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小松城本丸櫓台・本丸御殿の方位にこめた願い:金沢城二の丸御殿遺構調査の報道に接して

 石川県では金沢城二の丸御殿復元にむけての基本方針を2020年度に策定するための準備作業として遺構調査を開始することとなったとのこと。遺構調査により建物の向きなどが確定するかもしれません。このことの意義を知るための参考として、ここでは小松城本丸櫓台・本丸御殿の絵図面に朱色で記された方位にこめられた意味について探ってみたい。このブログを作成する数日前に、石川県文化功労賞を受けられた華道古流10世家元の廣岡理樹家元を祝しての初春の集いが金沢市において開催された。この会には、毎年、当社例祭に献花していただいている古流柏葉会の方々も出席された。廣岡家元は、古流4世家元の関本理恩ゆかりの古文書等を学ばれ、長年にわたり金沢と東京にて「陰陽五行」などアジア古来の哲学の研究会を開催され、当社社務所からも折に触れ参加させていただいている。

 下図は当社蔵の小松城絵図ですが、北を上にして示してあります。

 

 

白丸でかこったところが本丸櫓台と本丸櫓(三階)であり、それに隣接する大きな建物(約1600平方メートルの総床面積)が本丸御殿です。本丸の東側に二の丸があり、石川県立小松高校はこの二の丸地区にあります。二の丸の南側に三の丸があり、現在は市民の憩いの場である芦城公園になっています。本丸櫓台の丑寅(北東)方向に当社(紫色で囲った部分)があります。

 次の第2図は、現在、金沢市立玉川図書館所蔵の「小松城御本丸御殿之絵図」より、要点を書き取ったものです。

 

 

本丸御殿絵図には、朱色で二本の線がひかれています。本丸櫓台から引かれている(1番と記されている)朱色の線には「御櫓より丑の方に当て能州宝達山見ゆる」とかかれ、本丸御殿の式台からひかれている(2番としるされている)には「御式台より辰の方に当て白山」と記されています。 第2図中に記された方位は、12支を用いた方位を使用しています。これにかかわる陰陽五行思想に「三合の理」と「支合」があります。第3図を利用して説明してみます(12支と陰陽五行との関わりについては、吉野裕子氏の著書を参考)。

 

12支には生活に必要な5つの原素(気)である木火土金水の五行が割り振られていますが、五行が生まれ、旺んになり、滅するという生旺墓(三合の理)もまた割り振られています。本丸地区は城の中央部の西方になりますから、方位的には酉の方位に立地し、五行は金気です。金気は巳で生まれ、酉で旺んになり、丑で滅するとなります(図中の金色の点線で表示)。金は金属の「金」に擬せられ、「土固まって金となる」といわれるように金山に擬せられます。江戸時代は能州(能登)の宝達山には金鉱山がありましたから、金にゆかりの方位であり、数年前に地元新聞に、梯川の堤防から撮影した宝達山の写真が掲載されましたので、現在はもちろん、本丸櫓からも丑の方に宝達山が見えました。

 次の「支合」ですが、12支の各支は互いに結びつく相手があって、その結合は化して新たな五気を生じるとされるものです。12支の辰と酉は合して金気を生じます。城で一番大事な本丸が酉方位に立地し、それから特記されている二本の方位線が金気ゆかりであることから、小松城は「金気の城」といえます。「金」は最も堅固で永遠の象徴とされ、また、「金鶏」といわれるように財宝にも擬せられます。小松城を大改築した加賀藩三代利常公が、この本丸御殿を司令部として、文化立国のための民生安定と持続可能な農業生産基盤構築をめざして「改作法」を実施されました。この改革の成功と北前船航路開拓による大坂米市場活用とが相まって、文化立国のための財政基盤強化にも役立ったことを想起しますと「金気の城」は殖産興業を含む文化の力による永遠の繁栄を願ってのことと理解しえます。

 次に、白山の方位である辰の方位との関わりです。五行には、木火土金水の各気が順送りに次ぎの気を生み出していくという相生の理があります。辰の五行は「水気」(図2の水色の丸印で表示)でありますが、金気は水気を生じるというように、金気と水気は相性のよい方位の組み合わせですし、水気は次ぎの木気を生じ、神仏習合時代の白山信仰において、白山の本地仏とされた観音様は「木気」とされましたから、神仏の御加護をうる上でも由緒ある方位といえます。

 最後に、金沢城二の丸御殿との関連にて一言。この「小松城御本丸御殿之絵図」の作成年代として、『新修小松市史』では天明6年(1786)から文化6年(1809)のこととされています。建立時の絵図面ではありませんが、本丸櫓台は建立当時のままに現存しますし、本丸御殿も明治維新後の取り壊しまでは、大きく変化しているとはいえません。この絵図面の書かれた時代が蘭学者の公職追放や朱子学以外の講義を禁止した「寛政の改革」(1787-1793)と同時代ないし近い時代であることと、辛酉革命をきらって改元が依然行われた時代背景を考えますと、この絵図より前の絵図に書かれていた、ないし知られていたことをそのまま書いたと考えられます。

 昨年存在が確認されました金沢城二の丸御殿の絵図面は、1811年に再建された折の絵図面ということですから、伊能忠敬による日本地図作成の期間中(1800年から1816です。この時期は賀藩においても西洋近代科学の受容が進行していますし、また、国学の興隆から、伝統的な東洋思想への関心はうすれていきます。金沢城二の丸御殿は2万平方メートルという大きな敷地に、藩主の住まいと大藩の政務を行うという実用的な御殿であることを考えますと、陰陽五行的背景をもつ特定の方位が意識されていない可能性があります。遺構調査により二の丸御殿創建時の礎石ないしそれとの関係が確認されれば、主要建物の立地方位が確定します。方位に特定の意味がないとなれば、小松城の特異性が際立つことにもなり興味あるところです。

 

 

 

author:bairinnet, category:小松城, 19:51
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