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連絡橋上部工しばしのお目見え
 10月10日の本ブログで紹介しました当社連絡橋の上部工工事がほぼ完成しました。上部工は国土交通省金沢河川国道事務所により設置されました「小松天満宮整備評価委員会」により実施されたアンケート調査の結果を参考にして「天満宮の歴史と調和した朱色で擬宝珠の欄干」をもつ上部工として製作されました。連絡橋の利用は取り付け道路等の完成後のまだ先のことになりますから、完工検査後には退色をふせぐために覆いをつけられる予定ですから、しばしのお目見えとなります。

 朱色にはいろいろな朱色がありますが、当社の朱色はもっとも若い朱色となっています。連絡橋の位置と当社の歴史からいってふさわしい朱色になっていると思います。それには少なくとも三つの理由が考えられますが、一つには当社連絡橋が社殿からみて北東の鬼門方位にあることです。方位的には鬼門は北東ですが、時間ないし季節的には北東とは早春の季節にあたります。これに対して、当社の南西(裏鬼門)方向にある水管橋の朱色はもっとも濃い朱色となっています。下図が水管橋の朱色です(ただし、数年前の写真ですので、周辺の様子は、河川改修事業の進捗している現在とはやや異なっています)。

北東方面から当社に参詣いただき、お帰りにみえる水管橋が初秋から晩秋の最も濃い朱色になっています。また、当社の創建日が明暦3年(1657)旧暦2月25日という春の季節ですから、若い朱色はふさわしいものです。これが第二の理由です。
 第三の理由は北野天満宮とのかかわりです。ご承知のように、当社は加賀藩三代前田利常公により京都の北野天満宮より天神様をお招きして創建されました。北野天満宮には史跡「お土居」が保存継承されています。「お土居」とは全国統一を達成した豊臣秀吉が、天正19年(1591)に京都(洛中)を外敵と洪水から保護するために築いた土塁のことですが、江戸時代中に取り壊されて現在残っているのは、この北野天満宮の境内だけとなっています。この土塁の横には「紙屋川」が流れ、洛外よりこの紙屋川を渡って北野天満宮の境内に入るところには小橋が架けられていています。ただし、現在は、一帯は「もみじ苑」という庭園になっていて、洛外よりの連絡橋とはなっていませんが。下図がその小橋の様子です。

この小橋の欄干の朱色も当社連絡橋と同じく最も若い朱色となっています。当社境内に入る入口の連絡橋の朱色と北野天満宮の朱色が同色であることは、当社と北野天満宮との関わりの歴史にもふさわしいものといえます。


author:bairinnet, category:神社と河川改修, 12:36
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