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北国街道参勤交代路を歩こう(湊往来編)
 
1)はじめに
 
  近年の郷土の歴史・健康志向ブームの一環として、北国街道を歩こうという方方が増えているようです。当社にも芭蕉のたどった道を自転車で踏破されている方や藩政期の北国街道の風景を尋ねて小松城跡から歩いて参詣される方々がおられます。
  こうした機運に応じて、各所で北国街道の道筋や名所跡を記録する試みがなされています。昨年11月1日には、NPO法人加賀市観光ボランティア大学の10周年記念事業として、北国街道研究部により「北国街道を行く」が出版され、大聖寺藩内の北国街道を紹介する大変きれいな、こじんまりとした冊子が出版されました。ただ、この冊子は市販されていませんので、加賀市立中央図書館などで閲覧することができます。
この小冊子は大聖寺藩内の北国街道を中心に紹介していますので、芭蕉が小松から山中温泉に行き、山中温泉から那谷寺に参詣して再び小松に戻る際にどのような道筋を通ったかの疑問には答えられません。山中温泉も那谷寺も藩政期には共に大聖寺藩領内にありましたので、現在の道筋(粟津温泉から那谷寺にゆく)とはかなり異なっていると思われるからです。NPO法人加賀市観光ボランティア大学さんには、次は大聖寺藩内の芭蕉のたどった道の案内図を作成していただきたいと思います。
 小松市内の北国街道町並は比較的よく保存されていますが、大聖寺藩と小松との境界にある今江付近の風景は、加賀三湖のうち、今江潟と柴山潟の干拓により大きく変化し、また、梯川を渡ってから手取川河口の湊に向かう北国脇街道湊往来は明治以降の土地改良事業等により道筋が消滅している区間があります。
 安政5年、加賀藩第13代藩主は、幕府の許可のもと、北国上街道を通って小松に入り、それから湊往来を通って金沢に帰城する際に、当社にも参拝していますので、社務所ではかねてより北国脇街道湊往来の道筋解明を進めてきましたので、その結果を紹介します。
 
2)明治以前の絵図面にみる北国街道・脇街道湊往来

  13代藩主前田齊泰卿の帰国に先立つ安政5年2月に、家臣の遠藤数馬高朗(たかあき)は、道中案内絵図「駅路の鈴」(うまやじのすず)を作成した。この絵図は江戸から金沢までの道中の名所旧跡を説明したものであるが、当社にも一部奉納されている。齊泰卿は4月18日に江戸を立ち、5月6日に小松に宿泊して、翌5月7日は当社に参詣してから安宅湊、本吉、石立に立ち寄ってから水島にて北国街道(本街道)に出て松任に宿泊している。図1は当日のとられた道筋を絵図面からとってみたものである。
  
 


   梯川にかかる唯一の橋であった梯大橋(現在の小松市大川町と対岸の茶屋町の間の梯川に架かる橋)を渡ると、寺井から粟生の渡しにいたる北国街道(本街道)と手取川河口の湊にいたる湊往来(絵図では湊廻り道と表示)に別れている。13代藩主の通ったのはこの湊往来であった。
 当時は異国船がひんぱんに近海に出現し、海防意識の高まった時代であったから藩主は途中に安宅湊にも立ち寄っている。この絵図面には安宅湊への道筋は記載されていない。
文政2年作成の絵図面に当社付近の道筋が記載されている。それを示したのが図2である。
   
 

 
   藩政期には、当社参道から上牧に入ってから安宅にゆく道筋が安宅本街道であった。現在とは様変わりであるが、当時は梯川にかかる橋は梯大橋しかなく、この橋を渡ってから安宅にゆくのが道筋であった。それゆえ、13代藩主も当社参詣後には、この安宅本街道を通って安宅湊に出向いたであろうが、安宅からどのようにして湊往来に戻ったかは分からない。
   「加賀藩資料」によれば、藩主は当社に参拝後は、安宅湊から石立まで歩行にて進まれ、海岸所々御見物と記され、石立をご覧後に乗り物に乗られたと記載されている。忠田敏男著「参勤交代道中記」によれば、前年の安政4年の江戸出府の折には、8キロほど信州の山道を歩かれたと記されているので、安宅湊から石立まで歩いて進まれたことは確かである。ただ、2千人規模の百万石大名行列であるから、やはりこの安宅本街道を戻ってから湊往来を通って本吉に向かったと考えるのが妥当であろう。
 
3)明治維新後の湊往来

  当社関係の出版物である「加賀 小松天満宮と梯川」に、維新後の湊往来の変貌を示す図面がいくつか掲載されている。最も早い図面は明治21年作成の小松駅付近の地図である。当社付近を示したのが図3である。維新後に石川県監獄薯が城内に設置され、囚人により小松城の破壊が実行されたため、堀割も大半が埋め立てられていることがわかる。北国街道の道筋は藩政期のままであり、桃色で着色されている部分は北国街道本街道を示している。図は北を上にして描かれているので、小松市内から泥町(現在の大川町)を通って梯大橋を渡り梯出村(現在の茶屋町)から島田村を通り、寺井から手取川に向かう道筋である。
 図中に折橋川と記されているのは、中ノ江村(能美市中ノ江町)の上流から蛭川村、梯村から当社北側を通ってから梯川に流れ下っている川である。農業用水路であると共に、道路交通が未発達の明治の中頃までは上流域への物資運搬にも使用されたために川幅も広い河川であった。
 
 
   
  
   図中に赤色で表示されているのが、北国脇街道湊往来である。梯大橋を渡ってから左折し、大国神社前を通ってから当社参道に入り、折橋川にかかる小橋を渡ってから上牧村を北上して、大島村から高坂村、下ノ江村から手取川河口の湊に向かう道筋である。
 次ぎの図4は、明治42年「小松北部:地形図からの図面であるが、北国街道及び北国脇街道湊往来の道筋自体に大きな変化はない。小松城内は本丸櫓台を除いて全て除却・埋め立て完了し、二ノ丸跡地に小松中学校(現在の小松高校)が設立されている。また、鉄道(北陸線)が敷設され、物流が海運・水運から陸運に大変化した時代である。また、土地改良事業とそれに伴う神社合祀が進んだ時代でもあった。
  
 

 
   蛭川町出身の郷土史家であった西孝三氏は平成7年の小論「蛭川町とお宮さん」において、この土地改良事業について次ぎのように回想しておられる。
  「中ノ江地内より蛭川の北部から西南部(現在の城北町の町中)を貫流し、御館の西方から梯の神社裏を流れ天満宮の西後方から梯川に注いでいた「折橋川」の流路位置の変更は、町の大きな変化であった。流路の変更は、その詳細な年月等は未だ不明であるが、田区改正(耕地整理)事業の奨励を図り、推進した政府の方針に則り行われたようである。蛭川の耕地整理事業は明治39年に計画され41年から工事が始まっているので、この川筋の変更は、明治30年代の後期に人工川としての新堀川の新設によるものであった。これに伴なって、永い間集落の縁にあった水路からの荷揚場は廃止され、同39年に白山社、八幡社は加茂神社に合祀され、旧社地の丘状の土は、ほとんど旧水路の埋立用土として活用された。」
 
   図3と図4を比較していただくと、折橋川が南北方向に直線状に流路変更されていることが判明するし、この新流路の右下部分に、御館村南側から天満宮北側を通って梯川に流れる水路(現在、文田川と呼ばれている)も地図上に示されていることがわかる。
 北国脇街道湊往来の道筋が変化しだすのは、次ぎの図5からである。図5は「大正15年実測梯川本川通平面図」(石川県庁資料より建設省が作成したもの)であり、大正時代当時、河川の治水事業を行っていた内務省の意向をうけて、梯川の治水事業計画策定のために石川県庁が作成したもののようである。
 
  

 
    図中の堤防予定線とは、昭和10年代にかけて実施された梯川の改修事業により新設予定の堤防のことであり、ほぼ現在の堤防と同じ位置になっている。この改修事業により当社舞台は西方に移築されたが、平成の河川改修事業により、本舞台が元の位置付近に再建されている。
 大正15年図より判明するのは、当社から上牧村を北上して大島村にゆく北国脇街道湊往来沿いに新たな水路(西川用水)が新設されていることであり、この水路に折橋川が流れ込んでいるため、当社北側の水路には文田川のみが流れるようになったことである。
 この後の正確な時期は不明であるが、この後、上牧村から大島村にかけての湊往来道は利用されなくなり、第二次大戦後にはほぼ消滅していったと考えられます。
 現在では、当社から湊往来道をゆくには、近くの農道を通って小松市民センターを迂回してから小松インターへゆく大きな街路を横断して大島町を通過してゆくことになる。この大島町から高坂町、下ノ江町を通っての湊往来道はほぼ昔のままの通りである。なお、湊往来が北国街道(本街道)に出会う白山市水島町から能美市大成町(下ノ江町の北)までの現在の道筋の動画が、「北陸道の迂回路、湊廻り往来」というタイトルで YouTube で見ることが出来ます。水島町から長屋町でJR線路を渡って美川南町から手取川を渡り湊町に出てから能美市に入り大成町あたりで動画は終わっています。
 「北国街道を歩こう」の皆さんには、郷土の歴史に思いをはせつつ健脚に親しんでいただければ幸いです。
                                                               以上

 
author:bairinnet, category:北国脇街道・湊往来, 10:49
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