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梯川ミズベリング沿いのウオーキングに埴田の虫塚も訪ねてみませんか?

 

 

 今年の秋には、31年ぶりに石川県にて国民文化祭が「いしかわ百万石文化祭」として実施されます。また、今年は加賀国が立国して、小松に国府がおかれてから1200年の記念の年でもあります。百万石文化花開く基盤作りとなった一大藩政改革「改作法」が小松城を実施本部として成就した歴史とこの二つの慶事に思いをはせつつ、本ブログ2022.6.5号「梯川ミズベリングを歩いてみませんか?」で紹介した小松城から加賀国府地内の灰塚をめぐる梯川ミズベリング沿いのウオーキングに「埴田の虫塚」も追加するお薦めの投稿です。

 

 小松市の主要道路の一つ、産業道路を軽海西交差点から北上してしばらく行って埴田南交差点を右折したところの小高い丘の上に「埴田の虫塚」が立っています。同じく産業道路沿いにある「灰塚」から南に300メートルほど離れたところにあります。ただ、ここには駐車場はありません。

 

 

 この虫塚の説明板によると、藩政時代の天保10年(1839)に南加賀一帯にこぬか虫(ウンカ)が大発生し、出穂期の稲作に大きな被害を与えた。この大発生にあった徳橋組の8代目十村役田中三郎右衛門はウンカを木綿袋23袋に集めて現在地に埋め、被害の経過やウンカの駆除法(および参考書)を石柱に刻み,後世教訓として残すために建立したというのです。

この虫塚については、石川県農業総合研究センターの農業研究専門員(当時)森川千春氏が雑誌「農業と科学」の平成16年11月1日号に論文を発表しています。この中で、森川氏は「この碑文、日頃、科学論文に慣れ親しんでいる身としては、。。。。科学論文の形式となっており、極めて簡潔明瞭で無駄がない。十村役田中三郎衛門(これは田中三郎右衛門の誤記)の知性の高さが窺える」と評しています。この碑文の翻刻の画像が次です。

 

 

 

 

詳細はこの論文(インターネット検索でも見れます)をお読みいただければ思いますが、防除方法として田中三郎右衛門が採用した方法です。参考書の「防蝗録」では、ウンカが発生したら、田んぼの除草をし、水面に鯨油の油膜を形成してウンカを駆除する方法です。ところが、ウンカが多発する九州(西国)で鯨油を買いつくして加賀藩までは回ってこない。そこで隣藩の状況などをも観察して、代替品として「木の実油」(油桐)の使用を選んでいることが、簡潔に文章をまとめる力と共に知性の高さの一つの証左となっていると思います。

 一方、最近になって筑波大学の綿抜豊昭氏の解読された『天保15年甲辰より自他句集』(小松市立図書館所蔵)により、虫塚建立者の田中三郎右衛門およびその妻、子息らが俳諧をたしなんでいること、また、田中氏らは和歌などを楽しむグループ「小城歌連」の集いをもっていて、当社(梅林院)と那谷寺に和歌を記した額を奉納していることが判明いたしました。この扶持人十村役田中三郎右衛門を中心に、この埴田の地において文芸活動も盛んであったという、「新修小松市史」でも取り上げられていなかった、これまで知られていなかった歴史も明らかになってきました。

 国民文化祭が開催される10月から11月はウオーキングにも好適な季節ですので、是非、小松城からのウオーキングをお勧めします。ちなみに、虫塚周辺にはコンビニは立地しています。

author:bairinnet, category:小松城, 04:40
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小松城大改築前の姿がほぼ明らかになる:新修小松市史通史編1をてがかりに

 加賀藩3代前田利常公が、加賀藩領を3分割して3人の子息にゆだね、自らは小松城を隠居城とすることを幕府にみとめてもらったのは、寛永16年(1639)のことです。その時以来、小松城の大改築が開始され、結果として金沢城の2倍の規模の城域になりました。大改築以前の小松城の姿がどのようなものであったかについてはよくわかっていませんでした。市史作成にあたり画像提供した当社社務所に送付いただきました『新修小松市史 通史編1』(原始・古代から幕末まで)(以下、「通史編1」と略称)を手がかりに、明らかになってきました大改築前の小松城の姿について報告いたします。

  図1は、当社の十五重塔の近くにある説明看板の図と同様ですが、1780-1785の間、小松城番を勤めた冨田景周が『越登賀三州志来因概覧附録9』(加州小松城考)に記す「小松城の水回り」を白線にて示したものです。当社の向いの水口から梯川の水をとり、外堀、内堀にまわして、再び、梯川に戻しています。この水回りにおいて重要な隘路(ボトルネック)になる箇所が二か所あります。一つは外堀(白鳥堀)の水を梯川に排出する箇所(水門)、もう一つは、本丸をめぐる内堀の水を外堀に出す箇所(赤丸印)です。

 

 冨田景周は小松城の大改築以前について概略次のように記しています。「寛永16年、利常公の命をうけて大改築を開始するまでは、前城主の丹羽氏在城のままであったろうが、白鳥塹(堀)もこの時、掘られたと云う」。小松城の外堀をなす白鳥堀は大改築の時に掘られたとなれば、内堀の水を外堀に排出するための水路(図1の赤丸印の水路)も作らねばなりません。

このことの証左になることが、「通史編1」から判明します。第7章第3節「小松町と周辺の産土社」において「梯町稲荷宮」(現葭島神社)が小松城内から現在地に移転したことを紹介しています。すなわち、「町内泥町の梯町稲荷宮(現葭島神社)は。。。旧来小松城内の区域に鎮座していたが、。。。。同城の造作に着手するにともない、正保元年(一六四四)に現在地に遷座したとされる」と。

これに関連して、『新修小松市史資料編9 寺社』は、享保2年(1717)11月「小松 五穀寺」(藩政期に稲荷宮の別当として奉仕した小松山伏頭の寺院名)の作成した「小松稲荷社略縁起」『神社大系 神社編33』151-152頁)を記載しています。そこには大略以下のように記しています: 「当社小松梯町稲荷宮の開闢は・・・承保元年に鎮座し給い、梯町・泥町・枇杷嶋等の産土神にして城内本丸・二の丸の地まで産土地なり・・・・・寛永年中、中納言利常卿小松御入城の後、稲荷の宮地町並に相成に付て。。。移転の儀仰出され・・・旧社地は城中兎門際にて、正保元年八月十八日に今の地に遷座・・・」

 ここで注意すべきは、「梯町稲荷宮」の梯町とは、現在の梯町のことではないということです。昭和62年に公刊の『加賀 小松天満宮と梯川』の「小松城のその後の変遷」の節(郷土史家の北野勝次氏執筆)に次のように書かれています:「寛永十九年(一六四二)九月、小松城梯に亭榭園🈶を営む。。。葭島のお花畑など仰せつけらる」。この文章より、小松城内に「梯」という地名があったことと、葭島地内あたりにあったことが判明します。このことから、「稲荷宮」が神仏分離後に「葭島神社」と改称されていることも理解しえます。ただ、移転の原因となった「稲荷の宮地町並に相成に付て」とあることから、「町並になった町名が梯町」とも考えられますが、城中にあったという「梯町」の由来は不明です。

 確かなことは、稲荷宮の旧社地が城中兎門際にあったです。当社蔵の「小松城下絵図」で兎門とは、図1(西を上)の赤丸印で囲ったところの門の名前です。以下の図2の赤丸印で表示する「兎御門」は、本丸をめぐる内堀に水をとりこむための水路に面する門の名前であり、このあたりにあった「稲荷宮」の旧社地は、内堀と外堀との水の行き来を確保するための水路を開削し、新たに外堀などを造成するために必要とされた地所であったことが判明します。

 

次の図3は、「稲荷宮」の旧地と移転地の関係などをしめした図です。

 

赤丸印あたりが旧地(梯町)で右下の白丸印(稲荷五穀寺)が移転地(現在地)です。また、梯川沿いの黄色丸は、関ケ原合戦時まで小松城の城主であった丹羽長重によって建立された寺院の「養福院」(図中には、愛宕と記す)です。下牧町鎮座白山神社においては、毎年七月一日に産土社の「白山大権現社」の例祭が斎行され、利常公による小松城整備の際に、愛宕地内の土地を献上したために、愛宕地内にあった「白山大権現社」が梯川の対岸に移転したと伝えられています。これらより、「養福院」と琵琶嶋を隔てる堀も小松城大改築時の白鳥堀の造作と共に新たに掘られたと推定されます。以上より、小松城大改造前の小松城のおおよその範囲は、図3の青丸印の範囲とみられます。小松城を描いた最も古い絵図は「承応元年(1652)図」(玉川図書館近世史料館蔵)ですが、図3の青丸印内は「本丸」と「二の丸」と記されています。『加賀 小松天満宮と梯川』には、小松城の大改築の開始された寛永16年の翌年(寛永17年)6月に利常公は小松城に入城されて、小松二の丸御仮屋に入られたと記されていますから、これも傍証になります。

 

追記:市史編集者への要望

 読者が市史の文章中に疑問に思ったことや関心をもったことを検証したり、それを手がかりに深く学習しうる手だてを提示して、市史執筆者各位が原稿を執筆していただくことを要望します。具体例を上げます。ブログでも紹介した「梯町稲荷宮」という名称は、『神社大系 神社編33』151-152頁に掲載の「小松稲荷社略縁起」に依拠しています。ところが、『神社大系 神社編33』151-152頁に掲載の「小松稲荷社略縁起」は翻刻ですから、その原典が何なのかは不明です。同様の文章は『加賀志徴』上編復刻344頁の「小松稲荷社」にも記載されていて、ここに「貞享二年小松稲荷別当山伏養源坊由来書に、小松梯町稲荷宮は。。。」とありますから、この「貞享二年小松稲荷別当山伏養源坊由来書」が原典と思いますが、加賀藩政期の文献資料を収集する玉川図書館近世史料館には収蔵ありません。玉川図書館近世史料館に収蔵するのは、貞享二年(1685)よりやや後の時代に作成された「小松稲荷五穀寺略系譜」です。これにも「正保元年八月十八日小松御城中御氏神、兎橋御鎮守稲荷大明神。。。ご遷宮仰せつけられ」と遷宮のことは記載されていますが、「梯町稲荷宮」という名称は出てきません。この場合は、翻刻版を出典とするのでなく、もとの古文書名を記載するように要望いたします。

author:bairinnet, category:小松城, 12:54
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梯川ミズベリングを歩いてみませんか?:小松城本丸櫓台から加賀国府地内の利常公灰塚まで

 小松市は、雄大な白山連峰を源とする豊富な水が緑豊かな風景をはぐくみながら日本海に注ぐ、水郷のまちとして独自の風景が先人達によって大切に守り育てられてきました。この「ふるさとこまつの『みどり』を未来につなぐ」を基本理念として、「都市緑地法」に基づき、」令和元年に「小松市みどりの基本計画」が策定されました。小松市内の四地域別に概ね20年間を計画期間とする推進施策を小松市HPなどで明らかにしています。

 下図は、梯川流域を対象地域として、安宅海岸から小松城跡、加賀国府、そして遊泉寺銅山跡を結ぶ全長10キロの「梯川ミズベリング」による散策・おもてなしの景観づくり構想をまとめたものです。

 

 

図中に二つの黄色の○印があります。左方のは小松城本丸櫓台跡を、右側のは、加賀国府跡地内にある利常公灰塚を示しています。大化の改新(645)から大宝律令(701)制定にかけて国の行政組織が整備されていきましたが、それとともに、地方ごとに政治の中心となる「国府」が設置されていきました。最終的に68の国府が出来ましたが、その最後に、加賀国が823年に越前国から分国して立国しました。その加賀国府跡と推定されている場所が小松市国府町地内にあり、その中に利常公のご遺体を荼毘に付した跡(灰塚)があります。

 本ブログの付録に詳しく説明しますように、本丸櫓台上からお彼岸中日の日の出を仰ぎますと、ちょうどその日の出方角に灰塚のあることが判明しています。お彼岸とは先祖や先人の遺徳をしのぶ日ですから、灰塚をもうけるには大変よい場所といえます。これからは暑い日がつづきますが、すずしくなるのを待ってウオーキングに挑戦してみてはいかがでしょうか?

 

 なお、小松には歴史上、3つの大きな街作りがありました。古くは2200年前の日本海を行き交った弥生の宝石{碧玉の管玉}などの生産拠点であった「八日市地方遺跡」、1200年前の加賀国立国にともなう加賀国府の整備、それと400年前の利常公による小松城の大規模改修と現代につづく小松の街作りの三つです。

 利常公は「八日市地方遺跡」のことはご存じなかったと思われますが、加賀国府のことは国司の後継者として、ご存じだったと思います。小松城での一大藩政改革の「改作法」を執行するのに手となり足となって働いた品川左門を遺骸に供奉する人として指名するなど手はずを整えておられた利常公ですから、小松城と国府跡との位置関係もご存じの上で、荼毘の地としてこの方角を選ばれたことがうかがわれます。

 

付録

  2015.3.16付けの本ブログ「小松城跡の現状を憂うる」で紹介しました本丸櫓台への登台禁止措置が令和2年末に解除されました。藩政期にはこの櫓台上に三階(二階は中二階になっていた)建ての櫓が聳え、櫓の玄関口は北方にありました。図1は、登台禁止であった櫓台北西角の階段に仮設階段を設置したものです。図2はこの階段を上り、玄関のあった北から南をみた本丸櫓台上の現状を撮ったものです。

 

 

 

 

 

図3 の赤丸印は、櫓台上に設置された二等三角点を示す石であり、これを拡大したのが図4です。

 

 

この石の表面には真北を示す十字が刻まれています。図4の青点線は、真北と真南を結ぶ子午線を示しています。図4は、櫓の玄関口のあった北方から櫓台の向きに沿って撮影しています。赤線は櫓台の向き方向を示しています(図の線はおおよその線)から、この櫓台の向き(方位)は真北から時計回りに約13度偏っています(『新修小松市史、資料編1』417-419頁による)。磁石の北(磁北)と真北との差は偏角といい、1600年頃から1650年頃まで東への傾き(東偏)が大きくなり、その後は偏角の値は減少して1800年頃には磁北と真北とはほぼ一致、その後は現在にいたるまで西偏しています。ただ、1600年代中頃に大きくなっても10度には届かない値である( 考古学と自然科学、第5号の渡辺直経, 1972論文参照)。櫓台の向きが真北から東に13度偏っているということは、この櫓台の向きが磁石の磁北に合わせて決められたとは考えられません。何を意図して櫓台の向きが決められたと思われるかについては、本ブログ(2020.2.18日号、2011.3.23日号)を参照ください。

  彼岸入りの昨日は東の空に雲がかかっていましたが、今日3月18日は快晴の日の出を拝する事が出来ました。6時15分に本丸櫓台からのの日の出風景を示したのが図5です。

 

 

今日3月20日も晴天の朝となり、6時12分きっかりに本丸櫓台の三角点前からとった日の出の写真が図6、丸印が日の出の位置です。3月18日の日の出位置よりはやや北側にシフトしています。

 

 

 小松高校の体育館の上方に連なる白山山系を越えて上る日の出をみることが出来ます。この時の太陽高度をインターネットサイト「国立天文台・暦計算室・こよみの計算」で求めてみますと、高度2.2度と求まり、日の出の方位角(真北からの角度)は、91.7度と求まります。真東近くから昇ってくることがわかります。

 

 ここからが面白いところです。昨年10月に小松市指定文化財に登録された文化財の中に「前田利常公灰塚」があります。万治元年(1658)10月12日に小松城にて薨去された利常公のご遺体を荼毘に付した地に、その遺灰を集めて作られた灰塚であります。小松市街地から産業道路に出て右折してしばらくゆくと右側にあります。図7はその外観です。図8は昭和29年9月に国府村によって灰塚の上に立てられた標柱で小松城の方角に面しています。また、前田家13世の前田斉泰卿により建立の石碑にかかれた灰塚の由来は、説明板の裏側に復刻されています。

 

 

 

 Googleマップでこの灰塚の地点の緯度経度を調べますと、(東経36.410792, 北緯136.509193)と求まります。国土地理院の「測量計算・距離と方位角の計算」サイトに、小松城跡の二等三角点と灰塚の緯度経度を入力して方位角を求めますと、真北より91.4度と求まります。これは、小松城跡・本丸櫓台上から眺める彼岸中日の日の出の方角(91.7度)にほぼ一致します。

                                                      以上
 

 

author:bairinnet, category:小松城, 07:00
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松永尺五の漢詩にみる前田利常公の小松城入城前後の小松の風情:利常公小松城入城380周年記念

 

 本年は、加越能三州を三人のお子さんに譲って、自らは幕府に願い出て、一国一城令の例外として、小松城を改築して入城されてから380周年になります。本ブログでは、これを記念して、入城前後の小松の情景がどのように変化したかを、松永尺五の漢詩により紹介いたします

松永尺五(せきご)は、文禄元年(1592)、芭蕉以前の俳諧の一派の祖である松永貞徳の子として京都に生まれました。尺五は幼少より、親戚であり、豊臣秀吉や徳川家康に儒学を講じた藤原惺窩(せいか)に師事して儒学を学び、大阪夏の陣にて豊臣家の滅んだ元和元年(1615)尺五30歳の時に惺窩より学の奥義を伝授されました。

 江戸時代の官学は儒学、とりわけ、朱子学でしたが、尺五の門下生からは、木下順庵、新井白石、室 鳩巣のように、17世紀初頭から18世紀中頃にいたる、加賀藩および江戸幕府の官学を指導した学者を多数輩出しました。

 松永尺五は、加賀の地に度々来訪し、特に、寛永4年(1627)より明暦2年(1656)の間、およそ30年間に9つの漢詩紀行(8つの「賀州紀行」と1つの「賀州小松紀行」)を残しています。それをまとめた書物が、「尺五堂先生全集」であり、京都大学附属図書館に所蔵されています。

 その漢詩紀行より、加賀藩三代藩主利常公が小松城に入城する寛永17年(1640)前後の小松の様子を読んだ3つの漢詩を紹介いたします。

 

(一)

小松城への入城八年前の寛永八年(一六三一)、尺五は三月三日に京都より加賀にむけて旅立ちます。小松では本折あたりの旅籠にて機織りの音をきいての漢詩(七言絶句)を残しています。

 

  小松逢雨  (小松にて雨に遭う)

 薄暮 雨昏   小松一夜寄浮生    

日暮れ時 雨が降って昏( くら ) く 旅人の心細い気持ちを悩ませる 

小松の一夜 はかない人生を預けよう。

 家々促織供  旅枕懶聞機杼

家々に機織りを促し役所に供出している 旅枕に 織機の音をものうく聞いている。

 

 この詩に先立つ百四十年前の文明十八年(1486)、応仁の乱を避けて七尾城の畠山氏を頼って加賀に来訪した聖護院二十九代門跡 道興准后が本折あたりで 人の絹を織りけるを見て詠んだ歌が残されています。

 

 「たれかもとおりそめつらん よろこびを加ふる国のきぬのたてぬき

 

加賀の国のことを「よろこびを加ふる国」と詠んでいます。またこの和歌より、少なくとも、本折あたりでは、この頃より連綿と絹織物の生産が続いていたことがわかりますが、こうした伝統を踏まえて、寛永十四年加賀藩は絹道会所を設置して、小松の絹織物の振興に乗り出していきます。

 

(二)

利常公が加越能三州を三人の子息に譲ることとなる一年前の寛永十五年(一六三八)、尺五は仲秋下旬に出京しています。尺五は京都・小松間を六日で来ていますから、現在の十月初旬頃に小松で詠んだ詩(七言絶句)が第二の漢詩です。

  

 蓬戸数宇卜河濱  沙上小松名里新

よもぎを編んで造った粗末な家が数戸川岸に佇んでいる。砂礫の上にある小松という里の名前は新しい。

 夕照鎔銀湖水影 望中冨景忘家貧

 夕陽に照らされて銀を鎔かしたように湖水に影をおとしている。 望み見る富景に家貧しきをしばし忘れる。

 

 当時の小松が一寒村であったことをよく示した詩ですが、昭和五十年代の「白山自然保護センターたより」によれば、十月初旬には白山は冠雪していましたし、江戸時代は現在よりも寒冷でしたから、尺五は夕陽に照らされた冠雪の白山が湖水にうつる様にみとれたことでしょう。ただ、長年、小松での美術展で、この詩情を撮影した写真が出ないかを探していますが、これまで出会えないでいることは残念です。

 下図は、安政五年加賀藩十三代藩主齊泰が東海道より帰国した折の「参勤交代道中図」より、今井あたりの風景をしめした図です。この「道中図」には参勤交代の道すがらの代表的な風景を模写しており、白山を描いた図はここだけです。この絵図は、現在の今江橋から木場潟越しに夕陽に照らされた白山を望み見た景色をあらわしているようです。それゆえ、白山の景観としては、小松の湖水からみる白山が当時から好まれていたことがよくわかります。

 

 

今井潟(今江潟)は残念ながら戦後の干拓により消滅しましたが、木場潟はほぼ手つかずに残されていて、平成二十七年五月十七日には、両陛下をお迎えして全国植樹祭が開催されました。

 

(三)

利常公が小松城に入城した四年後、小松城の修築も概成したと思われる寛永二十年(一六四三)、八月下旬に京都を出立した尺五は、小松において「小松 前太守莵裘( ときゅう ) 之地」(小松 前の藩主の隠居の地)と題する詩を残しています。

 

𦾔居民  重林巒易色新   

城の堀を修築して 地域に住みつく人を定められた。重なり合った林や山の峯も色を変えて新たなり。

譲国賢君誰得擬  考槃歓楽八千春  

国を譲る賢君とは誰が匹敵しようか。 賢者が隠居されて、八千年の春(長寿を祝う言葉)を楽しまれる。

 

ここでは起句の「居民を定む」という語句が大切です。住みつく人々が持続可能に住みついていけるためには、殖産振興が不可欠になりますから、それを通じて町の発展がなされていったことの原点を尺五はよくとらえています。

 また、藤原惺窩より伝授された奥義には、紀元前七二二年から紀元前四八一年の二四二年間にわたる中国春秋時代の魯国(山東省付近)の歴史書である「春秋」が含まれています。この春秋の解説書である春秋三伝(公洋伝、穀梁伝、左伝)のうち、とりわけ「公洋伝」の賞賛する「譲国の賢人」を念頭において転句が作られていることがわかります。 

author:bairinnet, category:小松城, 10:45
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小松城本丸櫓台・本丸御殿の方位にこめた願い:金沢城二の丸御殿遺構調査の報道に接して

 石川県では金沢城二の丸御殿復元にむけての基本方針を2020年度に策定するための準備作業として遺構調査を開始することとなったとのこと。遺構調査により建物の向きなどが確定するかもしれません。このことの意義を知るための参考として、ここでは小松城本丸櫓台・本丸御殿の絵図面に朱色で記された方位にこめられた意味について探ってみたい。このブログを作成する数日前に、石川県文化功労賞を受けられた華道古流10世家元の廣岡理樹家元を祝しての初春の集いが金沢市において開催された。この会には、毎年、当社例祭に献花していただいている古流柏葉会の方々も出席された。廣岡家元は、古流4世家元の関本理恩ゆかりの古文書等を学ばれ、長年にわたり金沢と東京にて「陰陽五行」などアジア古来の哲学の研究会を開催され、当社社務所からも折に触れ参加させていただいている。

 下図は当社蔵の小松城絵図ですが、北を上にして示してあります。

 

 

白丸でかこったところが本丸櫓台と本丸櫓(三階)であり、それに隣接する大きな建物(約1600平方メートルの総床面積)が本丸御殿です。本丸の東側に二の丸があり、石川県立小松高校はこの二の丸地区にあります。二の丸の南側に三の丸があり、現在は市民の憩いの場である芦城公園になっています。本丸櫓台の丑寅(北東)方向に当社(紫色で囲った部分)があります。

 次の第2図は、現在、金沢市立玉川図書館所蔵の「小松城御本丸御殿之絵図」より、要点を書き取ったものです。

 

 

本丸御殿絵図には、朱色で二本の線がひかれています。本丸櫓台から引かれている(1番と記されている)朱色の線には「御櫓より丑の方に当て能州宝達山見ゆる」とかかれ、本丸御殿の式台からひかれている(2番としるされている)には「御式台より辰の方に当て白山」と記されています。 第2図中に記された方位は、12支を用いた方位を使用しています。これにかかわる陰陽五行思想に「三合の理」と「支合」があります。第3図を利用して説明してみます(12支と陰陽五行との関わりについては、吉野裕子氏の著書を参考)。

 

12支には生活に必要な5つの原素(気)である木火土金水の五行が割り振られていますが、五行が生まれ、旺んになり、滅するという生旺墓(三合の理)もまた割り振られています。本丸地区は城の中央部の西方になりますから、方位的には酉の方位に立地し、五行は金気です。金気は巳で生まれ、酉で旺んになり、丑で滅するとなります(図中の金色の点線で表示)。金は金属の「金」に擬せられ、「土固まって金となる」といわれるように金山に擬せられます。江戸時代は能州(能登)の宝達山には金鉱山がありましたから、金にゆかりの方位であり、数年前に地元新聞に、梯川の堤防から撮影した宝達山の写真が掲載されましたので、現在はもちろん、本丸櫓からも丑の方に宝達山が見えました。

 次の「支合」ですが、12支の各支は互いに結びつく相手があって、その結合は化して新たな五気を生じるとされるものです。12支の辰と酉は合して金気を生じます。城で一番大事な本丸が酉方位に立地し、それから特記されている二本の方位線が金気ゆかりであることから、小松城は「金気の城」といえます。「金」は最も堅固で永遠の象徴とされ、また、「金鶏」といわれるように財宝にも擬せられます。小松城を大改築した加賀藩三代利常公が、この本丸御殿を司令部として、文化立国のための民生安定と持続可能な農業生産基盤構築をめざして「改作法」を実施されました。この改革の成功と北前船航路開拓による大坂米市場活用とが相まって、文化立国のための財政基盤強化にも役立ったことを想起しますと「金気の城」は殖産興業を含む文化の力による永遠の繁栄を願ってのことと理解しえます。

 次に、白山の方位である辰の方位との関わりです。五行には、木火土金水の各気が順送りに次ぎの気を生み出していくという相生の理があります。辰の五行は「水気」(図2の水色の丸印で表示)でありますが、金気は水気を生じるというように、金気と水気は相性のよい方位の組み合わせですし、水気は次ぎの木気を生じ、神仏習合時代の白山信仰において、白山の本地仏とされた観音様は「木気」とされましたから、神仏の御加護をうる上でも由緒ある方位といえます。

 最後に、金沢城二の丸御殿との関連にて一言。この「小松城御本丸御殿之絵図」の作成年代として、『新修小松市史』では天明6年(1786)から文化6年(1809)のこととされています。建立時の絵図面ではありませんが、本丸櫓台は建立当時のままに現存しますし、本丸御殿も明治維新後の取り壊しまでは、大きく変化しているとはいえません。この絵図面の書かれた時代が蘭学者の公職追放や朱子学以外の講義を禁止した「寛政の改革」(1787-1793)と同時代ないし近い時代であることと、辛酉革命をきらって改元が依然行われた時代背景を考えますと、この絵図より前の絵図に書かれていた、ないし知られていたことをそのまま書いたと考えられます。

 昨年存在が確認されました金沢城二の丸御殿の絵図面は、1811年に再建された折の絵図面ということですから、伊能忠敬による日本地図作成の期間中(1800年から1816です。この時期は賀藩においても西洋近代科学の受容が進行していますし、また、国学の興隆から、伝統的な東洋思想への関心はうすれていきます。金沢城二の丸御殿は2万平方メートルという大きな敷地に、藩主の住まいと大藩の政務を行うという実用的な御殿であることを考えますと、陰陽五行的背景をもつ特定の方位が意識されていない可能性があります。遺構調査により二の丸御殿創建時の礎石ないしそれとの関係が確認されれば、主要建物の立地方位が確定します。方位に特定の意味がないとなれば、小松城の特異性が際立つことにもなり興味あるところです。

 

 

 

author:bairinnet, category:小松城, 19:51
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小松城は「武」の城でなく「文化」の城
H27.3.16の本ブログで紹介したように、現在、小松城本丸櫓台石垣は立ち入り禁止になっています。この本丸櫓台石垣の早急の修理の実現に多くの方々のご支援を頂くためにも、この小松城についてより知っていただきたく、小松天満宮ホームページに「小松城に親しむ:小松城は文化の城」を掲載しましたので、ご覧ください。
 
author:bairinnet, category:小松城, 20:10
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小松城跡の現状を憂うる
小松城の取材の途中に当社に立ち寄った方より、小松城跡の遺構である本丸櫓台が安全性の理由から立ち入り禁止になっているとの知らせをうけた。早速いっていみると、本丸櫓台の周囲に柵がもうけられていて「文化財保護と落石防止のため立ち入らないように」との立て看板があった。

さらに、櫓台に上る階段の側にも「天守台の階段は危険ですから立ち入らないように」との看板が立てられていた。


 当社に参詣にこられる観光客には、利常公による小松城建設に携わった石工衆の残した古文書に記されている「石垣の角が鬼門に当たらないように築く」ということを実地に確認するために、この本丸櫓台に上って、小松城の鬼門鎮護の意味をももつ当社との位置関係を確認していく方々がおられる。次図は本丸櫓台からの光景であるが、黄色線内が当社の森であり、赤丸部分は櫓台の角であるから、明らかに鬼門を避けて建設されていることが判明する。



また、この櫓台上には次図に示すように、二等三角点表示が存在している。


石川県の一等三角点は加賀では白山、能登では宝達山であるが、二等三角点は天守台といった史跡上に置かれることが多い。本丸櫓台上の二等三角点は明治36年設置の古いものである。ちなみに金沢城跡には天守台跡が現存しないためか、二等三角点は置かれていない。
 さらにがっかりしたことには、次図に示すように、本丸櫓台の北側に現存する井戸跡の上蓋が破損したままになっていることである。


小松城と同じく、一国一城令の例外として認められた12の城のうちの一つである仙台藩白石城の大櫓(天守という言葉をはばかって大櫓といっている)の北側にも、小松城と同じ井戸が残されているが、白石城の井戸は次図に示すように立派に保存されている。

 


 現存する小松城の遺構である、本丸櫓台石垣は小松市指定文化財に指定されていて、現地には以下のような説明板がある。




ただ、本丸櫓台は石川県立小松高校敷地内にあり、敷地内にあったからこそ、これまで保護されてきたともいえるが、管轄が異なるためか、予算の手当がつかないためか、小松市の関係者にお聞きしたところ、修理の予定は聞いていないとのことである。金沢城の姉妹城ともいえる小松城の確かな遺構であり、現在、玉川図書館に保管されている小松城の絵図面には、本丸櫓台から宝達山が見える等の表示がされていることもある。当時の情景に思いをはせるに格好の場所でもある。この本丸櫓台石垣の早急の修理がなって、近年整備の進む金沢城に来られる観光客各位が小松の地にも足を運んで頂いて、この櫓台上からの眺望が楽しめる日がくることが望まれる。本ブログ読者各位のご支援をお願いする次第です。

 
author:bairinnet, category:小松城, 21:01
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小松城と小堀遠州(追記:宝達山は今でもみえます)

 

小松城と小松天満宮と我が国最古の庭園書である「作庭記」との関わりを説明した当社案内板を見たとあるケーブルTV局よりの依頼により、過日、小松城天守台(天守台は通称で、正式名称は「本丸櫓台」)にて「小松城と小堀遠州」についての案内をいたしました。よく知られているように、小堀遠州と加賀藩三代前田利常公とは茶道を通じる交遊関係がありました。茶道と露地(庭)とはつきものですから、庭園づくりについても指南をうけています。有名な逸話は、寛永11年の将軍家光上洛の折、利常公も上洛に供奉するために琵琶湖畔の大津屋敷に滞在しました。その折りのこととおもわれますが、茶室の露地として泉水を掘り、築山を築いて庭を造成しましたが、それを見た遠州より「大名の庭としては小さすぎる」と批評されました。それを聞いた利常公は、泉水を埋め、築山を壊して、かわりに、茶室から琵琶湖と比叡山と三上山といった近江の大風景が観覧しうるように作庭したところ、遠州から「これぞ大名の庭」とほめられたとのことです。「作庭記」の記す平安時代寝殿造りの庭づくりの主題は自然順応主義にあり、自然の好風景を庭造りや建築に生かすことです。寛永6年には、江戸城西の丸の大手門内に山里丸を築く大工事が行われましたが、その際、遠州は茶室から見越しに富士山がみえるように作庭して将軍に喜ばれています。
 ところで小松城と小堀遠州ですが、下図は、現在、金沢市立玉川図書館所蔵の「小松城御本丸御殿之絵図」より、要点を書き取ったものです。なお、図は西を上にして画かれています。

 

 

小松城の天守台には三層の櫓が建立されていました。よく、「小松城の天守台には天守閣ではなくみすぼらしい櫓があるばかり」といってがっかりされる方がいますが、そうではありません。姫路城や彦根城といった立派な天守閣を備える名城で現在残っているのは全てが大坂役前の「武」の時代に築かれたものばかりです。これに対して、小松城は「元和偃武」以後の、平和の時代に、一国一城制の例外として造営を認められた城であり、また文化人大名であった利常公の隠居城として造営されたのですから、三層の櫓は時代と城主を象徴するものといえます。
 上図の番号1のあたりには朱色で線がひかれて「御櫓より丑の方に当て能州(能登)宝達山見ゆる」と特記されています。また、本丸御殿裏式台のところにも朱色の線(上図の2番)がひかれ、「御式台より辰の方に当て白山」と書かれています。「新修小松市史資料編1(小松城)」には三層櫓の見取り図が掲載されていますが、三階の北側にも窓が開くようになっていますから、ここから宝達山が見えたのでしょう(本ブログ末尾の追記参照)。宝達山は能登で一番高い山、白山は加賀で一番高い山ですから、これら自然の大山の景色を取り込むように天守台の櫓や本丸御殿を造営することは遠州流にも合致しています。
 小松城の「遣水」(水まわり)に「作庭記」の影響がよく見られますが、これについては当社境内(十五重塔近く)の案内看板に説明していますから、ここでは、石立てについて一例を紹介します。石を建てるには多くの禁忌が「作庭記」に記載されています。一つとして「庭上に家屋近くに三尺以上の石を立ててはならない」とあります。また、「東方に他の石よりも大きな石の白色のものを立ててはならぬ。。。他の方角にも、その方角を打ち負かす目立った色の石で、他の石よりも大きなのを立ててはならぬ」とあります。東の色は木気の青(緑)であり、白は金気の色ですから、金で木を切り倒すのように相剋の関係にあり好ましくありません。東ならば水気の黒色か、木気の青(緑)色を使用すれば相生の関係になって好ましいとされます。陰陽五行の調和で万物の円滑な循環が成り立つという思想が「作庭記」にも伺われる禁忌です。これに対応するのが、上図の3番の箇所です。本丸御殿の藩主の常在所である「御書院」の北側の庭上に「三尺五寸五分斗坪埜石高さ尺二寸余」と特記されています。すなわち、長さ三尺五寸五分の正方形の石で高さが一尺二寸の坪埜石製の石が置かれていることを示しています。坪埜石は現在の金沢市坪野で産出された坪野石のことで、色は黒色で、高さも三尺以下ですから禁忌にはふれていません。これ以外にも「作庭記」ゆかりの箇所・項目はありますが、本日はここまでにいたします。
 本ブログの「小松城項目」では、次回、「玉泉院丸」を訪れてみたいと思います。寛永11年の将軍上洛に供奉し終わった利常公は金沢城に帰城するやいなや、京都より連れ帰った遠州配下の剣左衛門ともども玉泉院丸の庭園造りを自ら指揮いたしました。丹羽長重造成の小松城の大規模改築開始の8年前のこの工事が注目される由縁です。

 

追記: 本ブログを投稿した頃に市内大川町在住の湯浅治男殿より、「梯川堤防から宝達さんが見えます」と知らされました。そこで「写真をとられたら見せてもらえますか?」とお願いしていたところ、湯浅さんへの取材にもとづいて、平成29年11月18日付の北陸中日新聞に「小松から宝達山見えた」との記事が掲載されました。下記が記事の画像ですが、撮影された方など詳しくは記事をご覧いただくとして、本丸櫓から宝達山が見えたことが実証されました。

 

author:bairinnet, category:小松城, 09:09
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小松城と鬼門
 今年の春分の日(3月21日)はあいにく曇り空であったが、今日3月23日の午前6時20分頃には小雪降る中、東の空に太陽が顔を出したので早速、小松城の天守台に登ってみた。なぜ春分の日かといえば、この日には太陽が真東から昇るからである。ちなみに小松城天守台上部には、以下に示すように国土地理院の2等三角点が設置されており、2等三角点を記す石標には真北ー真南と真東−真西の印がついている(この写真では上方が真東の線をあらわしている。。

 ちなみに、この2等三角点の緯度経度を国土地理院の三角点情報表示で調べて、国立天文台の暦計算ソフトで計算してみると、春分の日の日の出は5時57分で日の出の方位は真北から89.4度と、小松城天守台からみるとほぼ真東から上がる。今日、3月23日の日の出は5時54分で日の出の方位は88.4度と真東からはやや北によっている。以下に示す写真は、6時43分頃の太陽であり、方位は真北より95.6度と太陽高度が高くなると共に真東よりやや南にずれている。

太陽の下方にみえるのは県立小松高校の体育館である。ちなみに、小松城天守台は小松高校の敷地内にある。明治維新後の小松城取り壊しの最中に、ここに2等三角点を設置すべく努力した先人と小松高校の敷地内にあるお陰で現在まで、天守台が保存されてきたといえる。
 さて、小松城と鬼門というタイトルであるが、「新修小松市史、資料編1」には、小松城築城にあたった穴生石工の後藤家文書「唯子一人傳」に記す鬼門を避ける文言が紹介されている。すなわち、「方角の見様郭の正中に磁石置き見ることなり。これは鬼門を見る為なり。石垣の角鬼門に向ひ候はば右か左江角よせ鬼門に向ひ申さずように心得べし、押事一向ならず命にたたり有るなり」。磁石を用いて鬼門(丑虎方位、磁北より45度プラスマイナス7.5度)を避けるように石垣の角をつくれ、とある。
以下の写真中の赤丸部分は小松城の鬼門鎮めとして建立されたといわれる小松天満宮の森を示しており、黄色丸部分は天守台の石垣の角である。天守台2等三角点からみた小松天満宮の社殿の方位角は真北より48ないし49度に位置している。鬼門方角にあることを確かめるには、小松城と小松天満宮の創建当時の偏角(真北と磁北との差異)の値を知らねばならない。詳細な議論は略して、およそ、小松天満宮創建年(1657)当時の偏角は東偏5度から8度とみられるから、天守台からみた小松天満宮社殿の方位は磁北から40度から44度となるので、鬼門方角にある。黄色丸でしめした石垣の角は真北より60−70度であるから、古文書に示すように鬼門を避けるように建立されていることがわかる。

author:bairinnet, category:小松城, 08:46
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