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玉泉院丸と作庭記(1)
  寛文6年(1666)江戸前期の儒医であった野間三竹は自分の本に、加賀藩五代藩主松平綱利が九条良経の書いた「作庭記」を所持しており、また、藩主の侍読である木下順庵もこの「作庭記」を所持している、と書いた。1666年といえば、利常公が没してから8年後のことであり、小松城の作事には「作庭記」によるとおもわれる箇所が多々みられるから、「作庭記」はもともと利常公が所持していたものと推定されます。問題は、いつから所持していたと考えられるかです。そこで登場するのが、今回訪問する「玉泉院丸」です。4月25日ブログで紹介したように、遠州配下の剣左衛門を招いて玉泉院丸の庭園を造営したのは寛永11年(1634)、小松城の造成は藩主を退いた寛永16年から逝去の万治元年(1658)まで続きますが、これ以前のことです。この玉泉院丸庭園は幕末まで存続しますが、藩政期中にかなりの改造がされている。案内看板(玉泉院丸の来歴)によれば、寛文元年(1661)に「厩を建設し、池を掘る」、元禄元年(1688)に「千宗室に御亭や露地の整備を指示(厩を撤去し、花壇を整備)などです。この来歴によれば、現在、発掘が進められている池も寛永11年当時のものでないかもしれない。それゆえ、寛永11年造成時庭園が「作庭記」の影響をうけているかどうかは不明というのが結論です。しかし、せっかく訪問したのですから、もう少し考察してみます。
 玉泉院丸の詳細な絵図面としては、江戸後期に作成された「御城中壱分碁絵図」(江戸後期)が案内看板に表示されているので、これに示す庭園の様子が「作庭記」の記述と関わりをもつかどうかを見てみることにします。
 作庭記との関わりで注目すべきは遣水の水口と排出口の位置です。水口として現存していますのは、上図で「色紙短冊積み石垣」とかかれている箇所です。絵図面の「現在地」とかかれているところには、滝の水の流れ落ちるV字石があるところです。下図がその画像です。



「作庭記」の「瀧石の組み方」という項目の中に、瀧の落ち方の種類がかかれていますが、その中に「離落(はなれおち)}という落とし方がありますが、それに似ています。作庭記には、「瀧はおもひがけぬ岩の狭間などより、おちたるようにみえぬればこぐらくこころにくい」とあり、また、「のどみゆるところには、よき石を水落の石のうえにあたるところにたてつれば、とおくては、岩の中よりいづるようにみゆるなり」とあります。これにより、思いがけない岩の間から、周囲の石垣とは異なる色のV字形の石を用いて落としているのは、これに沿っているようにも見えます。このV字石にはほかにも「作庭記」との関わりがありますが、下図はこのV字石の遠景画像です。

さて、V字石ですが、これは当社の十五重塔と同じ坪埜石(坪野石)で出来ており、色は黒色です。「作庭記」には「瀧と不動明王」の項目にて、「瀧は三尺になれば皆我が身也、ましてや。。。一丈二丈の瀧はいうまでもない」とあります。一丈とは十尺ですから、玉泉院丸の瀧は一丈二丈の瀧となります。また、不動明王の 忿怒の感情は黒色ないし青黒色で表されるといいます。ただ、作庭記には「不動明王ちかひてのたまわく。。。。必ず三尊にてあらはる」とあります。これについて、水落石と左右の脇石によって流れる瀧の水そのものが不動明王といわれますから、当時の滝口模様が現在のものであるとすると、ここの瀧は不動明王を意識したものとは思えません。
 「作庭記」の特徴は遣水にありますが、水口が瀧口だとしても排出先が不明です。公園管理事務所にお尋ねしたところ、場内の水の流れを示した絵図はあるそうですが、公開していないのと、発掘調査がすまないと確かなことはいえないとのことでした。
 「作庭記」との関わりを見る為に、必要なことには「鑑賞場所がどこか」という問題があります。寝殿造りの庭園なら、寝殿(正殿)から庭園を見る形で作庭しますが、ここの鑑賞場所はどこになるでしょうか?これには、もうすこし詳細な絵図面を見なければなりません。
author:bairinnet, category:玉泉院丸, 07:18
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