31文字ですが、定型の57577ではなく 75577でよまれています。加賀国を「よろこび(賀)を加うる国」と表現しています。当時の人々は加賀国をそのようにとらえていたのですが、よい表現です。
本折において当時からすでに絹織りがおこなわれていたことを知るよい短歌ですが、ここでいわれた「もとおり」について小野寺松雲堂著『むかしの小松』第4巻「本折町の起源」において、道興が絹機を見た「もとおり」は、現今の龍助町であったろうと考えられるとし、その証に冨田景周著『故墟考』(寛政13年写、1801)の記述をあげています。本書は越中、能登、加賀の古城を記述したもので、本折城の項にて「語り伝えられることによれば、小松町 昔は梯の方を小松と云い、上口(あがりくち)三日市の方を本折と呼びしと也、」と記しています。この「上口」について、綿抜豊昭氏より「町の上手の端、京都側という意味かもしれません」との教示をいただきました。
次の図は、綿抜豊昭氏所蔵の「小松城絵図」の橋南地区を主体に示したものです。図の九龍橋のかけられた川(九龍橋川)から南側を橋南と呼ばれました。猫橋川に沿った道が「上使道」とかかれています。これは幕府領であった白山麓を数年おきに巡検にきた使者の通り道を示しています。巡検使は町の上手の端から小松町に入っていますし、三日市の方を本折と呼んだと景周は書き残しています。
さらに『むかしの小松』には、「現在の本折町は文化5年に餅能美屋、煎餅屋の草分け町屋が建ち始め、それから文政年間にかけて町屋建ち並び出町と名付けられた」と書かれています。上図には「出町 本折と云」と書かれていますので、この記述に符合します。上図には、大手門を出た小馬出町に小松城勤務の藩士の子弟の学問所「修道館」(安政元年1854から安政5年1858の間に創立)がかかれていませんので、この図は文政(1818-21)以降、安政以前にかかれたものです。
小野寺松雲堂は、道興准后の短歌にある「もとおり」とは「現今の龍助町であったろうと考えられる」と書いていますが、龍助町についても興味ある逸話を紹介しています。橋南中央部が享保7年から天保4年迄、107年間に大火災相次いで襲い、困窮難渋した事が4回あったとして,その度ごとに願い状を提出して金沢本藩へ御救助御貸米の貸与(返済は銀で10ケ年賦)をうけた詳細が記されています。
4回目の天保4年4月12日の火災は、橋南全部を焼失した大火災となりました。天保4年に1500石の御救助米貸与をうけたが、天保5年に再度500石の御救助米と銀100貫目を絹機屋へ御貸付許可がありました。天保4年の御貸与の際には「小松は城下町であるから龍助町は、二階家を揃えて建てるべし」との添え状があり、それで龍助町の町並は立派であった、と小野寺翁は記しています。
現在、橋南地区の龍助町・西町では、「北國街道まちづくり協定」を守り、良好な景観形成を図ると共に、にぎわい街づくりに人々が努力していますが、歴史が現代に息づいていることを実感します。その協定を説明した資料はインターネットでも見られますが、下図はその表紙の画像です。
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明治24年刊行の小野寺松雲堂著『むかしの小松』(本書と略)には、小松の町の由来や出来事を書き記した多くの興味深い記事がしるされていますが、そうした逸話の一つに、海岸に近い小松の防備力増強のために、町民より強壮な青年を選び、苗字・帯刀をゆるした「新兵組」なる組織を文久元年に編成した、があります。長らく単なる言い伝えとして玄人筋には本気にされることはなかったのですが、当社ブログR5.5.3号に「新兵組存在を証する文書発見」で説明しましたように、裏付け資料が発見され、爾来、社務所でも改めて折々に本書の逸話探訪を開始しました。本ブログではその成果の一つを紹介します。
本ブログの前号R6.3.9号では、小松の町衆が藩の許可を得て寛政6年(1794)に設立した「集義堂(小松習学所)を紹介しました。小松にはもう一つの学校、小松城勤務の藩士の子弟を対象にした藩校「修道館」が安政年間に設立されました。その場所は、嘉永6年(1853)作成の当社蔵の小松城下絵図に御馬出町(現在の小馬出町)の空地(赤丸印)に建てられました。小松城の三の丸から大手門を出て南につづく街路沿いの町が御馬出町です。R4年に金沢市立玉川図書館が入手した小松城下の詳細な絵図(安政6年1859から万延元年18601の間に制作)にはこの場所に「修道館」と明記されています。
さて本書に戻って、幕末小松の一大産業は和釘生産であり、橋北(九龍橋より北側)では新鍛治町、細工町、材木町が、橋南では、本鍛冶町、塗師屋町(現在の上寺町)、寺町、大文字町が、釘切り職工の集団町であったことが記されています。これについては昨年公刊の『新修小松市史資料編 通史編近世』において詳述されています。和釘の画像は次をご覧ください。
本書の横町のところに「釘騒動の顛末」が紹介されています。明治6,7年頃より洋釘が我が国に入り出し、和釘売れ行きが減少して、和釘仕入れをやめて洋釘に転換する釘問屋が増えてきました。釘問屋の大手であった金益に釘職人が押し寄せて「洋釘の商売を釘切職人に渡せなど」と騒動になった。金益の当主久右エ門は、押し寄せた釘職人に「かかる生活不安定の難渋となったも、時代が然らしめたで誰のわざでもない、皆様の激論されるのも当然の事である、他の業へ転換するに困難な方は、その人の買い入れ釘を無代で差し上げます・・・苦しさは問屋も職人もともどもであるから、もっと深く考えられて転換第一に、生活の途を開こうではないかと」と説得したのでした。その後、明治18年には釘切り職は完全になくなってしまいました。
ところで、下図は当社ブログ2024.3.9号で紹介した『江戸の小松絵図』の一部(上が北方向)を示しています。これに収録された小松町割図は町屋の登記簿から作成されているので年代が異なっています。『江戸の小松絵図』所収の山本佐一論文「小松の町屋」は町並みに説明を加えています。ここにのせた絵図には「中町(材木町)」とあり、これは中町から材木町が独立する前の天保4年(1833)頃の町並みを示しています。松任町と細工町の交差点から西側、中町までの通りが通称「横町」といわれますが、ここに赤色で囲んだ釘問屋を営んでいた屋号「福益屋」があります。これが後の金益久右エ門の商家のあったところです。
これからがあまり知られていない逸話で、本書の「小馬出町」の項にかかれています。金益久右エ門は明治17年に「修道館」跡地700坪を買収して、明治19年に製糸工場建築を起工し、翌明治20年5月に完成させます。創業当初は繭を長浜より買い入れていましたが、赤字になるので、県知事・能美郡長に請願してえた補助金に私費も投下して自前の桑畑造成に尽力しました。繭の自給はなったが、小松産の製糸の値段は繭一升で12匁、他県の製糸は繭一升で14匁と小松産の製糸の売値価格が低いことの原因が水質の悪さにあることが判明して、明治30年に金益の製糸工場は廃業に追い込まれてしまいました。小松においてジャカード機による紋織物がはじめて製織される5年前のことでした。
「製糸業は原料である繭が直接水に触れ、しかも用水中のアルカリ度および硬度の質的内容が、製品である生糸の品質と密接な関係をもつ特殊な水質が要求される―用水型産業である。明治以降、近代製糸の発祥地として栄えた岡谷地方や群馬など、いずれも良質且つ豊富な水資源をもつ地域であったことを忘れてはならない」と、農林水産省蚕糸試験場の宮内 潔(1983) 論文もまとめています。水質管理技術の皆無であった明治時代に新時代の物づくりに奮闘した金益翁の業績は、小松の歴史の一コマとして是非とも記憶にとどめたいものです。最後に、現在のわが国で生産される絹製品の99%は輸入生糸を使用して日本で加工されたものですが、原料となる繭の生産から製品になるまでの全ての工程を国内で行う「純国産」シルクである富岡シルクから購入した繭玉の画像です。この画像をみて金益翁の事績を偲んでいただければ幸いです。
ちなみに、金益久右エ門創業の製糸工場閉鎖後に「修道館」跡地に建設されたのが小松警察署であり、小松警察署が移転した跡にその建物をリノベーションして使用されているのが現在の「空とこどもの絵本館」です。
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ブログR5.2.1 「加賀百万石の城下町は金沢と小松」で紹介しましたように、城下町の役割には4つあります:1)城と城下町の防衛を考慮した街づくりになっていること、B) 町奉行所などの行政機能が働いていること、C) 町の発展を基礎づける商業機能を考慮した街づくりになっていること、4)公的支援をうけた教育活動が存続していること。本ブログではこのうち4)について紹介してみます。
加賀藩(金沢藩)が文科を教授する藩校「明倫堂」と武芸を教授する「経武館」を金沢に設立したのは寛政4年(1792)のこと。その2年後の寛政6年に小松のお医者さんらが中心になって、藩の許可を得て設立したのが「集義堂」です。その翌年の寛政7年には小松御馬廻組御番頭の牧 昌左衛門は加賀藩の年寄にあて「藩校創設以来、小松御馬廻の間でも学問が流行しているため、小松の集義堂に、藩校の講師の中からか、或いは小松の町医者のうち、相応しい者に講師をさせるか、詮議してほしい」旨の手紙を出しています(『新修小松市史資料編 教育』より)。藩校よりの講師派遣願いは後年になって実現することになります。それゆえ、この集義堂には町衆だけでなく藩士(の子弟)も学んだ学問所でした。
ちなみに、牧 昌左衛門は寛政3年(1791)6月から享和3年(1803)9月まで小松城に在職しますが、最後の年となる享和3年季春(陰暦3月)初旬に、当社に「浅井畷合戦」を画いた大額を奉納しています。
さて、この集義堂は京町に建てられましたが、その場所を明記した図面が、郷土史研究者の大西勉氏が編集責任者になって刊行した『江戸の小松絵図』に所収されています。この本には小松城下町の町並みを画いた3枚の絵図が含まれていますが、最初の絵図は、東は新鍛治町から、西は鷹匠町あたりまで、北は城内と城外を区画する三ノ丸橋あたりの殿町から、南は九龍川までを画いています(図1)。 その次の図2は、京町通りの集義堂(小松習学所)の立地場所を示しています。
図2の京町通りの東側の一角(赤色で囲んだ箇所)に、「寛政8年 習学所に買入」と記入されています。寛政6年の開学の2年後ですから、その間は間借りしていたのかもしれません。集義堂の設立場所が京町であったことがわかります。
明治5年(1873)8月の太政官布告により、全国あまねく学校設立をおこなうこととなり、集義堂(小松習学所)は「芦城小学校」と改称されることとなりました。ちなみに、「芦城」は小松城の通称名であります。芦城小学校は明治35年に現在地の西町に校舎改築移転しますが、移転に際して、「西町小学校」と改称してもよかったかもしれませんが、そうしなかったことは「集義堂」の歴史と「芦城」の名前にほこりをもっていたことを物語っています。現在はともすれば小学校区単位で競い合うことがあたりまえになっていますが、こうした歴史的経緯を大切にすることが連帯する心を養う上で大切なことと思います。
追: 「集義」という名前を課した藩校にはネット検索では大村藩の藩校「集義館」が出てきますが、珍しい名前です。「集義」とは、『孟子』 公孫丑章句上にでてくる孟子と門人の公孫丑との問答の中に出てくる言葉です。人間は多くの決断・意思決定の機会に遭遇します。そうすることがよいか悪いかの善悪の判断にせまられることが多々あります。そうした判断の際には、「理性による判断(論理的な判断力)」と「内的な、善の、直感による判断」を併用することが大切であり、この後者の直観による判断をささえているものを孟子は「浩然の気」とよびます。門人の公孫丑が「浩然の気」とは何ですか?と質問します。これに対して、孟子は、「人間の行いが義にかなわず、心を満足させないと浩然の気は消えて行ってしまう。浩然の気とは、義をおこなったのが積み重なって(集義)発生したものです」と回答しました。諸分野における不祥事を見聞きするにつけ、この言葉を選び伝えた郷土の先輩方々の慧眼に感心すると共に現代の私共にとっても大事な概念と思います。
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最初は、東参道沿いの白梅の咲き出しの情景です。まもなく元日の能登半島沖地震で倒壊した多数の燈籠の整理が開始されますが、その際、参道に近接して立つ高い燈籠は、地震再発の際の参道通行安全を確保するために、柱部より上方の火袋や笠の部分はとりはずされますので、この写真に写り込んでいる高い燈籠は見納めとなります。
次は梅園における濃い紅色(緋色)と淡紅色の紅梅咲きそろいの情景です。
最後は、社殿前の白梅です。神門から社殿にいたる参道沿いの白梅は、例年ですと、紅梅の花の開花が済んだ後、3月25日の春季祭典の頃に満開になるのですが、今年はすでに咲き始めています。
次の画像は、3月2日の雪模様の朝にとられた本ブログの最初の写真あたりの白梅の写真です。2月20日から12日後で開花がかなり進んでいますが、寒い日がつづいていますので、花のもちはよいようです。
雛祭りの3月3日の早朝5時には前夜の小雪も止み、下弦近くの月が南天に輝き、白梅との共演をしばしの間 鑑賞できました。
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今のところ梅園は紅梅がおおいですが、すでに境内の梅はかなり咲き始めています。
能登半島地震で被災した石造物の多くはいまだ整理されていませんが、それでも梅花が境内で咲き始めています。
この境内の梅花をごらんになりながらの参詣の後に、輪中堤に上がっていただきますと、昨年末から実施されています梯川の浚渫作業をご覧いただけます。2年前の8月3日夜から4日夕方にかけて累計399mmという豪雨により、梯川の水位も観測史上第一位の水位であります5.9mを記録し、梯川の上流域において大水害がおきてしまいました。その時の当社と周辺の梯川の状況は、2022.8.9付けの当社ブログをご覧下さい。
洪水時にたまった土砂を取り除いて河道の流下能力を維持するために、川の浚渫作業が天満宮輪中堤近くで実施されています。
図2は、台船上の油圧ショベルで川底にたまった砂利をすくい上げて、土運船に積み込む作業風景です。
次の図3は、砂利で一杯になった土運船を押船によって陸上の仮設桟橋に運ぶ模様を示しています。
次の図4は、陸上の仮設桟橋に土運船をつけて、押船で押さえつけながら、浚渫砂利をトラックに積み込んいる模様を示しています。
次の図5は、ダンプに積まれた浚渫土砂を泥倉に一時保管する模様を示しています。
泥倉にたまった川砂は水抜きのために暫し止めおかれます。その後、河川敷外の保管場所にダンプによって運ばれていく光景を示しているのが図6です。
現在は、この全ての工程をご覧いただけます。
梯川には春5月にはボラが遡上してきますから、川の水には塩気が含まれています。このことを前提にして、ここで採取された川砂がどのような過程で利用されていくのかを調べるのは、地元の小学校高学年より大きいお子さんの自由研究課題として面白いと思いますので、是非挑戦してみてください。ただ、今回のような浚渫工事はたまにしかないことですから、年中浚渫工事の行われている手取川付近の土砂採取業者さんに渡されるのかも含めて調べていただければ、梯川がより身近に感じられるのではないでしょうか?
最後に一点付け加えます。現在梯川で実施されています浚渫工事は、石田橋から小松大橋までの間の、主として、梯川左岸域で実施されていて、右岸域では実施されていません。この区間には葭原が残されていて初夏にはオオヨシキリなどの鳥類の生息域になっていた(数年前の豪雨時以来、葦原が減少してオオヨシキリもここ数年姿をあらわさないことが残念です))ために、この右岸域での工事を控えていただいているためと思います。
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当社では警備会社さんの助言をうけて、初詣三が日間は参道の真ん中にカラーコーンをおいて一方通行(右側通行)にしていました。皆さんが避難した後に、当社では神社の入り口を閉鎖して参拝停止にしましたが、その折の参道沿いの燈籠の倒壊状況を示したのが、以下の2枚の図です。
図1は、神門から社殿にお参りする方向の写真です。燈籠はすべて進行方向に向かって右側(北側)に倒れています。この時、カラーコーンの右側には、参拝をお待ちになって並んでおられた沢山の方々が参道上にうずくまっておられましたが、幸いにも燈籠が反対側に倒れたために、うずくまっておられた方々は無事だったことがわかります。
図2は、参拝を終えての帰り道の燈籠の倒壊状況です。これも北側に倒れていますが、いくつかは参道にかかって倒れています。行きの行列にくらべて、帰りはそれほど多くはなかったようですが、それでも、危うい目にあわれた方々より、燈籠が参道にちかすぎるとのお話をいただいたようです。
今回の震源は小松から北方向にある能登地方ですし、大きな揺れはすくなくとも2回以上はありましたので、震源域の北側に強くひっぱられて、燈籠が北側に倒れたのかもしれませんが、予断は出来ません。
地震時に参詣者の方々が参道上にしゃがんでおられたことと、これからの燈籠の倒壊がどちらにゆくかわかりません。これをふまえて、以下のようにさせていただきます。
一例として図3をご覧ください。手前の燈籠は柱より上が落下していますので、参道をはさんで反対側の高い燈籠も手前の高さと同じように上部(赤枠内)を解体撤去します。
なお、小松市指定文化財の十五重石塔は小松城の水口の正確に真北に建てられていて、利常公所持と推定される我が国最古の庭づくり指南書「作庭記」ともゆかりの石造物です。かたや、前回平成19年の能登地震の際にも被災して解体・再建していること、原石の坪野石が入手困難になっていることも考慮して、地震の動向や工法など、別途、小松市とも相談して、再建の方向で対処する所存です。
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図1は、鳥居の天端にある二個の笠石に四本の新しい「かすがい」を打ち込んで、セメントで養生する作業中の画像です。図2の赤丸印は予防修理完成した状態です。
次は、一の鳥居と二の鳥居の中間にある燈籠の柱部分のズレの修理作業中の画像です。まず、鳥居を解体して、クッション用にセメントをひいた上に解体した部材の一つを載せてから水平になることを確認してから、同様の作業を行って、最後に、笠と玉をのせて元通りにする、という具合に、燈籠の組直し作業もかなり手のこんだ作業になります。
図3は、修理中の画像、図4は修理完了後の画像です。
以上の作業を経て、本日より鳥居を通過しての参道通行が可能になりました。図5は作業完了後の鳥居前風景です。なお、当社の鳥居は二基とも、瀬戸内海の北木島産の北木石です。古くは秀吉による大坂城築城の際の石垣に使用され、日本銀行本館や靖国神社の大鳥居にも使用されています。
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第二に、参道の安全通行を確保するために、被害をうけた燈籠の倒潰・落下物を参道より出来るだけ離して整頓いたしました。これらの倒壊燈籠はこの後、境内にて保管します。半壊の燈籠は安全な形状になりましたので、震災遺構として出来るだけ現状のまま保存いたします。
地震後に鳥居を通過する参道部分を閉鎖していますので、その理由を説明いたします。図3をご覧下さい。図中の記号Aは第一鳥居を、記号Bは第二鳥居を、記号Cは二つの鳥居の間の燈籠を示しています。
このうち、第二鳥居は河川改修時に移築した鳥居ですが、被害はありません。第一鳥居は、昭和十年の奉納以来89年ほど経過しています。この第一鳥居の一番上にある二つの笠石部分の接合部(図4の赤丸印内)に隙間があるようにみえますので、本日早朝、石屋さんに上ってみてもらいました。その結果が図5です。
確かに二つの笠石の接合部に若干の隙間があり、二つの笠石をつなぐ金具が古くなっていて、金具の覆いもはがれてきています。このうち、若干の隙間は今回の地震によるものではなく、戦後まもなくの福井大地震などかなり前のもので、安全性には問題ないとのことです。さらなる余震発生に備えて、古い金具は新調の金具で取り換え、金具の覆いも新たにすることにいたしました。また、第一鳥居と第二鳥居の中間にある燈籠(図3の記号C) の柱部分が、図6の赤丸印のようにズレています。
能登地方だけでなく、金沢市と小松市において石造物の被害が多く生じていて、石屋さんは多忙をきわめていますので、出来るだけ早期の補修をお願いすることしかできません。
どうか、修理が完了するまでの間、二つの鳥居を通過する参道利用はお控えの上、図7の緑線印のように、鳥居の左側の空地を通行して、参道に出ていただくようにお願いいたします。歩行経路付近には排水桝がありますので、足下に注意して通行ください。
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令和六年元日夕刻に発生の能登半島地震により、参道沿いの古い燈籠や十五重石塔(小松市指定文化財)に被害が発生しました。
図1は十五重塔の上部三層と宝珠の落下した姿ですが、それ以下の層にも被害が認められます。また、参道沿いの燈籠にも多数倒壊が発生しました。
これをうけ、地震後の元日は参詣中止とし、二日、三日は、通常の参拝経路を変更して、参詣していただきました。
緊急策として、参道上の残存物を除去し、被害をうけた石造物に注意喚起の掲示を行って通常の参拝経路を通行可能といたしました。
今後も余震発生の起こりうることを考慮して、被害をうけた石造物の解体保管を行うこととし、その第一陣として、小松市指定文化財「十五重の石塔」の解体を来週中に実施いたします。図2は、足場組立後の画像です。
参道通行は可能ですが、お参りの際には石造物には近づかないようにお願いいたします。また、鳥居には被害がないと思われますが、細部の点検が済んでいないため、鳥居の左側の空地を通り抜けて進行ください。
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初詣対応(その1) 初詣の参詣・祈願対応について
令和6年の、初詣について当社は以下の対応をとらせていただきます。
初詣対応(その2):初詣期間中の開閉所時間について
<御祈祷・本殿>
大晦日 0時〜1時半
1月1日 8時〜18時
1月2日 8時半 〜18時
1月3日 8時半 〜17時
<授与所・お守り、お札の授与>
1月1日 0時〜 2時
6時〜 18時
1月2日 8時半〜18時
1月3日 8時半〜17時
初詣対応(その3)初詣臨時駐車場のご案内
初詣期間中は梯川分水路にかかる天満橋からの車両通行は出来ませんので、徒歩にてお参りください。また、下記のように、臨時駐車場3ヶ所(P1,P2、P3)を準備いたしましたが、駐車可能台数が限られていますので、極力、徒歩にてお参り頂きますようにお願いいたします。3ヶ所の臨時駐車場は大晦日から正月3日までご利用いただけます。警備員が誘導する際には、その案内によりご参詣ください。
臨時駐車場概略図
(上が南の方角(小松大橋から小松駅方向)として表示)
以下に各臨時駐車場の現況画像を示しますので参考にしてください。
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樹勢調査は、11の観察項目について、良好から不良までを目視により5段階評価しています。図1は、鳥居近くの黒松と対照木の黒松について評価結果を示しています。
平成23年はセメント改良工事が開始された年ですが、樹勢の評価項目はすべて良好を示しています。平成26年では、多くの評価項目で樹勢が大きく悪化しています。これは前年の平成25年の7月と9月に大雨がふり、特に7月の降雨では埴田観測所において観測史上最高の水位を記録する洪水となりました。そのため、平成25年の地下水位は7月から12月にかけて増加しました。井戸西付近の地盤高は2m34?ですが、12月には大木の根茎に悪影響を与えうる2m近くまで上昇いたしました。これをうけて翌年の樹勢は大きく悪化したものと推定されます。
平成29年には輪中堤工事が完成して、分水路に通水が開始されました。その後、境内の地下水位が急上昇するようなことは起きていませんでしたが、2020年6月12日付のブログで報告しましたように、輪中堤完成後まもなくの平成29年12月17日に、国指定重文の神門近くの赤松の大木が突然倒壊しました(図2)
幸い、神門や手水舎への影響はありませんでしたが、松枝樹木医殿の調査により、平成25年7月の豪雨による工事中の境内の地下水位上昇が長期間持続した時の過湿による衰弱時に、紫紋羽病の菌が侵入・進展し、根茎の破壊が拡大したことによると診断されました。
昨年令和4年8月4日には、観測史上最高の降雨量により当社参道も午前から午後にかけて冠水する事態となりましたが、排水施設整備により平成25年のような地下水位上昇の持続は生じませんでした。
図1の樹勢(樹木の衰退度)評価図では、本格的な工事着工前の平成23年では、11の評価項目がほぼ真円に近い状態(樹勢健全)になっています。ところが、工事終了5年後の令和4年においても回復は真円からはほど遠い状態です。
以上の経緯を踏まえて、昨年までの奉賛会(当社の崇敬者組織)総会では、樹勢回復が遅れていることの原因解明のためにも、樹勢調査の内容がより理解しやすいように、樹勢調査の「見える化」の要望が出されていました。
樹勢調査で実施している衰退度判定は、11の測定項目を目視調査により定性的に調査・判定するものです。金沢河川国道事務所では、衰退度判定を定量的に「見える化」することを目的に令和元年度より、地上レーザースキャナーによる樹勢調査の可能性を探ってきましたが、昨年度の樹勢調査より本格的に使用されました。そこで、社務所では、10月30日に実施された今年の樹勢調査に立ち会わせていただいて、調査手順を見学いたしました。
図3をご覧ください。
本図は南を上にした図です。緑円1は鳥居脇のモニタリング松1、緑円2はモニタリング松2、緑円3はモニタリング松3です。ここでは手水舎の北側にあるモニタリング松3(緑円3)の樹勢調査をレーザースキャナーで実施する手順をみてみます。図4はモニタリング松3の、図5は、ここで使用する地上レーザースキャナー(商品名:FARO社製)の画像です。
まず、調査対象木(緑円3)の周囲で約20m間隔に器械を設置して、地上レーザー観測を行います。図3の5つの赤色四角形は、レーザースキャナーの設置場所(器械点)を示しています。図6は、器械点4においたFARO(青〇印)と、その周囲におかれた標定点(赤〇印で表示)を示しています。
ここでは「スフィア」型の標定点を用いていますが、レーザースキャナーで撮影した画像の水平位置と標高、方向を与えるための基準となる点のことです。高さデータはレーザースキャナーが測定します。図3に示すように、今回は、モニタリング松3について、5つの器械点で撮影した点群データが得られます。次に、標定点の座標を介して、複数地点の計測データを合成して、モニタリング松ごとの三次元点群を取得しました。これら複数の点群データを重ね合わせて合成した三次元点群データ例が図7です。
図7の合成点群データは測定木のではありませんが、昨年の調査で得られた測定木(モニタリング松3)の合成点群データより不要な点(他の樹木や建物等の地物など)を除去(データスクリーニング)して得られたのが、図8です。
レーザースキャナーによる調査対象木の測定は、図1の11個の衰退度判定項目のうち、1)樹勢、2)樹形、3)枝の伸長量、4)枝葉の密度、5)葉の大きさ、の「見える化」が目的です。このうち、3)、4)、5)は「点群データの点数」で測定することとし、図8では 258.7万点となりました。3)枝の伸長量については、「幹から枝先までの長さ(m)」で測定することとし、昨年度は「4.2m」でした。2)樹形、3)枝の伸長量、5)葉の大きさ、については、「樹幹の面積(平方メートル)」で測定することとし、昨年度は 「82平方メートル」でした。
また、図8が示すように、モニタリング松3は、国指定重文の「神門」の方角(東側)に傾いています。これが、図2のように倒木すると大事になりますので、衰退度判定項目外の項目「樹木の傾き」で測定することとし、点群データからの昨年度の計測では「18度」でした。
以上の測定結果が、初期値になりますので、今年度の測定結果との比較が重要になります。図1の衰退度判定チャートの他の項目(樹皮の傷、大枝・幹の欠損、下枝の先端の枯損、梢や上枝の先端の枯損)の「見える化」は、高解像度カメラでの撮影により実施されましたが、その結果は検討中です。
以上
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今年の小松天満宮宝物館公開は10月6日(金)から10月7日(土)は午前9時半から午後4時まで、10月8日は午前9時半から午後1時まで、「百万石刀剣文化の始りと掉尾を飾る2刀の展示」と題して実施されます(宝物館入場にはマスク着用でお願いします)。
なお、10月8日(日)午後1時半より午後3時まで、当社境内の清真館において、研磨にあたった研師・柏木良先生、刀身彫刻・柏木重光先生を招いての講演会を開催します。ただし、清真館内へは、マスク着用、入場無料、入場数に限り有り、を御承知おきください。
本ブログでは、10月3日に開催されました「慶応4年奉納刀の研磨修理に関するマスコミ説明会」の成果について紹介します。宝物公開時の参考資料としてください。
ブログR5.9.21 で説明しましたように、当社には慶応4年正月に奉納の大太刀を掲げた「奉掛の大額」が伝来していました(図1)。
大額の表(右側)には「新鍛治町若連中」とかかれていることから、鍛治町で知られた新鍛治町の若連中がこの奉納行事を取り仕切っていたことを物語っていました。この大額の裏面には多数の寄進者名・町名・寄進額や刀や大額作成にかかわった作人・大工名などが記されていました(図2参照)。
平成15年夏に新鍛治町出身の当社伶人が神具の整理中に所在不明であった大太刀を発見いたしました。これは不思議なご縁と神社役員共に感じ入り、小松市史編纂委員を務めていた方々により、大額裏面の解読作業が開始されました。解読作業の完了を待って平成16年5月に、多くのテレビ局や新聞社が参加してのマスコミ説明会が開催され、その場において、大額に奉掛された大太刀が披露されました。それが、図3です。
その後、大額裏面に記された奉納町と和釘生産との関わりなど背景調査が続けられましたが、20年経過した今年、石川県において31年ぶりに国民文化祭が「いしかわ百万石文化祭」と題して開催されることになりました。百万石文化が華開くのは、わずか3歳にて藩主になられた綱紀卿(利常公のお孫さん)のときからです。お孫さんが元服の歳(承応3年, 1654)に、利常公により瑞龍寺に22点の奉納刀と当社に薙刀を奉納されました。綱紀卿の藩主としての武運長久を願ってのことといわれます。そこで、この家忠作の薙刀と、戊辰戦争初戦の鳥羽伏見の戦いと同時期の慶応4年(1868)正月に奉納の大太刀を奉納当時の姿にかえして、展示することとして研磨に出しました。
平成16年当時にお世話になった有識者の方々や奉納町の代表各位をまねいて、研磨された大太刀のマスコミ説明会が10月3日に開催されました。説明会では担当の当社神職が研磨で明らかになったことを説明しましたが、その中から6点紹介します。
1)奉納刀の全長は155.5センチ(5尺1寸)。刃長は119.4センチ(3尺9寸)。そりは3.5センチ(1寸1分)。目釘穴は2穴。銘・表に「源吉真(花押)」と 「世話人新鍛治町若連中 吉忠」と刻され、銘・裏に「於加州小松」と「慶応四年戊辰正月吉日」と刻されていました。
2)刃文があらわれ、「広直刃(ひろすぐは)小乱(こみだれ)焼き落とし」と判明しました。以下の図4に刃文の広直刃・小乱の一部を示しています。
3)刃文には「焼き落とし」があります(以下の図5の赤丸部分)。刃文が「はばき」までではなく、「はばき」の手前で刃先にぬけさせて終わっているのを「焼き落とし」といいます。白山比?神社蔵の通称「真柄の大太刀」(石川県指定文化財)は「はばき」まで刃文があるとのこと(当日参加の有識者談)。今回の大太刀と同様の「焼き落とし」は 平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した豊後国(大分県)の豊後行平や平安時代中期の伯耆国(鳥取県)の刀匠・伯耆安綱など古刀にもみられるので、必ずしも焼き入れの不首尾といえません。まして、今回のは、加賀梅鉢紋が「はばき」に刻され、多くの人からの多額の拠金で製作されていることから、藩の役人の立会もあったであろうことを考え合わせると、作人の意図的なものとも考えられます。
4)「はばき」については、ブログ9月21日号で説明しましたが、刀身の下部(柄に収まる部分)は「なかご(茎)」とよばれます。下図(図5)は「なかご」表をしめしていますが、赤丸印に刀の作人「源吉真」(みなもと よしざね)花押と刻されています。作人名の上方に「世話人新鍛治町若連中 吉忠」と刻されていますが、デジカメで撮影するのは無理でした。
5)「なかご」に空いた穴は目釘穴(めくぎあな)とよばれます。これは柄(つか)と茎(なかご)を留め具で固定するためのものです。図5を見てもおわかりのように、二つの目釘穴の、特に、茎尻(なかごじり)近くの目釘穴の位置が不自然です。これについて、説明会に出席の有識者の方より、これは大額に固定するための穴でなかろうかと指摘がありました。そこで大額を調べたところ、確かに、二つの目釘穴に対応する小さな穴が開けられていることが判明しました(図6参照)。
このことから、慶応4年奉納の大太刀は、この大額に奉掛して社殿に大絵馬のような形で掲げられていたものと判明しました。
6)作人は「源吉真」ですが、日本刀銘鑑に記載のない刀工です。加州新刀大鑑には一代鍛冶として、「加州大聖寺住村口九兵衛尉 源吉重、安政頃」とあります。時代的には近いので、この刀鍛冶の弟子筋とも考えられる、との当社神職の見解が示されれました。
今回の研磨によって、多くの方に「源吉真」という「加州小松住」の刀工の存在を知っていただき、同銘の刀が出てくることで、その人物の解明につながることを願っています。
なお、宝物公開に来館の方が、国定忠治(1810-1851)愛用の刀が、加州小松出身の刀工「小松五郎義兼」によるもの、それゆえ、この小松には江戸後期にも刀工がおられたことを話されていました。
以上
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本ブログでは、掉尾をかざる慶応4年奉納刀について紹介します。この奉納刀の存在が公けにされましたのは、昭和61年発行の小松天満宮等専門調査会(事務局:小松市教育委員会)調査報告書「加賀 小松天満宮と梯川」において、
「慶応四年(1868)に小松の新鍛冶町の若連中が世話人となり.....多数の寄進を得て太刀を奉納したことである。太刀の 作人は源吉真だった。太刀は伝来しないが奉掛の大額が残っている」(158頁)
と記載された時です。図1が、奉納額です。
図2が奉納額の裏面です。確かに多数の寄進者の情報が記されています。
その後、平成15年8月に、新鍛冶町出身の当社伶人が神具の整理中に大太刀を発見いたしました。先人の導きともいえるこの発見を記念して当社では、小松市史編纂専門委員の山前圭佑、大西 勉両氏の協力を得て奉納大額裏面の解読作業を開始し、また、奉納大太刀の特徴等について県立歴史博物館(当時)の長谷川孝徳氏に依頼して調査を行いました。
奉納は、徳川第十五代将軍が大政奉還を行った慶応3年10月後の、鳥羽・伏見の戦い(慶応4年1月3日から6日)と同時期の慶応4年正月吉日に行われています。奉納者は新鍛冶町はじめ12町の286名と上寺町はじめ7町の若連中によるもので、奉納総額は銀建で「7貫936匁3分」でありました。いわば、藩政期小松町の最後を見届けた郷土の若連中による大太刀(刀身4尺)奉納であることが判明しました。
その概要について、平成16年5月25日にマスコミ向け説明会を開催いたしました。説明会の模様を図3に、発見の大太刀を掲げた大額を示すのが図4です。
爾来、20年の歳月が流れましたが、今年、31年振りに石川県にて国民文化祭が「いしかわ百万石文化祭2023」と題して開催されることを祝して、百万石刀剣文化の掉尾を飾る刀剣として、慶応四年正月に奉納の大太刀を研磨することになりました。研磨は、鳥取県在住の刀剣研(とぎ)師「柏木 良」先生と刀身彫刻家「柏木重光」先生により実施され、奉納当時の姿がよみがえりました。図5をご覧ください。
手前のが当社の奉納刀で(刀長4尺弱、119cm)ですが、撮影場所の都合で切先の部分が欠けてうつっています。奥にあるのが、標準的なサイズよりもやや大きい2尺5寸(75.8cm)の刀です。使用する玉鋼の量も、2尺5寸刀のよりも5倍ぐらい使用するとのことです。
刀身具の一種に「ハバキ」があります。鞘と刀身を固定するために必要なものですが、図6は当社の刀剣のハバキです。
当社のハバキは、素材となる真鍮に金メッキをしたものです。表面に加賀梅鉢紋の彫刻が入っていますから、この奉納行事は加賀藩の許可を得て斎行されたことを物語っています。慶応4年以来、一度も人の手が入っていなかったためか、研師さんがこれを外すのに大変苦労されたそうです。また、155年という年の経過とともに、刀身とハバキの間に緩みが生じていたため、タガネを入れて締めていただいたとのことです。
追:百万石刀剣文化の始りの刀剣として展示されます「承応3年8月銘の薙刀」については、本ブログの令和2年10月28日号、令和3年4月20日号、令和4年4月30日号をご覧ください。
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小松ビジュアル俳句コンテストは5部門にわかれて作品を募集していますが、そのうち3部門の選者名を記したのが図2です。ここに、森村誠一(作家・写真俳句提唱者)とあります。そうです。ビジュアル俳句の提唱者が森村誠一氏なのです。
森村誠一氏が『森村誠一の写真俳句のすすめ』を出版されたのが2005年、その7年後の2012年に「小松ビジュアル俳句コンテスト」の第一回が開催されました。このコンテストには、高校生以下の投稿を対象にした「能順の部」があります。能順とは当社の初代別当を務めた近世連歌の大家といわれる方で、芭蕉も奥の細道の途中に能順を訪ねてきたといわれている方です。
小松ビジュアル俳句コンテストが誕生する3年前の2009年七夕前日に、森村誠一氏が能順の住まいした梅林院旧跡を角川春樹事務所の方とご一緒に訪ねてこられました。能順師は「脩竹斎」とも号しましたが、梅林院竹林には高い竹があるのをご覧になってくつろいだ時に即興で詠んだ句「竹林の奥の香集め 茶を分けぬ」の色紙をもってのにこやかなお姿が印象的でした。7月の和名は「文月」ですから、文芸にもゆかりの月です。当社にお参りされた時も七夕の時でしたが、先月、その文月24日に90歳にて逝去されました。なつかしいお姿を想い、氏のご冥福とビジュアル俳句の一層の継承を祈念して記念投稿といたします。
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