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小松城入城380周年を記念して説明看板増設さる

 寛永16年、齢47歳にて加賀藩三代藩主前田利常公は加賀藩の家督(80万石)を長男光高卿にゆずり、次男利次卿を富山藩(10万石)、三男利治卿を大聖寺藩(7万石)として、一国一城令の例外として小松城改築を幕府に許可されました。翌、寛永17年(16406月小松城に入城されてから、今年は380周年の記念の歳となります。社務所では、かねてより境内の説明看板の設置に努めてきましたが、記念の年に、新たな説明看板を社殿手前の参道沿いに設置しました。

 

 

遠方よりこられた参詣者より、「社殿が北野天満宮の四分の一になっているとネットでみたので来ました」、「小松城と金沢城の一直線上にあるそうですが、守山城とはどういう関係ですか」といったご質問をうけますので、これらにこたえるべく設置したものですが、本ブログでは作成にいたる経緯を説明いたします。

 昭和50年代後半に、小松市教育委員会が事務局になって、当社と梯川にかかる歴史・自然・河川改修方法などを調査研究する調査会が設置されましたが、それと並行して、先代宮司の指示のもと、社務所でも独自の調査研究が進められました。当社の立地の固有性に関する最初の研究成果は、民俗学者であった吉野裕子氏より紹介されて研究班に参加していた黒岩重人氏により、当社が小松城と金沢城を結ぶ一直線上に立地していることが判明したことです。2.5万分の一の地図を貼り付けて、両城の三角点を結んで直線をひく検証作業でも確認されました。昭和62年(1987)のことでした。下図は黒岩氏作成の図面です。

 

その後、社務所独自の調査により、この一直線を伸ばしていくと、高岡市郊外の山城である守山城に達し、これら3城はすべて利常公が居住された城であることが判明しました。この3城のうち、小松城だけは生涯にわたり2度住まわれたお城であり、芭蕉の奥の細道において2度訪れた町が小松だけとされることとあわせて、「再訪の街こまつ」にふさわしい故実となっています。

 

 藩政時代に小松城城代を勤めた冨田景周が文化4年(1807)に著した『加賀州能美郡小松城来歴並びに黄門一峰公小松養老以後事状考』には、「天満宮を梯河濱に新たに建立也。本堂は良匠山上善右衛門に命し京北野天神社状を四分の一に縮造すと云」とかかれています。このことを確かめるべく昭和39年(1964)刊『重要文化財小松天満宮修理報告書』では、現在の北野天満宮と小松天満宮の平面積を以下のように比較し、比率は4.7対1となり四分の一になっていないと指摘しました。

 

これに対して、先代宮司監修で昭和57年(1982)に刊行された『小松天満宮誌』の撮影・編集を担当した宮 誠而氏は、最初に北野天満宮と小松天満宮の正面図に着目し、正面図の面積比が四分の一になっていることに気づいた。下図が、正面図を比較したものです。

 

 ところが、北野天満宮の現在の社殿をそのまま四分の一に縮造した場合、特に、小松天満宮の両楽の間があまりに小さいものになってしまう。そこで、北野天満宮の現在の社殿から両楽の間を取り去った社殿と小松天満宮の平面積を比較してみると四分の一になることを見つけたのです。黒岩氏の発見の翌年の昭和63年(1988)のことでありました。その後、何故、両楽の間を取り外すのかの究明は社務所に引き継がれました。長年にわたる先行文献調査の結果、福山敏男(1942年初版、1989年復刻版)『神社小図集』等により、豊臣秀頼による慶長12年(1607)の北野天満宮再興時に両楽の間が付加されたことが判明し、小松天満宮は、この慶長の修理以前の北野天満宮の平面積の四分の一になっていることが判明しました。

 

 最後に、何故 四分の一かです。本社の鳥居横の説明看板中の下図が示すように、二つの日の出線(冬至と七夕)が本殿に射し入るように社殿、神門と逆さ北斗型参道が敷設されています。

 

 

この配置関係は創建時以来不変です。このような配置を確保しつつ慶長12年以前の北野社を縮造するという利常公により与えられた課題に対する善右衛門の答えが四分の一であった、というのが社務所の推定であります。

 

 

 

author:bairinnet, category:宗教的建造物のシンボリズム, 06:00
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