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小松城と小堀遠州
 小松城と小松天満宮と我が国最古の庭園書である「作庭記」との関わりを説明した当社案内板を見たとあるケーブルTV局よりの依頼により、過日、小松城天守台にて「小松城と小堀遠州」についての案内をいたしました。よく知られているように、小堀遠州と加賀藩三代前田利常公とは茶道を通じる交遊関係がありました。茶道と露地(庭)とはつきものですから、庭園づくりについても指南をうけています。有名な逸話は、寛永11年の将軍家光上洛の折、利常公も上洛に供奉するために琵琶湖畔の大津屋敷に滞在しました。その折りのこととおもわれますが、茶室の露地として泉水を掘り、築山を築いて庭を造成しましたが、それを見た遠州より「大名の庭としては小さすぎる」と批評されました。それを聞いた利常公は、泉水を埋め、築山を壊して、かわりに、茶室から琵琶湖と比叡山と三上山といった近江の大風景が観覧しうるように作庭したところ、遠州から「これぞ大名の庭」とほめられたとのことです。「作庭記」の記す平安時代寝殿造りの庭づくりの主題は自然順応主義にあり、自然の好風景を庭ずくりや建築に生かすことです。寛永6年には、江戸城西の丸の大手門内に山里丸を築く大工事が行われましたが、その際、遠州は茶室から見越しに富士山がみえるように作庭して将軍に喜ばれています。
 ところで小松城と小堀遠州ですが、下図は、現在、金沢市立玉川図書館所蔵の「小松城御本丸御殿之絵図」より当日の案内用に、要点を書き取ったものです。

 小松城の天守台には三層の櫓が建立されていました。よく、「小松城の天守台には天守閣ではなくみすぼらしい櫓があるばかり」といってがっかりされる方がいますが、そうではありません。姫路城にしろ彦根城にしろ立派な天守閣を備える名城で現在残っているのは全てが大坂役前の「武」の時代に築かれたものばかりです。これに対して、小松城は「元和偃武」以後の、平和の時代に、一城一国制の例外として造営を認められた城であり、また文化人大名であった利常公の隠居城として造営されたのですから、三層の櫓は時代と城主を象徴するものといえます。
 上図の番号1のあたりには朱色で線がひかれて「御櫓より丑の方に当て能州(能登)宝達山見ゆる」と特記されています。また、本丸御殿裏式台のところにも朱色の線(上図の2番)がひかれ、「御式台より辰の方に当て白山」と書かれています。「新修小松市史資料編1(小松城)」には三層櫓の見取り図が掲載されていますが、三階の北側にも窓が開くようになっていますから、ここから宝達山が見えたのでしょう。宝達山は能登で一番高い山、白山は加賀で一番高い山ですから、これら自然の大山の景色を取り込むように天守台の櫓や本丸御殿を造営することは遠州流にも合致しています。
 小松城の「遣水」(水まわり)に「作庭記」の影響がよく見られますが、これについては当社境内内の案内看板に説明していますから、ここでは、石立てについて一例を紹介します。石を建てるには多くの禁忌が「作庭記」に記載されています。一つとして「庭上に家屋近くに三尺以上の石を立ててはならない」とあります。また、「東方に他の石よりも大きな石の白色のものを立ててはならぬ。。。他の方角にも、その方角を打ち負かす目立った色の石で、他の石よりも大きなのを立ててはならぬ」とあります。東の色は木気の青(緑)であり、白は金気の色ですから、金で木を切り倒すのように相剋の関係にあり好ましくありません。東ならば水気の黒色か、木気の青(緑)色を使用すれば相生の関係になって好ましいとされます。陰陽五行の調和で万物の円滑な循環が成り立つという思想が「作庭記」にも伺われる禁忌です。これに対応するのが、上図の3番の箇所です。本丸御殿の藩主の常在所である「御書院」の北側の庭上に「三尺五寸五分斗坪埜石高さ尺二寸余」と特記されています。すなわち、長さ三尺五寸五分の正方形の石で高さが一尺二寸の坪埜石製の石が置かれていることを示しています。坪埜石は現在の金沢市坪野で産出された坪野石のことで、色は黒色で、高さも三尺以下ですから禁忌にはふれていません。これ以外にも「作庭記」ゆかりの箇所・項目はありますが、本日はここまでにいたします。
 本ブログの「小松城項目」では、次回、「玉泉院丸」を訪れてみたいと思います。寛永11年の将軍上洛に供奉し終わった利常公は金沢城に帰城するやいなや、京都より連れ帰った遠州配下の剣左衛門ともども玉泉院丸の庭園造りを自ら指揮いたしました。丹羽長重造成の小松城の大規模改築開始の8年前のこの工事が注目される由縁です。
author:bairinnet, category:小松城, 09:09
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