RSS | ATOM | SEARCH
小松天満宮能舞台における2つの奉納行事


小松天満宮創建360周年記念行事として、加賀藩ゆかりの能舞台において以下の記念行事を催行いたします。

 

1)平成29年6月3日(土)午後1時半より2時

    能楽奉納 

 

2)平成29年6月4日(日) 午後2時半より3時

    献花式

 

 

1)能楽(謡・仕舞・舞囃子)の奉納

 

    (6月3日(土)午後1時半より午後2時)

 

  • 小松城での町入能

 関ヶ原の戦の翌年、慶長六年(1601)に加賀藩二代藩主利長公は京都よりの帰途、小松城において後の三代利常公(幼名猿千代君)に対面され、小松住の諸橋太夫、波吉太夫に命じて市人を城中に入れての町入能を催されました。その後、三代藩主になった利常公は、寛永十六年(1639三国分立して小松城に退隠しましたが、城と町割の概成した慶安四年(1651)正月二日と四日に、小松の惣町中へ見物を許して小松城にて町入能を催しています。こうした町入能は小松の町に現代まで続く能楽伝統の源流となっているのであります。

 

  • 小松天満宮の能舞台

 利長公による小松城での町入能に奉仕した諸橋太夫と波吉太夫は、共にその後、代々、加賀藩能役者を勤めました。明治維新後に金沢に残されていた波吉太夫家の能舞台は、小松の能楽愛好家の方々の募金により当社に移築されました。明治27年5に上棟祭が斎行されましたが、直後に勃発した日清戦争のため、造営工事は中断し、野ざらしのままで放置されていました。日清戦争後に工事が再開され、鏡板を除いてほぼ新築同様の能舞台開が斉行されましたのは明治二十九年十月十六日、十七日でありました。能舞台開番組の最初は佐野吉之助、筒井傳七らによる「高砂」でありました。

 当社の能舞台は,その後、昭和十年代の梯川改修工事により西方広場に移築されましたが、平成の河川改修により明治時代に建てられていた故地に戻って再建されました。

 

1) 当社能舞台開における「小松能楽会」による能楽奉納番組

平成の河川改修による移築にともなう能舞台開においては、「小松能楽会」の各位に下記の演目を奉納していただきます。

 

素 謡 「翁」

 謡曲「翁」は天下太平・国土安穏・千秋万歳・五穀豊穣を祈る儀式として示された目出度い曲目です。翁が、祝儀で謡うことにより、眠っていた天地の精霊が目覚め躍動するのです。目出度い式典において最初に謡う曲です。

 

仕舞 「老松」

 太宰府天満宮(菅原道真公の菩提寺が「安楽寺」であったことから、安楽寺天満宮ともよばれていました)へ道真公を慕って飛んできた梅(飛梅と言われている)と松(後を追った老松、追松とも解釈される)を称えてあり、老松の神を中心にして梅を配した菅公ゆかりの曲目であります。松は、長寿を寿ぎ、梅は若い美しさを称えています。梅は、文学が盛んな時は、色も匂いも優れているので“好文木”と名付けられたことが、語られています。日本の国歌“君が代”の歌詞にも「千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」と、「老 松」の一部より抜粋されています。

 

舞囃子 「高 砂」 

明治二十九年の当社能舞台開で最初に演じられた曲目であります。また、藩政期に加賀藩の最も重要な年中行事に、正月二日の夜の謡はじめ(松囃子とも言う)の式があり、この時の囃子にも「高 砂」が謡われているように、お目出度い曲目であります。竹の熊手を持つ老翁と杉の  ほうき木  を持つ老婆が舞台となっている曲目です。高砂の松と住吉の松とは遠く離れているのに、なぜ  相生の松 と言われるのでしょうか。老翁は、私は住吉(大阪)に住む松であり、老婆は、高砂(兵庫県高砂市)に住む松であると答え夫婦と言うものは、例え遠く離れて暮らそうが 心を通わせあって 生きていくものだと答えるのでした。めでたい席上で良くこの曲が謡われるのも そのような意味があるのです。

   

 

 

2)献花式 (6月4日(日)午後2時半より午後3時)

 

  • 華道の歴史

 平安時代にかかれた「枕草子」に、「勾欄のもとに、あおき瓶のおほきなるをすえて、桜のいみじうおもしろき枝の五尺ばかりなるを、いと多くさしたれば。。。」と書かれたように、「いけばな」は古くから美の対象として親しまれてきました。現在に伝わる華道の歴史がはじまりますのは、上流階級の住居形態が寝殿造から床の間をもつ書院造に変化していった室町時代といわれます。床の間を装飾する立花

( りっか ) の様式が発達し、また、茶道の隆盛とともに茶席に飾られる茶花の様式も編み出されました。

 長い戦乱の世から平和な江戸時代になりますと、改めて人倫の道(人が日常生活において常にまもるべき道)の大切さが再認識され、徳川幕府が朱子学を官学としたこともあり、伝統的な東洋思想への関心が高まってきました。この時代風潮を背景に、江戸時代後期には、陰陽五行や天地人といった格式の中に自然の姿を生かす「

( かく ) ( ばな ) 」の様式が生み出されました。

 明治維新後には、華麗な西洋花や西洋建築が我が国に導入されると共に、植物や自然の個性を自由にいかした生け方としての「盛花

( もりばな ) 」の様式が編み出されてきました。 こうした「いけばな」の歴史と共に諸流派が、それぞれの流派の原点をふまえた伝統と現代社会の欲求をふまえた革新を両輪として、活発に活動しているのが現在の華道といえます。

 

  • 小松天満宮における「古流柏葉会」の献花

 

 創建360周年にあたり、藩政期の文化をつたえる当社能舞台において、「生花( せいか ) 」の伝統を受け継ぎ、平成14年斉行の菅公千百年祭をはじめ当社祭礼時の献花にご奉仕いただいてきています「古流柏葉会」に献花をしていただく次第です。

  ちなみに、江戸期の古流の家元は江戸の加賀藩上屋敷と縁が深く、将軍の加賀藩上屋敷への御成りや最後の藩主の祝言のときに床の間や各部屋に花を生けた克明な記録が多数残っています。その関係で江戸時代後半から江戸のみならず金沢や南加賀の門弟が多数おりました。

author:bairinnet, category:-, 04:46
-, -, - -