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能舞台の来歴明らかになる
 

下図は正面からみた当社能舞台の本舞台です。



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22日の当ブログでは、能舞台の来歴について以下のように紹介しました。

「当社の能舞台は、加賀藩お抱え能役者であった波吉家の能舞台であったものを明治二十九年に、金沢より小松に移築したものです。」

 この説明は、昭和47年に出版された『金沢の能楽』(梶井幸代・蜜田良二著)中において、廃藩置県後の金沢において流行した今様能狂言一座、特に、泉祐三郎一座の使用した舞台についての以下の記述にもとづいています:

 

 「泉祐三郎座の舞台は、もと、波吉家の舞台であったというから、波吉一家が、明治二十年上京したとき移されたものであろうか。。。。。今この今様の舞台は、小松の梯天神社へ移されている。小松では移築の工事半ばで日清戦役がおこり、雨ざらしで放置されたのを修築して明治二十九年舞台開きをしたということである。
(「加越能楽」第4号)」

 

 ところが、この説明に疑問を差し挟む論文もこれまでにありました。昭和623月に公表された『加賀 小松天満宮と梯川』(小松天満宮等専門調査報告書)中の「小松天満宮の建築」(田中俊之著)は当社能舞台について以下のように記しています:

 

 「能舞台の背景の松の壁画は、当時金沢から東京へ移住するために屋敷内の能舞台を取りこわす事にした金沢市の野町の某家の能舞台の壁画を譲り受けたものと伝え、見事な松の絵である。一説には、能舞台ではなくて、芝居興行などに使われたものをそのまま譲り受けて移築した為に、寸法的には通常の能舞台と異なって小さいのであると云われている。しかし、寸法的には舞台間口は三間あり、奥行も十六.五尺に九尺と極く普通の大きさであるので、芝居興行の舞台とは考えられない。。。。又現在桟瓦葺きの屋根の下に杮葺の軒付が残っており、金沢から軒付けを付けたままで運ばれたとは考えにくい。」

として移築説に疑問を提示しています。

 当社能舞台の軒付けが杮葺になっていることは、今回の移築作業過程においてとられた写真中の白丸印により確認することが出来ます。



今回の移築は、数十辰箸いΧ甬離ですから軒付けをつけたままで実施されますが、金沢からの移築となれば、当然、全部バラして移築するし、この軒付けは移築したものではありませんと現場の宮大工さんの見解であります

 

それでは当社発行の書物では、どのように来歴が書かれているのでしょうか。昭和57年に発行の『小松天満宮誌』では、能舞台について以下のように記しています:

 

「能舞台の背景をなす松の壁画の部分は、当時金沢より東京へ移住の為取りこわすこととなった由緒ある能楽堂の壁画を譲り受けただけに実に見事な松の画がかかれている。」

として前述の田中論文と同様の記述をしている。

 

 今回の移築作業の過程で、能舞台建立の棟札が発見されました。



棟札中の「梯神社」とは明治維新後に改名された当社社名であります。それによれば、上棟祭の行われたのは明治27年5月であり、棟札には大工棟梁ら8名、鍛冶、木挽き、屋根方などの職人さんの名前と共に、発起人、会計係の氏名も明記されています。この棟札の書かれた2ヶ月後に日清戦争がおこり、そのため、戦役終息後まで建築作業は中断したことが判明しました。

 

 以上より、当社能舞台の鏡板のみが、加賀藩能役者波吉大夫家から譲りうけたもので、能舞台そのものは、小松の地における拠金により新たに建立されたものであることが明らかになりました。

 

 社務所では、当社能舞台にかんする『金沢の能楽』の記述のもととなった「加越能楽」第4号閲覧を試みましたが、この雑誌は、金沢市立図書館には所蔵なく、石川県立図書館には所蔵するも第4号は欠落していることが判明しました。また、佐野吉之助が明治33年に建立した佐野能楽堂を引き継ぐ石川県立能楽堂に問い合わせましたが、この雑誌は所蔵していないとのことですので、今となっては全く確かめようがありません。

 

author:bairinnet, category:神社の歴史, 16:44
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