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瑞龍寺の着工年が当社と同じ承応2年と判明

 令和元年7月27日の地元紙に、「瑞龍寺造営 通説の8年後」というスクープ記事が掲載されました。文武両道にすぐれ将来を嘱望されていた加賀藩4代藩主光高卿が31歳の若さで急死された正保2年(1645)に着工との通説を覆して、承応2年(1653)に造営工事が開始されたことを示す新資料の発見を伝える記事でした。

 現在は休止中ですが、平成21年の当社のHPに「小松天満宮の着工年をさぐる」という記事が掲載され、その中で、湿地帯に地盤改良工事をして当社造営に着工したのは承応2年と結論づけた理由を説明しました。当社の創建年は明暦3年2月25日であることは、創建の棟札から明らかですが、当社への奉納物の最初は承応3年です。しかも、承応3年には釣り灯籠はじめ金物ばかりです。そうした奉納物の一つが下記に示す奥村因幡守和豊(加賀八家奥村分家第二代当主奥村庸礼(やすひろ)の初名)により奉納の花瓶の全景と奉納者名等の記載部分です。

 

 

 

 

 着工年解明に際して用いた故事は、越後高田藩主の松平忠輝の生母 茶阿局が南禅寺 金地院崇伝に書を送って、御年22歳の忠輝が御座所より南の方に新城を建設しようとしているが、その吉凶を占ってほしい」との問いに対して、崇伝が方位を占って吉相を得たというものです。このことを紹介している玉置豊次郎著『日本都市成立史』の記述より、崇伝の用いた占法は古来からの方角占である「遊年」と推察されました。これを用いた呪符木簡は7世紀にも出土しており、古くからの占法です。

 これを用いて調べてみますと、1593年生まれの利常公は承応2年(1653)には還暦(61歳)の御年となり、遊年は艮方向(北東)となります。小松城が御座所の利常公にとって、艮方向に社寺を建立することは吉と判断されます。ちなみに、通説であった正保2年、53歳の利常公にとっての遊年は、同じく 艮方向です。今は休止中の当社HPにかわり、今回の新発見文書との関連で、平成21年記事についてお伝えしました。

 

author:bairinnet, category:神社の歴史, 07:04
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