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明治40年の絵葉書の紹介:神社カード頒布開始を前にして

 

 石川県下20社寺において昨年12月末に頒布の開始されました神社仏閣カードに、今月29日より新たに当社を含めて8社寺の神社仏閣カードが頒布開始されることとなりました。それを記念して、ここでは明治40年に発行されました当社絵葉書等の紹介をさせていただきます。

 今年の大河ドラマで放映されましたように、安政5年(1858)6月19日に、江戸幕府と米国との間で「日米修好通商条約」が締結され、ひきつづきイギリス、オランダ、フランス、ロシアと同様の条約(安政五か国条約)が締結されました。この条約では、日本人に対して犯罪を犯した外国人は当該外国の法律によって裁かれるなどの不平等条項が含まれていました。また関連して、通商用の開港場(横浜、函館、神戸、長崎、新潟)について、外国人の行動範囲を最大10里(40キロ)とする「外国人遊歩規定」が定められていました。維新後の新政府の主要目的の一つがこの不平等条約改正でありましたが、日清戦争(1894-95)後の1899年(明治32)7月17日に「日米通商航海条約」が締結され、ここで治外法権条項が撤廃されました。それをうけて、同年、「外国人遊歩規定」も廃止され、外国人の国内旅行が可能となり、官民あげての観光立国政策が実施されていきました。

 我が国の郵便制度のうち、通常葉書の政府による発行は明治8年(1873)に開始されましたが、その翌年の1874年にスイスのベルンに本部をおく「万国郵便連合」(フランス語でUnion Postale Universelle)が設立されました。外国人遊歩規定の廃止された翌年の明治33年(1900)に、逓信省により民間葉書の商品化が許可されました。この後、観光立国策をうけて各地で絵葉書が作成頒布されだしました。

 当社のは、明治40年(1907)4月に斎行された神社創立250年祭記念として作成されたもので、6枚組の絵葉書です。図1は表袋と6枚の内の1枚を合わせて示したものです。

 

 ところで、明治以降の絵葉書の年代推定方法が、「絵葉書資料館」のインターネットサイト(https://www.ehagaki.org/history/)に説明されていますので、それを参考にここでは2種類の絵葉書の仕様を説明してみます。最初は、当社の絵葉書の表側を示したのが、図2です。これは明治33(1900)から明治39(1906)までの仕様に合致しています。当社の記念式典は明治404月でしたが、作成は前年に実施されていたでしょうから、明治39年までの仕様に合致しています。この最初の時期の特徴は、表面が住所氏名のみ記載で、通信文記載欄がないことです。それと、フランス語で葉書をしめす「CARTE POSTLE」という言葉と、前述の万国郵便連合を示すフランス語が記載されていることです。

 

 

他の時期の絵葉書の仕様の例として、当時の宮司が参拝した折に購入した「大宰府天満宮」の絵葉書を示したのが図3です。これも6枚一組となっています。菅公が大宰府に左遷された昌泰4年(901)から逝去される延喜3年(903)の間、謫居された御跡の榎寺の前景をしめした絵葉書と包み紙を示しています。

 

 

この絵葉書の表面を示したのが図4です。この仕様は、大正7(1918)から昭和7(1932)まで使用されたものです。

 

 

この絵葉書表面にはフランス語表記はありませんが、通信文記載欄があります。大正7年以前の通信文記載欄が、三分の一の長さであったものが、この時期からは二分の一の長さになっています。

 最後に、図1に示す絵葉書の画面を拡大したものが図5です。

 

 

これは明治40年時点の宝物目録に「北野天神縁起第三」一巻と表記されているものからの「官位追贈の事」の場面を画いたものです。ただし、この宝物については、大正12825日に鑑定のため東京に移されますが、直後の91日の関東大震災で焼失と宝物目録に記載されており、残念なことです。

 

 この度、明治40年の絵葉書発行から115年目の今年、コロナ禍真っただ中での神社仏閣カード頒布開始となりますが、時空を超えて新たな形での観光立国再生として、絆がつながっていくことを祈念しています。

 

 

 

author:bairinnet, category:地域振興, 15:25
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当社一円での新元号記念消防観閲式の開催

天皇陛下の御退位および皇太子殿下の御即位に伴い、新たな元号の誕生することを祝し、小松市消防本部、小松市消防団らの参加により、梯川分水路周辺にて「新元号記念消防観閲式」が開催されます。

 

 

観閲式の内容は、

 式典、観閲式(車両行進、分列行進)、消防訓練、一斉放水

となります。梯川分水路の南側天端に消防車が並んでの一斉放水や、梯川での救助訓練などが予定されています。

 本日、その準備の一環で、車両行進が輪中堤上で斉行されました。

 

author:bairinnet, category:地域振興, 18:44
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北陸には珍しい好天のもと、梯川分水路が県内各地よりの散策者でにぎわう

 本来なら恵比寿講荒れの荒天の季節ですが、今日はのどかな好天にめぐまれ、七尾市や金沢市など県内各地からの行楽客で梯川分水路は賑わいをみせました。北西方向から小松大橋・白山方向をみての分水路と天満橋と境内付近の画像です。空は真っ青です。遠方からの行楽客の方々の中には事前に調べてこられているのか、小松城跡に出かけられました。

 

 

 

 

分水路を歩いていますと、鳥居越しに白山が望めました。

 

 

分水路によって浮島の宮となった天満宮を囲む輪中堤上の散策路には、ところどころに説明盤が設置され、これにはQRコードが添付されています。スマートフォンをお持ちの方々には、これを読み込んでいただきますと約130秒の音声画像説明がみられますので、ご利用ください。

 

 

 このQRコードは天満宮境内にも数か所設置されていますので、境内の案内にもご利用ください。

 

author:bairinnet, category:地域振興, 14:39
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弱点を生かす:大聖寺川舟行に参加して学ぶこと
 当社において毎年漢詩奉納祭を斎行しています郷土の漢詩作詩団体「小松梅林吟社」の吟行小旅行が桜の季節の4月10日に開催されました。行き先は、加賀市大聖寺川の舟遊びです。定員8名ほどの屋形船にのる30分ほどの舟行です。船着き場から見た大聖寺川上流の景色です。

この大聖寺川は、上流は山中温泉から、下流は福井県境の塩屋港で日本海につながりますが、大聖寺の街中を通る堤防がそれほど高くなく、そのため、かっては水害に悩まされたとのことです。そのため大聖寺川の流路の付け替えと上流でのダム建設のため、水害の危険は去り、大聖寺川の旧水路で舟行が行われています。ご覧のように、流路が蛇行していて、満開の桜が水面にうつり、絶景の船着き場です。出発してしばらくゆくと、右手に桜並木、左手に大聖寺藩祖と天神様をお祀りする江沼神社の立派な鎮守の森が見えてきます。これは実に好対照の風景です。



もう少し進むと、石垣の上に築かれた国指定重要文化財の「長流亭」が見えてきます。


大聖寺藩主の休息所として建立されたとのことですが、維新後 放置されていたのを、文化人の北大路魯山人によりその価値を指摘されたことに触発された地元の人々の支援もあり、国指定文化財として保護整備がはかられてきたとのことです。舟行後は事前予約をしていた長流亭見学会にて桃山文化の薫りをつたえる亭内建築様式や造作や歴史について宮司さんより懇切な説明をいただきました。この写真にみえる石垣は、水害より保護するために文化財事業としてより高く石垣が積み増されたとのことです。現在では不要となった事業でしたが、周囲の高木林と調和したよい風情になっています。また、長流亭の対岸の街道は、隣藩が徳川家親藩の福井藩だったこともあり、幕府隠密等の不審者の通行を監視するために建物等の遮蔽物のない空地がつづいていたそうです。それを戦後になって桜並木に造成して現在にいたっているとの説明もいただきました。船頭さんの舟歌披露といい、地域の弱点や歴史を生かした大変よい地域おこし観光になっているとの感想をもちました。

author:bairinnet, category:地域振興, 08:08
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芭蕉もほめた小松うどんと地産地消
小松周辺には芭蕉ゆかりの句碑や史跡が多く、全国から芭蕉愛好家が数多く訪れますが、当社にも全国から参詣していただいています。当社にこられる理由の一つは、当社初代宮司の能順は近世最後の連歌名人といわれる方であり、当社創建にあたり利常公より北野天満宮より招かれた方です。能順は晩年まで当社と北野天満宮を兼務し、小松と京都をほぼ隔年ごとに往復していましたが、この元禄二年には当社に滞在中でした。もう一つの理由は小松の俳人塵生が、山中温泉滞在中の芭蕉におくった手紙への返書にあります。この返書は、元禄二年(1689)八月二日付のものです。この中で芭蕉は大要次ぎのように書いています:
 「急ぎの書状にて珍しき乾うどん二箱お贈り下さりお礼申し上げます。小松滞在中の句会では貴方様と親しく御同席でき珍重に存じます。この山中温泉にいそぎ旅だったものですから、お暇請いも申さず残念に存じております。就きまして、天神奉納発句の義は承知いたしました。異存はございません。入湯を終えますればそこ元へお立ち寄りもうしますので、天神奉納発句のことはその折りのことにいたしましょう。」(今栄蔵著「芭蕉書簡大成」を参照)
 塵生から天神奉納発句を求める書状とともに届けられた乾うどんへのお礼と共に、天神奉納発句のために再度小松に戻ることが芭蕉の返書には記されています。この天神奉納発句とは当社への奉納発句とされていることもあり、芭蕉ゆかりの地として当社にも参詣にこられるのです。また、芭蕉もほめた乾うどんですが、去る六月五日開催の小松神社例祭・小松商工祭にも乾うどん二箱の奉納がございました。下図がその画像です。



 ここに亀屋徳右衛門伝承と書かれています。加賀藩からの乾うどんを送るようにと命じられた長瀬善右衛門の元禄七年九月十八日付の返書が「小松市史料編上巻」に翻刻されています。藩からの求めに対して、長瀬善右衛門は八日市町の亀屋徳右衛門に製造を依頼しましたが、最初に出来た物は満足いくものでなかったため、麦粉ならびに道具を改め、また、小麦粉を洗った際の一番粉は除く、温麺の場合は「踏む」が乾麺の場合は「踏まない」など、製法も吟味して、藩におさめたことが記されています。現在の乾麺に記された「亀屋徳右衛門伝承」とは、この元禄七年の際に決められた乾麺の製法に準じて製造されているという意味です。ここで「踏む」については説明を要します。小麦粉を水洗いした後で手でこねますが、「踏む」とは手でこねて丸めて団子状にしたものを布でくるんで足で踏むことをいいます。乾麺の場合はこの「踏む」工程をとらないで、全て「てこね」で製造するということのようです。 
 ところで当社宮司が兼務するお社からなる小松天満宮十五社会の一つ、大島町鎮座の白山神社の御社殿改築五十周年慶賀祭後の直会にて総代さんより、大島町の農業法人「明峰ファーム」で生産した小麦が小松うどんの麺粉として供給されていることを教えていただきました。下図は小麦畑の様子です。


およそ三町五反の広さの田んぼに小麦が育成されています。お米の場合は一反あたり約六十キロの収量ですが、小麦では約四十キロとのことですから、ここから約十二。五トンの小麦がとれるようです。近寄ってみたときの小麦の生育状況が下図です。
まだ青い穂先ですから、これが黄金色に変わった頃に刈り取りとなります。
小松を訪れる観光客に楽しんでいただいている小松うどんと贈答品として珍重されている小松の乾麺をささえる地元農家の小麦生産への取り組みは地産地消の典型例といえます。



author:bairinnet, category:地域振興, 08:45
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撫牛像と芭蕉の故地を訪ねて
  本題にはいる前に本日のエピソード。観光バスの一行がこられたのでお聞きすると、関東から芭蕉のツアーで小松市内の故地を訪ねてきたとのことでした。帰りぎわに、「乾しうどんはどこで求められますか?」と尋ねられましたが、「乾しうどん」を購入出来る店にバスが立ち寄れるかどうかは社務所では不明のため、「その旨、バスガイドさんにお申し出下さい」とお答えしました。その折り、「汐越の松はいかれますか?」とお聞きすると、「今日はゴルフの大会があって駄目でした」とのことでした。後述しますように、「汐越の松」は現在は名門ゴルフコース内にあります。 
 さて本題です。地域振興のキーワードの一つは地域間交流です。当社初代宮司能順は連歌を通じて、芭蕉は俳諧を通じて地域間交流に貢献した人でした(能順と芭蕉については当社HPをご覧下さい(http://www.bairin.net/JapaneseHP/Japan-top-page/japanese_main.html)。元禄二年8月6日に、天神奉納発句のため当社を訪れた芭蕉は、その後、大聖寺をへて8月10日に汐越しの松を訪れています。かたや、撫牛像は北前船というこれまた地域間交易に活躍した船の船主の方よりの奉納ですが、奉納者は越前浜坂浦の方でした。この汐越の松と浜坂浦とは近くにあるため、かねて訪問したいと思っていましたがそれが過日かないましたので、今回はそのお話です。
 芭蕉の『奥の細道』には「越前の境、吉崎の入江を舟に棹さして、汐越の松を尋ぬ。」とあり、高橋利一(1714-1783)の『奥の細道菅菰抄』には、「吉崎の西は入江にて。。。此の入江を西へ渡りて浜坂村にいたる。汐越村を越えて高き丘あり、上平らかにして広く、古松多し。」とあります。ここにいう「吉崎」とは、蓮如上人が布教活動の拠点とした吉崎御坊跡がある地名であり、御坊跡一帯は「御山」とよばれ、現在、その場所には高村光雲作の銅像が建っています。

 
先述の『奥の細道菅菰抄』にいう「汐越村を越えて高き丘あり、上平らかにして広く」という場所は、現在は、芦原ゴルフクラブの38ホールコースになっています。湖コース18ホールと海コース18ホールからなっていますが、汐越の松遺跡は、海コースのアウト9番の海側にあります。ここにゆくには、クラブハウスにて記帳して、社員の方に案内してもらっての見学になり、ゴルフクラブの方のお世話になりますので、本日当社にこられた観光バス一行各位のように、ゴルフクラブにおいて大会等行事のあるときには見学不可となります。下図がその遺跡の模様です。芭蕉が訪れた時にはさぞや大きな松であったことをうかがわせる遺跡です。訪問される観光客の方より、この遺跡を永久保存展示出来るようにしてほしいとの要望が寄せられていますが、経費が高額になりクラブ独自ではなかなか困難とのことでした。

 さて、このクラブハウスのロビーにかざられていたゴルフ場周辺の航空写真の写真をとらせてもらいました。以下の図はこれに関係する地名等を挿入してみたものです。

黄色の楕円形で囲んだ地域が「御山」で、高度成長時代の埋め立ての嵐からも生き延びた「北潟湖」が図の「御山」の前面から上方にかけて広がっています。北潟湖の水は大聖寺川の河口につながって日本海に流れます。『芦原町史』によれば、慶応3年より慶応4年末にかけて福井藩により、吉崎と浜坂の渡し場のあった場所に一直線の大堰をつくり、吉崎寄りに汐留水門をもうけ、浜坂よりに舟の航行の可能な非常水門を作って水流を調節した、とあります。この一直線の大堰が現在の「開田橋」になっています。これにもとづき、芭蕉の行路を赤色の点線で推定してみましたが、吉崎からこの渡し船にのって対岸の浜坂村にわたり、汐越村(現在のゴルフ場内)をとおって汐越の松を訪ねたと思われます。
 
  浜坂浦とは、『芦原町史』によれば、「大聖寺川の河口をさかのぼると天然の良湾といえる浜坂浦・吉崎浦がある。ここは江戸時代に日本海を雄飛した弁才船(べざいぶね、外海を航行する大型船)の一拠点として栄え、三国・敦賀・橋立(加賀)等とならんで松前貿易の船主・船員を多く輩出し、幕末には戸数三百戸を越える繁栄ぶりであった」。当社の撫牛像は慶応元年奉納ですから、まさしく繁栄していた頃の浜坂浦の城谷氏からの奉納であることがわかりました。浜坂浦の場所については諸説あるようですが、上図では現在の浜坂漁港あたりと推定して赤色の楕円で示しています。繁栄をほこった浜坂浦でしたが、明治21年の明治政府による日本型大船建造禁止とその後の北陸線開通により衰退していくことになります。
   現在の浜坂浦には、弁才船が三艘ないし六艘も所属していたという当時の面影は見当たりませんが、当社の撫牛像は頭をややもたげて参詣者を迎えると共に、日本海航路はなやかなりし頃の歴史を現代に伝えています。
 今回の旅のおわりに、案内していただいたお礼もかねてクラブハウスにてのどをうるおしました(芭蕉を訪ねてきたといえば、一見さんでも食堂は使用可です)。本ブログのための参考資料をご紹介いただきましたあわら市教育委員会文化学習課埋蔵文化財センターにお礼申し上げます。


 
 
 
 
   
author:bairinnet, category:地域振興, 06:30
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コマツ記念館を訪問し、過酷環境下で稼働しうる建設ロボットの開発を望む
 今月13日に開館した記念館「わくわくコマツ館」を見学しました。JR小松駅東口を出てすぐ左側からコマツ製作所の敷地内に緑地「げんき里山」と記念館が設置され世界最大級の超大型ダンプトラックも展示されています。ただ、専用の駐車場はありませんから、小松駅東口の市営駐車場等に駐車して下さい。「わくわくコマツ館」の全景を次に示します。


この記念館の建物は、東京溜池に本社が移転するまでは、この小松市にあった本社の事務棟を復元したものです。写真の左側に写っているのは、社員の研修や会議に使用する「コマツウエイ総合研修センタ」の大きな建物ですが、一般開放エリア外になります。記念館の入口をはいるとコマツの主力建設機械の創業以前からの発展の歴史を簡潔にしめしたパネル展示が迎えてくれます。内部には、ブルトーザーなどに使用されている油圧装置の基本原理を示す「パスカルの原理」を体験する模型などが設置されていますが、今年2月17日の本ブログで提案した「フーコーの振り子」は残念ながらありませんでしたが、設置するにはこの記念館では狭すぎるようです。
 野外には世界最大級のコマツ電気駆動式ダンプトラック「930E]が展示されています。下がその写真です。複雑な鉱山の地形の中での過酷な作業、落石や転落などの大きな危険から運転手さんを

守るために無人で操縦されている鉱山もあるそうです。体重497トンで、積載量297トン(アフリカ象なら50頭、小学生なら7400人)で時速毎時64.5キロの優れものです。おそらく休日でしょうが、子供達への体験試乗会も開催されているようです。この巨大なダンプトラックや水中ブルドーザーを開発したコマツには、2月23日の本ブログで提案した三代理念を生かして、福島第一原子力発電所といった過酷な環境下で仕事をしうるロボットの開発を是非ともお願いしたい。そうした状況は生起しないとの想定のもとではこうしたロボットの必要性はなく、音楽をかなでたりする感性に訴えるロボットの開発ばかりが優先されてきたようですが、やはり、世界企業たるコマツには、人間の入っていけないないしは長時間人間の滞在出来ない過酷環境として、放射性物質で充満した環境をもとらえていただき、こうした過酷環境下で着実に建設作業をこなしうる無人操縦型ロボットを是非とも国産開発してもらいたい、と多くの国民が望んでいるのではないでしょうか。
 4月20日には、米国iRobot社の開発したロボットPackBotsが福島第一原子力発電所内に導入され、原子炉内部の放射線レベルを測定したり内部の撮影をしているといいます。このiRobot社はマサチュセッツ工科大学のR. Brooks教授および研究室の人々によって設立され、2010年の売上高は4億ドル、雇用者数600人の大企業おに成長しています。放射線にも損害をうけない電子機器(マイクロチップやセンサー)を備え、また、規制により軍事用ロボットの輸出の認められていない日本と異なり、海外の戦場等で実験的使用が可能な米国だからこうしたロボットが開発出来るのかもしれません。
 こうした開発環境の困難さと共に、ロボットを開発しても我が国ではもうかるとは思いません。我が国においてこうしたロボットを開発することは、「無用の用」の最たるものとして開発するとの覚悟でないと開発しきれませんが、そうした実力のある企業がその覚悟で準備していただければ、非常時に国際貢献出来るとともに、世界の尊敬を得て社格を大いに上げると思います。
 帰りには駅前の湯野さんにておいしいおはぎ(ともかく、小松の町中にはおはぎを売るお店が多い)を買いましたが、おかみさんももとあったコマツ本社の事務棟をなつかしがっていました。

author:bairinnet, category:地域振興, 14:48
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コマツ記念館の三大理念について考える
 小松工場跡地に計画されている記念館は金沢21c美術館とは異なり私企業がコマツ発祥の地の振興にも貢献しうるように計画してされているものであるから、コマツ(株式会社小松製作所)の業態にも関係しつつ、地球規模での今後の科学振興にも貢献しうるものが望ましい。それゆえ、三大理念として以下を提言してみたい:
  1)モノ作りの科学
  2)情報に関する科学
  3)生体系や社会系といった複雑系に関する科学
の3つである。1)には2月17日の当ブログで提案した「フーコーの振り子」といった自然科学の基礎原理に関するものから、産業としてのモノ作りに欠かせない「ばらつきの管理」としての品質管理に関するものが含まれるであろう。コマツの建設機械が世界中で利用されているが、そうした世界中で利用されている稼働状態が集約的に把握され、よりよいモノ作りや顧客サービスに利用されているという。いわゆる現代社会と今後の科学技術にとって情報科学のはたす役割は重要であり、1)のモノ作りを身体とすれば、2)の情報系は「神経」にあたる科学分野である。コマツの主力商品は建設機械であるから、どうしても「剛構造、ハード」のイメージが強い、これと正反対なのが「柔構造」の生体系や社会系」であり、系の内容が機械設備のようにはっきりわかっている、設計図がかける「ホワイトボックス」ではなく、各部位(各部分系)の機能についても独立に把握しうるよりもお互いに相互作用しつつ機能発揮しているという意味で「ブラックボックス」の部分が多い。それでも、特に、生体系は外的環境の変化に適応しうる能力を進化の過程で獲得してきている。この意味で3)の中でも生体系の主要な情報処理機能を司る神経系の役割は、2)の情報に関する科学と関係が深い。身体系や精神系が恒常性を保持するためには、種々の外乱に適切に対応しうる神経系がなければならない。
 現代の、それから今後の社会の主要科学理論を三つあげれば、以上の3つになると思い、また、コマツの主力商品とは正反対のイメージをもつ科学分野3)は、コマツにとっても挑戦的な分野であることもふまえて提言してみるものである。画像を載せにくい、堅いテーマで恐縮ですが、計画されている記念館が是非とも魅力的なものになってもらいたい、この観点からは、こうした大まかな方向づけの議論も必要ではないかと思います。
author:bairinnet, category:地域振興, 18:28
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コマツ記念館にフーコーの振り子を
 最近の地元紙によれば、コマツが小松工場跡地に計画している記念館が科学教育に資するものになるとのうれしいニュースが掲載されていた。コマツといえば世界的な産業機械メーカーであるが、産業機械といった特定分野でなく広く科学教育に資する記念館を計画していることは、金沢の21C美術館に対して小松の科学館といういい意味での補完的施設にもなるので是非とも魅力的な記念館にしていただきたい。そこで提案ですが、ロビーの展示品に「フーコーの振り子」はどうであろうか?上野の国立科学博物館にあることは確かですが、裏日本ないし近隣県にあればこの提案はボツであるが、科学史にはたした役割(地球が自転していることを証明)として大であるだけでなく、特殊相対性理論やコリオリ力との関わりといった現代の自然科学現象理解に不可欠の理論展開に関わりを持つ視覚的な展示品になる。1851年2月2日フランス人のレオン・フーコーは、「地球が自転するのを見たい方は、パリ天文台にこられたし」との手紙をパリ在住の科学者に送り、実演を行ったことの詳細は、「フーコーの振り子」と題した翻訳書に詳しいし、その再現模様はインターネット上(You Tube で「Foucault Pendulum」)でも見れるので関心ある方は是非ご覧いただきたい。
author:bairinnet, category:地域振興, 17:00
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