RSS | ATOM | SEARCH
白山長吏家墓地を訪ねて

 当社に奉納収蔵されてきた古文書類は、長年にわたり故人となられた国文学研究資料館 棚町知弥氏とその後を継がれた筑波大学 綿抜豊昭氏により調査や目録作りや翻刻が続けられてきています。古文書を書かれた方々のお名前をみながら、お互いの関連や奉納の背景調査やゆかりの古文書やゆかりの地を訪ねることを社務所としては行ってまいりました。

 そうした古文書の一つに、「天神御連歌一代記」(寛政4年(1792)4月、能慮弟常丸写・1冊)があります。能慮とは、天明6年(1786)から文政4年(1821)の間、当社宮司を務めた梅林院五世能慮のことであり、能慮が伝えたことを書き記した『連歌之伝書』(金沢市立図書館蔵)があります。

他方、白山比弯声卅兔第2 「長吏日記」には、白山7社惣長吏 澄令の後を継いで白山7社惣長吏になったのが 澄固であること、澄固は小松梅林院四世由順の子であり、梅林院五世能慮の弟であると記載されている。澄固が継職した年が文政元年(1818)逝去したのは弘化2年(1845) 67歳とありますから、逆算すると常丸が「天神御連歌一代記」を書き記したのは、およそ14歳頃となります。常丸が白山惣長吏家に養子にゆくにはそれなりの理由があるが、本ブログの終わりまでには明らかになるのでお待ちいただきたい。

 幕末までの藩政期、白山本宮(現在の白山比弯声)を統括する長吏は、白山七社惣長吏を兼帯して、代々、「澄」の字を継いで世襲制で勤めていました。

 過日、白山比弯声劼凌誠Δ気鵑飽篤發靴討い燭世い毒鮖劃考家の墓地を訪れてきました。白山7社惣長吏を勤めた方といえば、かなりの数の方々がおられるのですが、文字がよめて現存する墓標は2基だけでした。

図1は長吏家墓地の全景です。

赤線で囲ってある墓石、没年が享保10年(1725)とよめますが、お名前の文字は「澄意」のようによめます。インターネット検索で白山7社惣長吏と検索して出てくる唯一の惣長吏が「澄意」で、この方は、越前藩と加賀藩で争った白山争議に関して、京都朝廷から白山山頂神祠再興の勅許を受けてきたことで、加賀藩五代藩主綱紀卿から褒美等を頂戴した惣長吏です。時は、寛文6年(1666)ですから、没年時のこの方の御年がわからないと、この方であるとは断定できません。

これに対して青線で囲った墓石は、割れてひどい状態ですが、澄盛、天明3年2月22日とよめます。没年月日からも、白山惣長吏 澄盛の墓石であることがわかります。

 

澄盛には3人の子供がいて、長男が次(澄盛を第一代とすると第二代)の惣長吏の澄昌、次男が第三代の惣長吏の澄令、もうひとりが娘さんで、この方が梅林院第四世由順の奥さんになった方です。由順には男の子が二人いて、長男が梅林院第五世の能慮、次男が常丸です。 この常丸が、第三代惣長吏 澄令の養子になり、第四代惣長吏になった澄固であります。ただ、澄固の墓石とわかるようなものは見当たりませんでした。

 明治維新後の神仏分離時の混乱期に長吏家の関係のものはなくなり、この2基の墓石は後年再建されたもののようですが、長吏家の墓地のため、維持管理が難しく、この時期に調査さしていただいてよかったというのが感想です。

author:bairinnet, category:宝物紹介, 16:03
-, -, - -