていなければならないことも理解できます。
長崎を通じて、積極的に海外の文物を入手し、四代光高卿の学問の師を勤めた松永尺五から中国古典の講義も受けておられた利常公ですから、小松城の水口との対応で、この円孔をもつ八角形の形態を採用されたことは十分にあり得るというのが、社務所の見解です。
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石川県下20社寺において昨年12月末に頒布の開始されました神社仏閣カードに、今月29日より新たに当社を含めて8社寺の神社仏閣カードが頒布開始されることとなりました。それを記念して、ここでは明治40年に発行されました当社絵葉書等の紹介をさせていただきます。
今年の大河ドラマで放映されましたように、安政5年(1858)6月19日に、江戸幕府と米国との間で「日米修好通商条約」が締結され、ひきつづきイギリス、オランダ、フランス、ロシアと同様の条約(安政五か国条約)が締結されました。この条約では、日本人に対して犯罪を犯した外国人は当該外国の法律によって裁かれるなどの不平等条項が含まれていました。また関連して、通商用の開港場(横浜、函館、神戸、長崎、新潟)について、外国人の行動範囲を最大10里(40キロ)とする「外国人遊歩規定」が定められていました。維新後の新政府の主要目的の一つがこの不平等条約改正でありましたが、日清戦争(1894-95)後の1899年(明治32年)7月17日に「日米通商航海条約」が締結され、ここで治外法権条項が撤廃されました。それをうけて、同年、「外国人遊歩規定」も廃止され、外国人の国内旅行が可能となり、官民あげての観光立国政策が実施されていきました。
我が国の郵便制度のうち、通常葉書の政府による発行は明治8年(1873)に開始されましたが、その翌年の1874年にスイスのベルンに本部をおく「万国郵便連合」(フランス語でUnion Postale Universelle)が設立されました。外国人遊歩規定の廃止された翌年の明治33年(1900)に、逓信省により民間葉書の商品化が許可されました。この後、観光立国策をうけて各地で絵葉書が作成頒布されだしました。
当社のは、明治40年(1907)4月に斎行された神社創立250年祭記念として作成されたもので、6枚組の絵葉書です。図1は表袋と6枚の内の1枚を合わせて示したものです。
ところで、明治以降の絵葉書の年代推定方法が、「絵葉書資料館」のインターネットサイト(https://www.ehagaki.org/history/)に説明されていますので、それを参考にここでは2種類の絵葉書の仕様を説明してみます。最初は、当社の絵葉書の表側を示したのが、図2です。これは明治33年(1900)から明治39年(1906)までの仕様に合致しています。当社の記念式典は明治40年4月でしたが、作成は前年に実施されていたでしょうから、明治39年までの仕様に合致しています。この最初の時期の特徴は、表面が住所氏名のみ記載で、通信文記載欄がないことです。それと、フランス語で葉書をしめす「CARTE POSTLE」という言葉と、前述の万国郵便連合を示すフランス語が記載されていることです。
他の時期の絵葉書の仕様の例として、当時の宮司が参拝した折に購入した「大宰府天満宮」の絵葉書を示したのが図3です。これも6枚一組となっています。菅公が大宰府に左遷された昌泰4年(901)から逝去される延喜3年(903)の間、謫居された御跡の榎寺の前景をしめした絵葉書と包み紙を示しています。
この絵葉書の表面を示したのが図4です。この仕様は、大正7年(1918)から昭和7年(1932)まで使用されたものです。
この絵葉書表面にはフランス語表記はありませんが、通信文記載欄があります。大正7年以前の通信文記載欄が、三分の一の長さであったものが、この時期からは二分の一の長さになっています。
最後に、図1に示す絵葉書の画面を拡大したものが図5です。
これは明治40年時点の宝物目録に「北野天神縁起第三」一巻と表記されているものからの「官位追贈の事」の場面を画いたものです。ただし、この宝物については、大正12年8月25日に鑑定のため東京に移されますが、直後の9月1日の関東大震災で焼失と宝物目録に記載されており、残念なことです。
この度、明治40年の絵葉書発行から115年目の今年、コロナ禍真っただ中での神社仏閣カード頒布開始となりますが、時空を超えて新たな形での観光立国再生として、絆がつながっていくことを祈念しています。
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承応3年銘の奉納刀のうち、現存が確認されていますのは三代利常公の命により瑞龍寺に奉納された22本のうちの2本と当社蔵の薙刀の3点のみです。本ブログ2020.10.28号にて紹介しましたが、「承応三年八月吉日」の年月日と「賀州住藤原家忠」の刀工名の刻された当社蔵「薙刀」は、奉納者の利常公が小松城入城380周年の記念の年となった昨年、刀剣研師 柏木 良氏に依頼して研いでいただきました。昨年研ぎ終えた刀剣撮像を再掲してみます。
刀剣撮像:中村 彗(スペアタイムスタジオ)
当社蔵の薙刀は、 享保5年(1720)に若い頃利常公に近侍した藤田内藏允安勝の著作『微妙公御直言之御意覚書』(微妙公御直言と略称)に「御領国所々大社之内へ御籠物として御刀・脇刺御認等被仰付候時分、是は加賀守(綱紀)武運長久祈祷の為に仕置候儀与、左門・久越へ御意被遊候へば」との記載を裏付ける最初の物証でありました(文中。左門とは品川左門、久越とは中村久越のこと)。
さらに、藤田安勝の編んだ前掲書にもれたことを記すとして、享保9年(1724)に山本源右衛門基庸の著書『微妙公夜話録』には次ぎのように記されています。
「微妙公御領国中神社仏閣御建立被仰付候而者、皆以為加賀守武運長久与御書付させ被成候。扨(さて)こそ御長命萬端御中興被遊候事、微妙公御祈願之故与(と)、老人共も亡父瀬兵衛も左様に咄申候」
ちなみに、著者の山本基庸は加賀藩で珍重された書家で、石川県立歴史博物館には彼の書巻が所蔵されています。
当ブログ2019.7.29号「瑞龍寺の着工年が当社と同じ承応2年と判明」に簡単にふれましたが、その要点をここに説明してみます。
令和元年7月27日の北國新聞朝刊に「瑞龍寺造営 通説の8年後」というスクープ記事が掲載されました。文武両道にすぐれ将来を嘱望されていた加賀藩4代藩主光高卿が31歳の若さで急死された正保2年(1645)に着工との通説を覆して、承応2年(1653)に造営工事が開始されたことを示す新資料の発見を伝える記事でした。
当社の創建年は明暦3年2月25日であることは、創建の棟札から明らかですが、当社への奉納物の最初は承応3年です。現存する小松城を描いた絵図として、承応元年の絵図には当社の敷地一帯は「沼田足入」として記載され、当社記載が明記されているのは建立後の寛文7年(1667)の絵図となります。また、昭和60年頃に実施された当社境内地のボーリング調査により、現在社殿のたっている地盤は人為的に埋め立てられた地盤であることが判明し、本多政長著の当社の縁起書にある「数千万の人夫をもて、数年にして地所成りければ、洛陽北野の御宮造をうつせ給い」の文章と合致することが確認されています。社殿造営には少なくとも2年間を要するとして、棟札の書かれた明暦3年(1657)2月にはほぼ完成しているとして冬期間を考慮すると、承応2年(1653)から2年間で地所造成を行ったと推定されます。
さらに、重臣らによって奉納された釣灯籠には承応3年の年号が記され、 奥村因幡守和豊(加賀八家奥村分家第二代当主奥村庸
( やす ) 礼 ( ひろ ) の初名)により奉納の花瓶には承応3年7月25日と明記されています。当時の文化思想(五行の相生の理)を勘案すると、この承応三年が当社の地所造成が完成したことを祝してのことと推定されます。
以上と、山本源右衛門基庸の著書『微妙公夜話録』記載の「微妙公御領国中神社仏閣御建立被仰付候而者、皆以為加賀守武運長久与御書付させ被成候」とは瑞龍寺と当社のことと推定され、これらが妥当なら、承応3年銘の刀剣は瑞龍寺奉納刀と当社以外からは出現しないものと推察されます。
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今年は虫害がはやくも境内で確認されました。カイガラムシには数百種あるといわれますが、これはそのうちの一種類による食害が梅の木の比較的新しい枝で下図のように確認されました。この白い部分を手袋でこすりとってしまえば虫害は防げます。
図2は、数年前に献木されたおりに幹にまかれた養生布をめくって見つかったもので、これは別の種類のカイガラムシで赤い粒状の卵らしきものです。また、図3はそのときはぎ取った養生布の写真です。この赤い粒も金ブラシ等で簡単にこすりとれます。これを放置すると食害が広がり手に負えなくなります。
境内の別の箇所では、図4に示すようにヒサカキの枝にびっしりとすす病が広がっています。これは枝から葉の表面にひろがり黒っぽい膜状のカビが覆っていきます。この段階では、枝部分を切り取ってこれ以上広がらないようにしないといけませんし、広範囲に広がるようだと薬剤散布に頼るしかありません。これからは、虫害に要注意の日々がつづきます。
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ここに記載されている加賀万句の巻頭発句と能順による脇句については、昭和13年出版の大河寥々著『加能俳諧史』において、能順の句集『聯玉集』の記述と合わないことに疑問が呈されていました。
今回、国文学研究資料館『調査研究報告』第41号に発表された綿抜豊昭著、「加賀藩前田家「菅公八百年忌奉納連歌」について」(近々、「国文学研究資料館学術情報リポジトリ」の「調査研究報告」に公開予定)で、『政隣記』記述の誤りが明らかになりました。綿抜氏は、当社蔵の「元禄十五年北野天満宮八百年御忌御手向万句」を翻刻することで、御願主による万句巻頭発句が「此の神の守る手向や梅の花」であり、能順による脇句が「実を仰ぐ春の言の葉」であることを明らかにしています。以下に当該宝物の表紙と、万句巻頭発句を記載した画像を紹介します。
では、『政隣記』が巻頭発句としてあげる「梅が香や世々の松風神の庭」はどこから出てきたのでしょうか? これについて綿抜氏は、能順が代拝を命じられた前田知頼に手向けとして渡した句で、「知頼は、京都で、おそらく能順の手配のもと、公家らとそれを発句とする百韻を興行したということであろう」と推定されています。詳細は国文学研究資料館 「研究報告」第41号掲載の綿抜論文「加賀藩前田家八百年忌奉納連歌について」、インターネットサイト
をご覧下さい。
ちなみに、知頼の娘さんは、第6代藩主吉徳卿に見いだされて藩の財政改革に敏腕をふるい、吉徳卿没後に五箇山に流罪となった、いわゆる加賀騒動の主役とされる大槻伝蔵に嫁いでいます。
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この中で能俊は、旅の途中に169句の発句と和歌2首を書き添えています。この旅日記には100年後の文久3年(1863)3月に梅林院順承(6代宮司)が記した極め状がついています。、原本は大部な巻物ですが、下図は表紙と出だしの桑名の部分を示しています。
能俊がどのような旅路をとったかの概略をたどってみると以下の通りです: 桑名から出立して伊勢神宮・二見の浦・朝熊虚空蔵・鈴鹿山・大津・京都北野天満宮・加茂の競え馬見学(4月5日)・大和路から奈良・二上山当麻寺・三輪の明神・吉野山の西行法師の旧跡・高野山の天徳院や御家の御廟所・和歌の浦・紀伊三井寺・岸和田・堺・住吉・大坂の天王寺で道風真蹟の額見学と大坂天満宮・明石城下の天満宮、人丸堂にて正一位柿本大明神の勅額や忠度の塚・尾上の鐘と相生の松・曽祢の天神松・姫路城下・大江山・天の橋立・和泉式部の歌碑・切戸の文殊堂・福知山・水戸山の峠、尾細峠など越えて鳥羽・足利尊氏ゆかりの篠むらの八幡社・亀山の城下から桂川の渡し舟・四条通柳の馬場に旅宿を借りて滞在、祇園祭見学し梶井の門跡天満宮、曼殊院・聖護院・南禅寺に詣でるもこの日は氷室の日・宇治の平等院にて頼政の装束拝見・宇治からの帰路、万福寺や稲荷社に参詣・北野の宮に再拝して、北野の上乗坊能作坊訪問―ー>
平野社の帰りに北野社のお土居の外を流れる紙屋川の橋上にて、伴える人のいうには、かって能順が紙屋川を詠んだ発句
「かみや川つつみあつむる蛍かな」(聯玉集416番)
にちなんで発句つこうまつれというに答えて能俊は110番目の句として
「とふ蛍かけを包むな紙屋川」と詠んでいるーーー>
四条通柳の馬場の旅宿にかえり梅松軒の人と交流・里村昌廸の連歌会に参加、知恩院や高台寺、泉湧寺、東福寺、東寺、相国寺、大徳寺など詣で、北野社僧の連歌会の後に八幡山の瀧本坊にて発句所望される、この後も各所めぐりて、7(ママ)注)月14日は祇園の神事山鉾を見学・・・・糺すのやしろ(下かも社)、水無瀬の御殿御所・邂逅山金龍寺(能因法師ゆかり)・水無月の末(6月末)に京都を立ち、辛崎の松・三井寺・義仲の塚・石山寺・瀬田の橋と八景・三上山から竹生島を眺め・安土の老蘇の森・多賀社に詣でて鳥本にて朝鮮通信使の帰途に会う・長浜の大寺に詣で・気比の御社に詣で・今庄から湯尾峠の茶屋・福居・新田義貞戦死場所の石碑・北潟より舟にのりて吉崎鹿島など眺め大正寺にて関迎えに来た多くの人々と交流して171番の結句「来る秋は風の戸ささぬ関路かな」 延享辰 初秋中旬 梅林院能俊 として旅日記は終わっています。
延享辰とは延享5年(1748)ですが、この歳は桃園天皇即位により7月12日に寛延に改元になっています。それゆえ、能俊が帰国したのは7月10、11日頃と推察されます。なお、上賀茂神社の競え馬は現在は5月5日に催行されていますから、旧暦では能俊が加賀を出立したのは3月中となり、およそ4ケ月の旅行となります。
このような長期の旅行には随行もふくめて経費はかなりの額となります。また、創健者の利常公より能順に「月次連歌会」の催行を命じられ藩政期には代々引き継がれていく行事ですが、能俊の旅行中はこの月次連歌は欠礼となり、その旨の許可を藩から得て旅立っているはずです。しかも、このころの一大行事である朝鮮通信使の一行の行きと帰りの2回遭遇しててもさしたる関心を示していません。
上記に記した訪問地には歌道の歌枕(和歌によまれた名所旧跡)が多く含まれ、『能因歌枕』を著した能因法師ゆかりの邂逅山金龍寺も含まれています。綿抜豊昭著『小松天満宮と能順』に紹介されているように能順以来の歴代宮司(少なくとも4代由順まで)は「古今伝授」をうけた歌道宗匠(月次連歌会を仕切る有資格者)でしたから、古今伝授をうけるための旅行として藩よりの許可と旅費をいただくための一種の実績報告書としてこの旅行記を書いたとも推察されます。現代では、四国八十八か所巡りなどが有名ですが、江戸時代中期にこのような歌枕を訪ねるとも考えられる旅があったのかどうか、類例が待たれます。
注)祇園祭宵山の山鉾は現在では7月14日からですが、旧暦では6月14日からでしょうし、この少し後の記述に「水無月の末」に京都出立とありますから、ここの「7」月は能俊の書き間違えです。
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梅花へのお礼を兼ねての梅園および参道沿いの梅の木の施肥・土壌改良作業が梅園の整備工事を担当された造園業者さんにより実施されました。図3は、梅の木の周りに穴をあける画像、そこに施肥をするという作業後の画像が図4です。
梅園も竹箒等で清掃作業をおこないますので、このような形で施肥をしていただきますと、清掃作業により肥料が除去されないためよい作業方法と思います。この後は夏期にかけて、梅の幹等に寄生して樹液を吸い出す虫(コスカシバ等)を早期に取り除いていくことが大事になります(本ブログ2021(R1).8.12などを参照)。
]]>今日の「あさイチ」で上野公園の桜の紹介と共に、上野戦争緒戦の激戦地であった上野寛永寺の黒門の紹介がありました。昭和10年代初頭の梯川河川改修前までは、現在の撫丑像の後方に黒門が存在していました。下図がその画像です。赤丸印が黒門と呼ばれていた門ですが、藩政期には藩主が小松城のある対岸より船で渡って参詣した折に使用された門と伝えられる門で、船着き場が備わっていました。
図2は市販の江戸時代の絵図における上野寛永寺と江戸城との関係を示しています。この画像は東を上にして示していますが、「御城」と画かれているのが江戸城です。緑色の点線丸が加賀藩上屋敷です。青色の点線丸が不忍池です。江戸城の東北方位(鬼門方位)に鬼門鎮めとして建立されたのが東叡山寛永寺ですが、その参道入り口にあるのが黒門(赤丸印)です。加賀藩上屋敷から見て不忍池の対岸に黒門があることは、参勤交代で江戸におられた利常公は熟知しておられたでしょうから、小松城の鬼門鎮めとしての当社創建に際して、城内を出て梯川の対岸に、参詣時の入り口にあたる船着き場に門を設けられ、それゆえ、門が「黒門」とよばれていたとも推察されます。
慶応4年(1868)5月15日(新暦では7月4日)、上野寛永寺に籠もった彰義隊と西郷隆盛率いる官軍との間で戦われた上野戦争において、最初の激戦がおこなわれたのが、この黒門でありました。官軍は加賀藩加州屋敷内より大砲をうち、この黒門口を突破して彰義隊を壊滅させました。黒門のあった地の現況画像が図3(交番前からとった写真)です。
この黒門は、東京都荒川区千住にある円通寺というお寺に移築されています。図4は移築されている黒門の画像と何故、ここに移築されているかの説明板の画像が図5です。この黒門には激戦を偲ばせる弾痕跡が多数残されています。上野戦争で戦死し放置されていた彰義隊士を弔い墓地をもうけたのが円通寺の当時の住職であり、その縁で円通寺に黒門が移築されました。
3月30日付けの当社ブログで紹介しました旧古河庭園もこの近くにありますので、加賀藩上屋敷跡に創設された東京大学の赤門(現在は耐震対策工事中)見学共々、上京の折りにお出かけになってはいかがでしょうか?
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菅公が太宰府にて薨去された延喜3年2月25日を記念しての春季例祭式典が、維新後は新暦に直して3月25日に斎行されました。天満宮15社会氏子中よりの奉納などをご神前にお供えし、当社奉賛会役員および15社会役員ら参列のもと、三密回避に留意して厳粛に斎行され、ご神前には古流柏葉会の地元会員により彩流華の献花がお供えされました。今年は例年よりも早く桜の開花が知らされる中での春祭り祭典でした。コロナ禍いまだ終息が見通せない中ではありますが、1年間の経験をへて、三密回避を怠り、飛沫感染対策や手口洗いを怠ると感染拡大になることを深く心に留めて、日常生活を送ることや、関連して古来からの伝統神事であります鎮花祭の意義についての社頭講話がなされました。
以下が献花の画像です。彩流華は古流廣岡家元家の口伝・伝書にもとづく生け花です。主たる花材にシイノキに春の息吹を感じさせる白いストックをあしらっています。
シイノキは、当社社殿を北風から守ってくれている大切な大木です。本殿のほぼ真後ろに生い立っていますから、創建当時に意図的に植栽されたと推定されます。河川改修工事の際に枝打ちや根切りを大規模にされましたが、現在のところ順調に快復してきていることはありがたいことです。
冬がさり春になるこの季節ですから、献花では、このシイノキの枝葉が陰の風の方向(反時計回り)に、根元に向かって閉じていくようにいけられています。また、外側からはわかりませんが、内側には数本の小ぶりのシイノキの枝葉が陽の方向(時計回り)に、上の方に伸びていくようにいけられています。
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現在、小松市立博物館にて開催の「能順と連歌」企画展については、2021年1月20日付本ブログで紹介しました。その後、企画展を見に来られたお客さんから企画展のパンフレットに小松天満宮の名称が「小松桟天神社」とあることについて、「桟」は現在の梯川の「梯」としていないのはなぜですか」との質問があったとのことです。読みは同じ「かけはし」でも「梯」と「桟」は異なる漢字で、前者は「はしご」、後者は「けわしいがけに、棚のようにとりつけた木の通路」という意味です。
この質問をうけて、博物館の担当者の方から「藩政期の当社の名称」についてお尋ねがありました。「小松桟天神社」とう名称に関して、すぐに思い浮かびますのは、『加賀藩史料』にもしばしば引用される『三壺聞書』の記述です。この書物は、元禄年間に没した宰領足軽の山田四郎右衛門が記した書と伝えられるものです。この中で「明暦三年には、小松掛橋の河端に天満天神堂を御建立被成」と書き出して当社建立の記事があり、その記事のタイトルを「小松掛橋天神堂の事」とあります。「小松掛橋の川端に天満天神堂」をつめて「小松掛橋天神堂」としたことが、その後、「小松桟天神社」となっていったと思いますが、藩政期の文書で掛橋や桟のかわりに梯の文字を使用した例はあるでしょうか?
これについては、市立博物館でも調べていただきました。古いものでは、当社創建のための地盤工事が開始される1年前の承応元年に作成された「加州小松城の図」の注記に「梯川橋長さ42間3尺ならび川の深さ4尺5尺所により6尺」と書かれています(所蔵が金沢市玉川図書館近世史料館のため、画像の使用は控えます)。当社蔵では当社創建の1年前の明暦2年(1656)の能順宛ての知行宛行状に「梯村」と明記されています。また、18世紀後半にかかれた『小松御城并小松町図』には「梯石橋」などと書かれています。また、掛橋については、17世紀後半に書かれた前述の『三壺聞書』の記述や18世紀前半にかかれた『菅家見聞集』における「小松掛橋之川縁に天神之社」がみられることが判明しました。
「桟」については、後述の本多政長の著した『小松天満宮縁起』において「桟」の文字が使用されています。 (下図1の赤線箇所)。
文化4年(1807)に微妙公(利常公の諡おくりな)150年を迎えるのを記念して、小松城代を勤めた冨田景周は、公の退隠後二十年間の小松での行状をまとめた『小松城来歴』を著しました。この中で、当社の創建について「天満宮を梯河濱に新たに建立也。本堂は。。。。京北野天神社状を四分の一に縮造すと云」、「小松城の塹水は梯川の水也」と記しています。ここでは「梯河濱」とかかれています。以上より、18世紀後半からは「梯」の文字の使用のみとなったのではと推察されます。
担当者の方の質問にもどりましょう。初代宮司能順の晩年、元禄16年6月16日に、藩の重臣にあてた文書が残されています。そこには「小松天満宮は、お家の御祖神になるため、微妙院様新地に築かれ(北野宮を四分の一に写され)・・・・」と書き出されています(下図2参照)から、現社名の「小松天満宮」は古くから使用されていた名称ではあります。
また、当社神門に掲げられた「天満宮名額」の奉納年は不明ですが、能順没後の正徳4年(1714)には,金沢の観音院への出開帳時に奉納された「天満宮名額」があります。庶民の方々にとっては小松にある「天満宮」として受け取られていたことを、これらの奉納物は示しています。
当社には、御社領取付状を入れた初代能順の文箱が現存します。古いもので、ちょっと見には判読しえない文字がかかれています。文箱の上部と下部をうつした2枚の画像を下図の図3,図4に示してみます。
上部には「小松天神 御社領取付」とかかれ、下部には「松雲□」と書かれています。□の一文字は判読できませんが、本多政長の著した当社の『縁起』には次のように書かれています:「北陸加賀国能美の郡、小松の天神は、菅黄門利常公御造営の御宮なり・・・・北野の社僧松雲庵能順をめし下させ給ふ。。。能順を別当職に定め給ひ、御宮地に並ひて坊を建させ給ふ。。。。近き里桟と云所にて百石の領知を寄付させ給ひけり」。また、この書の最後に「右松雲庵能順の求めに応じてこれを書く」とありますから、この縁起書は能順の求めにより記したもので、能順は松雲庵能順とよばれていたことがわかります。創建の棟札には、この「坊」のことを「玉楼金殿の寺を営み」と記していますから、別当居住の寺院を建立したことがわかります。寺院には「寺号」と「山号」がありますが、松雲庵とは寺号にあたるものとおもわれます。松雲庵は能順没後に「梅林院」と改称されますが、松雲庵のゆかりは「松雲山」という山号で残っていることが、天保9年(1838)作の絵図からわかります(下図の図5参照)。
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1月7日の樹木調査での松枝樹木医殿の助言をうけ、風もおさまった今月25日に長年にわたり当社の枝打ち作業を担当している業者の方々により作業が実施されました。図2は図1の落下場所近くのタブノキの枯れ枝の除去作業風景です。除去された枯れ枝の一つが赤丸印の枯れ枝です。これを放置しておきますと指定文化財等の屋根に落下して甚大な被害を生じます。
次ぎの図3の赤点線は、枯れ枝の枝元のブランチカラーを示し、このあたりで切り落とすものです。この枝はもともと河川改修の支障箇所として枝打ちされたものですが、その後、枝打ち跡のカルス(癒合組織)が発達せず、枯れてしまったものです。図4は赤線部分で枝打ちをして防腐剤を散布した後の図です。
次ぎの図5は、枝打後の快復が疑問視された箇所でV字型の水抜きをした方がよいのではとされた箇所ですが、今回の枝打ち作業を指導いただいている樹木医殿に近くでみてもらったところ、カルスが発達していて、V字の切り込みを入れると癒合組織の発達を阻害するおそれがあると判定されて、このままで快復を観察することになりました。
図6の赤印は、サルノコシカケの出来た箇所です。担当した業者さんの話では、サルノコシカケの出来た木を伐採してみると中は白い綿状になっているそうです。木を白く腐らせる結果としてこのサルノコシカケが出来るので、出来たサルノコシカケを除去しても効果なしとのことです。ただ、サルノコシカケの出来ているこの木の右半分は途中で切り詰められていて高木ではないので、倒木のおそれはないということで、これもこのままにしておくことにしました。
強風被害の予防措置としての枝打ち作業の無事完了した境内の梅園の紅梅は、次ぎの図7が示すように大分咲きそろってきています。紅梅には桃色と紅色がありますが、まず桃色の紅梅が咲き、その後、紅色が咲き、それが終わると3月下旬にかけて白梅が順次咲いてゆきます。
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右側には天満宮の鎮守の森が、分水路にかかる赤い橋を渡って境内に入りますが、河川改修前にはこの分水路には文田川と呼ばれる小河川が流れていました。下図は改修工事前の平成16年春の画像です。
この文田川は明治時代の土地改良工事による流路付け替え工事による水路ですが、それ以前には折橋川とよばれる河川が流れていました。下図は文政2年(1819)の絵図を参考に書いたものです。
藩政期には上泥町(現在の大川町1丁目)から梯大橋を通って梯出村(現在の茶屋町)に入ってすぐに左折すると大国神社前から天満宮の参道に入ります。この参道沿いを流れて当社西側から梯川に流出していたのが折橋川です。下図は鉄道の北陸本線が開通して、物資の輸送が舟運から鉄道便に変化していく明治42年(1909)の図面であります。図中、緑色部分が当社境内、ピンク色で表示した道路が北国街道(本街道)、濃いオレンジ色で表示したのが、北国脇街道湊往来です。河川改修により掛け替えられた小松大橋から根上方面にゆく道路とほぼ同じ所を流れていたのが折橋川です。この図面では、折橋川は梯村から御館村までしか描かれていませんが、御館村の南方にやや細く描かれた水路が見えますが、これが文田川です。舟運から鉄道・陸運に変わることと、明治時代後期以降の土地改良事業などにより、当社参道から北上して大島村にゆく区間の北國脇街道は使用されなくなり、かわりに折橋川が北國脇街道沿いにふられ、名前も西川用水という農業用水路に変化していきました。今回の河川改修により、文田川は北方に付け替えられ、当社境内に隣接して流れていた旧折橋川と旧文田川水路区間が分水路として再生することになった次第です。
下図は、郷土史家の西 孝三殿(故人)の研究を参考に、明治42年に陸地測量部によって作成された「小松北部」地形図上に藩政期の折橋川の流路を試みに書いてみたものです(正確なものではありません)。西さんの研究によれば、その起点は現在(平成15年当時)の寺井町吉光で、終点は天満宮の北側から梯川に注ぎ込む地点までとなっています。また、明治10年頃の川幅は梯村で幅五間、深さ五尺、犬丸村で幅四間、深さ五尺、西二口から五間堂で幅5間、深さ1間と舟運には十分な幅員・水深となっていました。平成16年に撮影された文田川の川幅は狭いものでした。折橋川の舟運の出発点であった頃の当社境内北側を流れていた頃の規模を思って、現在の分水路を眺めていますと当時の状況が偲ばれます。
小松市と能美市の共同研究などにより、この折橋川と八丁川にはさまれた区域には古墳時代(今から1700年程前)に多くの集落遺跡(赤点印でおおよその位置を示す)があり、そこにはひとかどの王が存在していたと推定されています。また、この区域の起点付近の寺井地区には、北陸有数の規模をほこる能美古墳群(秋常山古墳群や和田山古墳群など)があり、折橋川流域は古墳時代の歴史に深いゆかりのある地域であることが判明してきました。下図は令和2年10月から12月にかけて小松市立河田山古墳群史跡資料館で開催された小松・能美2市連携企画展「小松と能美の平野を見渡す古墳群」のパンフレット表紙です。
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最初は、「能順消息その一」(小松市立博物館蔵、展示番号4)です。
はじめの赤枠内には「尚尚、昨日御土産。。。奉存候、孫共待ち受け・・・」とあり、終わりの方の赤枠内には「山代などへ御入湯なられ候へかしと待ちもうし候」と書かれています。それゆえ、この書は小松天満宮の別当宅(梅林院)にいた能順が出した書状で、お相手からいただいた御土産を孫どもが待ち受けていた、ということが書かれています。ここで「孫ども」の対象者となるのは当社三代別当能俊です。2020.4.25付本ブログで紹介しました綿抜教授による翻刻「延享五年(1748)旅日記」の作者の能俊です。能俊の三代別当在職は1734−1773年であり、能俊没後に編まれた「三代能俊を悼む発句・漢詩集」(当社蔵)に収められている秀葉老師(能俊は秀葉軒と号した)を悼む七言律詩の起句「七十年来?樹榮」(七十年来玉のように美しく清らかな木が栄えている)とありますから、能俊は七十年間ほど生存したといえます。かたや能順は北野社の勤務を終えて、宝永元年(1704)から亡くなる宝永三年(1706)の間は小松に定住していましたので、能俊が2−4歳の頃までは能順さんが生きておられたと推定されます。
第二は「宗祇書状」(綿抜豊昭研究室蔵、展示番号8)です。
これは北野社の神事を統括していた松梅院の主催した宴に招かれたお礼状として宗祇が出した書状です。この書状が注目されますのは、この書状の入っている箱の裏に能順が句を書いていることです。
「月花の情けや残る筆の跡 能順 七十八」、能順最晩年に書かれた箱書きです。能順が生前、宗祇を大変尊敬していたことは知られていますが、この宗祇書状に箱書きした経緯や、宗祇や能順の風雅に対する思いなど追及したいことは多々ありえますが、是非鑑賞される多くの方々に思いを巡らせていただきたく願います。
ここでは、能順が北野社退任の折の書状(能順の業績を長年研究されていた棚町知弥先生が、生前、能順の代表的書状と評されていた)を紹介してみます。
北野社退任にあたって元禄十六年(1703)十二月二十九日付にて,北野社の年寄中・評議中・年預中あてに「一つ:七月二十九日宗祇命日の追悼連歌費用として銀二百匁を寄付すること、一つ:追悼連歌会には一汁二菜、禁酒たるべく、茶・煙草も控えること」を記した書状です。
このことは『北野天満宮史料 宮仕記録 続三』の元禄十六年十二月二十六日付の記事「宗祇大法師の忌日会」に詳しく書かれています。銀二百匁を基金として年預中(1年間の社務を取り仕切る宮仕グループ)が運用して、その利息で追悼連歌会費をまかなうことを願って拠金したと書かれていますので、それについて能順が記した書状です。
また、『宮仕記録 続三』の元禄十六年七月二十九付の記事には、この日に宗祇忌日の会あり、と書かれていて、この後、毎年、この会は開催されています。現在までに発行されている宮仕記録は続七までですが、享保十二年(1727)七月二十九日までは毎年開催されています。
ここで疑問が生じます。書状では「七月二十九日が宗祇の命日にあたるから、学堂にて毎年連歌会を執行すること」と書かれています。ところが、『宗祇終焉記』には、宗祇の亡くなったのは文亀二年(1502)七月三十日となっています。能順さんは間違って覚えておられたのでしょうか? この疑問は、『宮仕記録 続三』宝永元年十一月二十日付の記事「宗祇法師」により氷解します。この中で「能順坊より学堂への書付一通能玉持参なり、先師宗祇法師忌月七月晦日の会を学堂にて執行有るべく…」とあり、内容は当社蔵の書状と同様ですが、日付が元禄十六年四月十八日付となっています。これには宗祇の忌日は七月晦日とかかれています。宗祇の亡くなった文亀二年七月三十日は『日本暦日原典』より七月晦日であることがわかります。北野学堂にて最初の定例の宗祇忌連歌会の開催されたのは元禄十六年七月二十九日ですが、この年の七月晦日は二十九日でした(七月三十日という日はなく、翌日は八月一日)。それゆえ、その後も七月二十九日に北野学堂での連歌会が開催され、能順書状も七月二十九日と記していることが判明しました。
今回の小松市立博物館での企画展示に併せて、図書館情報学図書館においても企画展示「能順と連歌」が開催されており、その概要は下記のインターネットサイトより閲覧できます。江戸城の鬼門鎮護の一つであった筑波山神社と小松城の鬼門鎮護であった当社が共に連歌会が斎行されていたこと、連歌資料の作成経緯や展示資料などについてわかりやすい音声画像紹介がありますので、是非ご覧ください。
「能順と連歌」図情図書館電子展示 | 筑波大学附属図書館
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/pub/mediamuseum/202101renga/
最後に、画像使用を許可いただいた綿抜豊昭殿、小松市立博物館殿、長年にわたり出版書をご寄贈いただいている北野天満宮社務所殿にお礼申し上げます。
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