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梯川分水路の水位低下効果、台風5号により実証さる

 

本ブログでは、ほぼ完成している梯川分水路の水位低下効果について報告いたします。事業官庁の金沢河川国道事務所は、昭和46年以来工事が進められてきた河口から6kmまでの川幅を1.5倍に広げる河川拡幅と上流の赤瀬ダムの建設により2mの水位低下効果が発揮されたことが、今回の台風5号により判明したと814日に公表いたしました(金沢河川国道事務所のホームページ参照)。本ブログでは、河口から3km付近に立地する当社境内地を迂回する形で建設された梯川分水路が造成されていなかった時(平成25729日発生の大水)と造成・通水されていた今回の台風5号来襲時の、小松大橋(河口から3.2km)での最高水位と累積雨量の比較にもとづいて、分水路の水位低下効果について報告いたします。

 

目次

1)梯川における河川整備事業

2)分水路方式による河川整備の実施

3)梯川におけるこれまでの出水状況:最高水位と累積雨量

4)台風5号の襲来と梯川分水路の水位低下効果

―――――――――――――――――――――――――――――

本文

 

1)梯川における河川整備事業

 

 明治30年に石川県管理となって以来、石川県小松市を流れる梯川では明治44-大正2年、昭和5年-11年、昭和12-18年にかけて改修工事が実施され、昭和46年度からは国による直轄事業として川幅を1.5倍に広げる等の河川整備事業が実施され、河口から3km付近に立地する当社付近を除いて、河口から6km付近までの引堤工事が完成しています。これまでに、河口から5km(小松新橋)から6km(白江大橋)にかけての拡幅により70cmの水位低減効果を発揮していることが判明しています(詳細は、金沢河川国道事務所HPを参照)。

 

2)分水路方式による河川整備の実施

 

 当社境内地を中の島とする分水路方式により川幅を1.5倍に拡幅する分水路整備事業が平成24年から開始され、平成29年7月末現在で分水路は通水状態になり、今年の11月中に付帯設備を含めて全体が完成することになっています。(詳細は、金沢河川国道事務所HPを参照)。

 

3)梯川におけるこれまでの出水状況:最高水位と累積雨量

 

 梯川におけるこれまでの最高水位は、河口から9.9kmにある埴田観測所において、平成25年7月29日の午後5時20分に観測された5.23m(水位はT.P単位)です。当社付近にある小松大橋(河口から3.2km)のこの日の水位は午後6時で3.76m、午前3時から午後6時までの15時間(降り始めから最高水位を記録する迄の経過時間)での累積雨量は217mmでした。この平成25年7月29日午後5時半の小松大橋付近の画像が図1です。この時の水位は3.7mでした。

 

 

 川は左から右に流れ下っていて、手前は当社の南側に工事中の輪中堤建設のための鋼管です。小松大橋の橋脚ぎりぎりにまで水位が上昇しています。この時は、当社境内域からの排水路が未整備のため、境内全域が水没してしまい、その対応におわれて対岸からの画像をとれませんでした。そこで、同様の河川水位になった平成18年7月17日午前10時に対岸(梯川の左岸側)から当社をみた画像が図2です。この時の水位は3.73mでした。

 

 

 

右岸堤防の天端近くまで河川水位が上昇していることがわかります。

 河口付近から改修のすすんでいました梯川の改修工事は、現在では、当社をとりまく分水路も概成しています。そのような時に来襲したのが今回の台風5号でした。平成2988日の午前11時に、上流の埴田観測所(河口から9.9km)では、87日午後10時から88日午前11時までの累積雨量が189mmで、午前11時に最高水位4.56mを記録しました。この水位は、平成25年の時の水位よりは低めでした。

 これに対して河口から3.2kmにある当社付近の小松大橋では前日の午後10時から88日の正午までの15時間での累積雨量が196mmで、この正午に最高水位2.58mを記録しました。

 最高水位までの累積降雨量では平成25729日の午前3時から午後6時までの15時間で217mmに対して、平成298月の台風5号来襲時の場合は、87日の午後10時から88日の正午までの15時間での 196mmですから、平成25年の方がやや多くなっています。

 河口より3.0km付近の当社より下流側の河川拡幅工事の完成した平成17年の1年後の平成18717日の大雨時には降り始め(前日の午後11時)から小松大橋付近(河口から3.3km)での最高水位3.81mを記録した17日午前9時までの11時間で累積雨量149mmでした。平成25729日の場合は、最高水位3.76mを達成した午後6時までの15時間で累積雨量217mmと平成18年よりも68mmも累積雨量が多かったにもかかわらず最高水位はやや低くなっています。

 最初の降雨までに降雨がない場合と降雨があった場合では、河川への流出量が異なると考えられます。そこで、小松大橋での最高水位を記録するまでの48時間累積雨量を、梯川の雨量の基準観測点であります尾小屋雨量観測所でのデータを調べてみます。平成25727日午後7時から729日午後6時までの48時間雨量は217ミリと15時間雨量と変わりません。ところが、平成18715日午前10時から717日午前9時までの48時間雨量は256ミリと11時間雨量よりも大幅に増加し、平成257月の時よりも累積雨量が40ミリも増加しています。

 一般的にいって、降雨量が長時間かけて降った場合よりも短時間で降った場合の方が、地域の市街化率が高まっている現代では、水位にあたえる影響が大になっていると考えられます。それでも、H25年時よりも48時間雨量がかなり多くなっているH18年時における河川の最高水位が高めになっていることは、48時間累積雨量の与える影響も無視出来ないことを示しています。

 

4)台風5号の襲来と梯川分水路の水位低下効果

 

 今回のH298月の場合は、48時間雨量が199mm15時間雨量が196mmとなり、H25年時と同様に、短時間での降雨にあたり、経過時間も同じです。経過時間15時間の累積雨量がH25年の216mmに対してH29年が196mmです。

 H25729日大水の場合は、累積雨量216mmの午後6時に最高水位を記録しましたが、累積雨量198mmの午後5時に最高水位3.6m、累積雨量180mmの午後4時に最高水位3.37mを記録していました。これより線形補間すると、累積雨量196mmでの最高水位は3.574mと推定されます。H25729日大水において、最高水位までの累積雨量が196mmであったとした時の最高水位は3.574mと推定されます。

 

 実際に計測された最高水位は、H25729日の推定最高水位3.574mに対して、今回の台風5号来襲時の最高水位は2.58mとおよそ1m程度減少しました。大きく減少したといってよいでしょう。

 

 平成2988日の正午過ぎの小松大橋付近の画像が図3です。

 

 

図1の平成25729日の小松大橋の橋脚の河川水位画像に比較しても平成2988日の河川水位は低くなっていることがわかります。

  88日の同時刻に左岸側から右岸側に構築された輪中堤を望んだ画像が図4です。輪中堤の向こうに当社境内が望めます。また、平常時の同様の画像が図5です。

 

 

 

 

 平成25729日と同程度の降雨量にもかかわらず河川水位が平成25年時の水位よりも小松大橋付近で上昇しなかったことの主原因は、平成25年から平成29年にかけて建設された梯川の分水路です。図6は平成2988日の正午過ぎにおける分水路の画像です。また、図7は平水時における分水路の画像です。

 

 

 分水路の深さは梯川本川と同じ深さですから、図6において水位の上にでている輪中堤の段数は、図4に示す本川側の輪中堤の段数(3段)と同様になっています。

 以上より、梯川で過去最高水位を記録した平成25729日の降雨量規模に近い降雨量規模となった今回の台風5号襲来時の小松大橋での最高水位が1m近く低下したことは、分水路による梯川改修効果を実証しているといえます。

 なお、平成25年時に経験した当社境内地における地下水位の上昇による高木の根腐れが、排水路の完成した当社境内地において再現するかどうかは、今しばらく地下水位の動向を見守る必要があります。

author:bairinnet, category:神社と河川改修, 05:18
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当社紹介のDVDが発売されました

当社関連の梯川改修工事が開始された直後の平成24年頃にBSにて放映されました「神社百景~Grace of Japan~:小松天満宮」のDVDが、この度、隔週刊 神社百景~Grace of Japan~ DVDコレクション 第20号」(白山比弯声辧⊂松天満宮)(発行:(株式会社)デアゴスティーニ・ジャパン)として、平成29年(2017)3月14日に発行されることになりました。現在は河川改修が概成している状況ですが、河川改修による輪中堤構築のために社殿前に一時移転されていました撫牛像や昭和10年頃の河川改修にて移築されていました能舞台など、現在と異なる風景がみられます。ただ、北斗形の参道や神門・社殿といった主要建物には変更ありませんので、当社の歴史の保存DVDとしてご覧いただければと思い、ここに紹介させていただきます。

 

author:bairinnet, category:神社と河川改修, 08:49
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分水路の試験通水実施さる

今月下旬に実施される分水路の通水式のための試験通水が実施されました。

下の画像は分水路に通水された状態の画像です。本川の梯川は東から西に流れ下りますので、東側から西側をみての画像です。画像の左側が天満宮の境内地です。

 

 

 次の画像2は、本川から水分水路に水の入る、入り口方面の画像です。

2015年11月30日付けの当ブログに説明するように、分水路の河床と本川の河床は同じ高さに造成されているため, 分水路と本川を隔てる敷居をとれば、円滑に流水が分水路に流れ込むことが本日確認されました。

 

 

 画像3は、分水路の流末の画像です。

 

 

 通水確認後に、画像3の流末より排水が実施され、元の空堀状態に戻りました。その画像が画像4です。

 

 

 

  試験通水の実施された時間における本川の水位は標高で57僂任靴拭2菫1と画像4を比較すると、河川水位と分水路水位との対応関係が明らかになります。

 

author:bairinnet, category:神社と河川改修, 15:24
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分水路にかかる連絡橋に「天満橋」の名板とりつけられました
分水路に架かる連絡橋に橋の名板が取り付けられました。
 
 
 
橋の起点であります境内側からみて左側に漢字表記の名板「天満橋」が、橋の終点であります公道側からみて左側にひらがな表記の名板「てんまはし」が取り付けられました。ひらがな表記の名板には、川の汚濁が洪水にかかわることから、濁音を避けて清音の「はし」が使用されています。
 
  
 
橋の名称は当社の崇敬者組織であります「小松天満宮奉賛会」の会員各位による二カ年にわたる検討を経て決められました。命名経緯をまとめますと以下のようになります。
  梯川の河川改修により撤去されましたが、当社の鳥居前の向かって右側の文田川にかけられていた「小橋」にかわるものが、当社の連絡橋です。下図は『加賀 小松天満宮と梯川』所収の文政十年(一八二七)「小松町総図」に依拠しています。図中の黒色の太線は「粟生通り往来」に通ずるものですが、これが松任町から大川町、茶屋町、島田町から粟生の渡しにゆく「北国街道」です。これに対して黒色の点線で示されているのは、北国街道の茶屋町よりわかれて当社参道を通り、鳥居前の「小橋」(図中の黒丸で表示)を渡って、現在の天神町と上牧町の境(ここは維新後に農業用水路に転換)を通って手取川の下流の湊の渡しにゆく「北国脇街道湊往来」です。昭和四十三年に天神町が出来る前は当社付近は上牧町でしたから、湊往来は当社より上牧町、大島町と通って能美市に入り高坂町、下ノ江町などを通って現在の白山市湊町にいたる脇街道に当たります。
 
 
 
 この図には当社の区域が二分割されて表示されています。白枠で囲った区域は、現在の神門から社殿にいたる境内区域で「天満宮」と表示されています。奉納年は不明ですが、神門には「天満宮」の額が掲げられています。白色点線で囲った区域は、宮司居宅部分で「別当 梅林院」と表示され、神仏習合時代の別当(宮司)居住の寺院「梅林院」にあたります。ここでは創健者の加賀藩三代前田利常公の命により毎月二十五日に法楽の月次連歌会が行われていました。梅林院の名称は、連歌に秀でた初代別当能順が霊元上皇より「梅花の硯」を拝領したことにちなみ、加賀藩五代藩主綱紀卿によって命名されたものです。以来、維新後も当社は「天神さん」とも「梅林さん」ともよばれて親しまれてきていますので「梅林橋」も多くの支持を得た名称でした。この梅林院地区には、宝物館を含む「梅林院記念館」が建設されますので、梅林院の名称は記念館に引き継がれることとなります。この梅林橋よりも多くの支持をいただいたのが「天満橋」であり、「ひろびろとした心地のする名称」とのご意見もいただき、神門掲額や古絵図記載の名称とも合致するものであります。
   さらに、湊往来の道筋跡に作られました用水路(西川用水)を渡る地点(ここは天神町と上牧町の境界)にかかる橋の名称が「天神橋」と名付けられています。「天満天神」は当社御祭神の神号であり、「天満橋」と「天神橋」は共に御祭神ゆかりの橋名となります。
  このような経緯をふまえて,連絡橋の施工主体の事業官庁及び地元行政に「天満橋」での命名方を宮司より要望させていただき、今回の橋名板のとりつけになりました。

 「天満橋」は全国的には大阪が有名ですが、ここ加賀の天満橋も全国的に親しまれる橋になっていくことを願っています。
 
 
author:bairinnet, category:神社と河川改修, 06:43
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分水路工事の紹介
1)分水路工事の紹介

梯川には上流部からだけでなく、遠くは川北町や能美市(手取川左岸域)よりも支川や農業用水路を経て水が流れ込んできます。手取川左岸域の排水の受け皿になっているため、梯川の治水工事は小松市、能美市の発展をささえる重要な工事になります。梯川本川部の拡幅だけでなく、当社域を迂回しての分水路工事が進行しています。
図1は分水路工事の近況です。上流部(東側)からみての画像ですが、向かって左側が当社境内域になります。
 
 
 
図中の青線は、次の図2の分水路断面図の青線に対応しています。
 
 
 
 
 
分水路の底部から図2中の青線までの高さは約5mです。ただし、底部から1mほどの高さ(図2の茶色線で表示)までには土がしかれます。この土を敷く前の画像が図3です。
 

 
図2の青線部分の水位はT.P(東京湾中等潮位)で1.51mになります。茶色線部分はT.P で −2.46m となります。この−2.46mという値は、境内の南側を流れる梯川本川の平均河床高と同じ高さです。分水路の河床と本川の河床を同じ高さにするために約1mの土を入れているのです。
 青線部分はブロックが積み上げられる高さですが、その上方には環境配慮型擁壁が築かれます。図4は工事中の画像です。
 
  
 
擁壁の上端部分の水位は T.Pで4.37mとなり、この高さが、当社付近の梯川の計画高水水位です。
 最近の梯川の洪水はH25.7.29付けの当社ブログに掲載しましたように、平成25729日の午前7時から午後6時までに約160mmの降雨があり、このため河川水位はT.P 86僂ら3.76mまで急上昇しました。このときは、13000人に避難命令が出て、当日夜のNHKニュースでも大きく取り上げられました。当日の午後5時半の小松大橋付近の水位状況を示すのが、図5です。この時の水位は 3.7mです。
 
  
 
現在進行中の分水路構築を含む河川改修事業により、小松大橋付近の通過流量はより大になり、その分、洪水水位は、図5よりは低くなると想定されます。
 
2)環境配慮型の分水路工事

 平成9年の河川法改正に伴い、従前の治水、利水に加えて「河川環境の整備と保全」が新たに法目的に追加されました。これに伴い、それ以前の全国一律の無味乾燥的な河川造りから、地域の特性を活かした川づくりが進められるようになりました。その例を分水路工事からみてみることにします。その第一は、環境配慮型のブロックが使用されていることです。図6の青線丸部分は魚巣ブロックです。稚魚や小魚に生息場所を提供するものです。図6の魚巣ブロックの下側と上側には、コケ類の生長を促進する素材をコンクリ表面に混入したブロックが配されます。図には魚巣ブロックの下側に敷設されています。
 
 
 
また、分水路の底部には深さ約1mの土がしかれていますので、ここにも生物が生息可能です。
 第二は、分水路擁壁に「覆土連節ブロック」が使用されていることです。図4がその施工途中画像ですが、擁壁は互いに鉄筋にて連結されているため「連節ブロック」とよばれます。図7が鉄筋にて連節されたブロックの様子を示しています。また、図8の示すように、この連節ブロックには今後、植生が張られて「覆土連節ブロック」が完成することになります。

  

  


 環境配慮型ブロックがこのような規模で使用されている工事例は珍しいといわれています。目下、魚巣ブロックを間近で観察できるように分水路階段の工事が進行中です。これに安全対策が加味されれば、子供達の環境教育だけでなく親水機能の向上にも役立つことが期待されます。最後の図9は、梯川の中下流で現在観察されている魚類の一例を示す画像です。

author:bairinnet, category:神社と河川改修, 10:22
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撫で牛像の復帰
河川改修工事(輪中堤構築工事)のために数年間 能舞台前方に移動していました撫で牛像がゆかりの元の位置に再建されました。



この撫で牛像は、幕末の頃、北前船の港町として栄えた越前国浜坂浦の北前船首の方より奉納されたものです。当社の南端に沿って流れる梯川は白山山系大日山から安宅の浜に流れ下って日本海に注ぎますが、藩政期には、当社のやや上流にある梯大橋までは橋がかけられていませんでした。これは小松城の米倉や塩倉等に荷を運び入れたり、運び出したりするために北前船が梯川を通行しやすいようにするためでした。梯大橋の南端の町は上泥町(現在の大川町1丁目)で北端の町は梯出村(現在の茶屋町)で北国街道はこの梯大橋を通っていました。そのため、梯大橋両岸には北前船関係の荷下ろし場所として大変賑わったといいます。
 撫で牛像が安座しているこの場所は、昭和12年頃の梯川改修前には創建以来、舟付き場があり、藩政期には黒門と称する門も設置されていました。下記の画像は、このことに関する明治期に撮影された写真です。青丸印内が船着き場の模様です。




祭礼の折には対岸より舟が運航されて参詣客で賑わいをみせたといわれます。この場所は、北前船で賑わいを見せた頃の梯川を偲ぶ場所であり、今は、この撫で牛像が当時の梯川の賑わいを伝えています。
 
author:bairinnet, category:神社と河川改修, 11:37
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仮設排水路の通水性改善工事実施さる
1)はじめに
 当社にかかる河川改修工事は、隣接する農業用水路である文田川の付け替え工事が竣工した平成224月から諸工事が実施されていますので、これまでに5年が経過しています。当社にかかる河川改修工事実施前に事業主体の金沢河川国道事務所により設置されました有識者からなる「小松天満宮等整備計画評価委員会」が平成193月から平成223月まで4回開催され、河川改修計画の「ビフォアー」と「アフター」が審議され、その検討結果にもとづいて以後の改修工事が実施されています。ところがこの委員会で検討されなかったことに、工事期間中の排水処理があります。工事期間中のことは、工事の実施に際して適切に対処するということがこれまでのやり方でありました。しかし、鎮守の森といった植生環境に影響の及びうる、数年単位にわたる工事の場合は、これでは不十分であり、事前に考慮しておいた方がよい、そのための参考事例として以下に紹介いたします。
 
2)モニタリング松の生長量調査結果
 前述の「整備評価計画委員会」の植生担当委員殿により提案されたのに、「CDM工法の影響調査」があります。輪中堤築堤にはセメント系固化材を使用した地盤改良工事を伴うことから、アルカリ分の溶出の植生影響を見るために、工事区域に隣接した地点のクロマツ2本と工事区域から離れた地点のクロマツ1本の合計3本のモニタリング松を選んで、毎年の生長量を比較してみることになりました。新枝の伸長(長さ)と新葉の長さを本格的な築堤工事の開始される前の平成23年より開始後の平成24年から26年までの生長量調査が、事業主体の金沢河川国道事務所によって実施されました。その結果は本ブログにとっても重要なものです。
 以下の図0 は、3本のモニタリング松について、新枝の長さを経年的に比較したものです。ピンクと青色の棒グラフが工事区域に隣接したクロマツ2本、薄緑色の棒グラフが工事区域から離れたクロマツです。黒い縦線は観測データのバラツキを示しています。3本のモニタリング松とも、工事開始以後の平成24年から25年、26年と新枝の伸長が短くなり生長不良になっていることを示しています。この原因ですが、工事区域から離れた地点の松も同様の生長不良を示していることから、CDM工法によるアルカリ分溶出影響とは考えられません。
 
 
 
モニタリングに選定された松は、地下水位の上昇による根腐れに弱く、輪中堤工事着工時に当社境内の外周には矢板工が実施されて、境内のほぼ全域が止水域化してしまいました。さらに、前述の「整備計画評価委員会」において解明されたように、当社の地下水帯は「宙水」とよばれる一種の独立地下水帯であり、そのため、多雨時には地下水位が上昇しやすくなっていることが、境内2ヶ所の井戸の測定結果からも判明しています。この地下水位上昇がモニタリング松の生長不良と関わりをもつと推定されてきています。
 
3)表面排水の排出先の現状と課題
 
 一端上昇した地下水を短期間で人為的に排出することは、とりわけ工事期間中は困難なことと、当社の大径木の多くは、境内の境界付近(そこは輪中堤工事の矢板に近接)にあることから,少なくとも表面排水を迅速に境内の境界外に排出することが不可欠です。
 この項目3)において当社境内からの表面排水の排出先の「ビフォア」とその後の河川改修工事期間中の状況を説明し、次ぎの項目4)、5)におい今回の通水性改善工事の実施状況を紹介します。
 図1は、当社境内の北側に隣接して流れていた文田川が付け変わった直後の平成224月の旧文田川の様子です。画像中の赤丸印が当社境内からの排水が、排水管末端から文田川に流出していく様を示しています。これが「ビフォア」です。
 
 
 
この文田川沿いの立木の伐り払いが実施された平成23年秋の旧文田川の様子が図2です。赤丸印が当社よりの排水管の出口を示しています。
 

 
この文田川と当社の境界付近に工事用の万能塀が立てられ、旧文田川は埋め立てられ、矢板が打ち込まれて地盤改良工事が実施されました。実施後の状況が,次ぎの図3です。
 
 
 
 矢板と万能塀の間の隙間が仮設排水路となりましたが、その管理は放置されたために上図(初春に撮影)のように枯れ草ボウボウの状態で、当社からの排水管がどこでどうなっているのかは皆目わかりません。この区域は河川改修工事区域内ですから立ち入りを遠慮してきましたが、前述のモニタリング松の経年的な生長不良が明らかになった平成26年以来、この仮設排水路の草刈りを要望してきましたが、実施されませんでした。そのため、社務所では工事が休みに入る5月連休中の今年の54日と520日に2回にわたり草刈りを実施しました。本年54日の本ブログに第一回の草刈りの模様を紹介しました。また、草刈りにて確認出来ました仮設排水路の状況を踏まえて、事業官庁に対して、仮設排水路の通水性改善を要望してきました。
 事業官庁においてもその必要性を認めていただいたようです。昨日までに、輪中堤構築工事を担当する請負業者さんの協力にて、改善工事が実施されました。
 
4)仮設排水路の通水性改善工事の実施
 
 最初に仮設排水路の草刈りが実施されましたが、実施前(713日)と実施後(714日)の仮設排水路の状況を図4、図5に示します。
 
 
 
 
 
次ぎに、上図の右端にみえる矢板に沿って水みちを掘る作業が開始されました。その模様を図6に示します。堀削は、万能塀の留め金を一つずつ外して、そこに出来た空地にユンボや素手で掘る作業の連続ですから、手間のかかる作業でしたが、手際よく作業して頂きました。
 
 
 
 
5)当社境内からの排水管の出口の発見
 
 堀削工事の過程で判明した当社境内からの排水管の出口の発見には3通りありました。
 その第1は、出口がどこにあるか不明であったものの確認です。それは当社社殿周辺からの排水を集めて排出する排水管の出口についてです。
図7中の青色線は、社殿周辺からの排水を集水する径路を示しています。
 
 


図8は、最後の集水枡から万能塀の向こう側に排水管が出て行っていることを示しますが、万能塀の向こう側にはそうした排水管は見当たりません。図8の右上方に大きな木の根元付近が見えますが、これは本殿を北風等から保護すべく人為的に植えられたとみられるスダジイの大木です。スダジイのあるのは排水管の出口方向の東側にあたります。
 
 
 万能塀に沿って排水管の出口らしきものを探しますと、スダジイよりもやや東側の万能塀沿いにそれらしきものが見つかりました。下図の図9の赤丸印で示した管です。
 
 

請負業者さんと相談して、図8の集水枡に水20リットルを入れてみて(図10)、それがこの不明の管より流出するかを見てみました。その結果、図11の示すように間もなくして水が流れ出しましたので、これが社殿周辺からの排水管の出口であると判明しました。



 
 平成24年ないし25年始めに、この周辺の地盤改良工事が実施された折に、排水管の出口の付け替え工事がおこなわれていたのでないかと推測されます。スダジイの根元よりも東側ですが、側にはタブノキもありますので、今後の留意地点といえます。
 
 第2は、草刈り後に排水管の出口らしきものが見つかったものについてです。
図12の赤丸印がその出口らしきものです。
 
 
 
次ぎの図13は、数時間に8伉度の降雨があった時に、このあたりに出来た水たまりです。
 


 排水管出口よりの排水のために流下方向に畝が出来やすくなります。それゆえ、水たまりがある付近には出口を見つけやすいものです。これはそういうふうにして見つけられる出口の例です。この出口付近に根が近接していたエノキの木は数年前より枯れ木になっています。それを示すのが図14の黄色丸印です。この写真の示すように万能塀の構築された時にはこのエノキは生きていたために、切り取った形の万能塀になっています。このことより、枯れ木になったのは、万能塀設置後の矢板工の後、排水管の出口の放置後のことといえます。根腐れによる枯死の疑いの強い事例です。今後の同種の事例の参考に供するために、これまで伐採せずに保存してきています。
 
 
ユンボによる水みち堀削時に、この排水管の出口付近を掃除してもらいました。掃除後の状況が図15です。赤丸印内の出口から青色線にそって排水は堀削された水みちに流れ出るようになりました。
 
 
 
 第3は、草刈りをしても排水管の出口が見つからなかった場合の例です。
 こうした場合には、図面を参考にして探します。次ぎの図16は事業官庁により作成された当社の排水管の出口方向を示しています。
 
 
 
図中の青○印のAとは、前述の第2の場合(図12−15)の排水管に対応しています。青丸印のB がこれから探す排水管に対応します。図面よりそのあたりを示すのが図17の赤丸印付近ですが、見たところそれらしき物が見当たりません。
 
 
 
そこで、水みち堀削時に、このあたりを掘ってもらいますと、出てきた出口を示すのが図18の赤丸印です。
 
 
 
なお、図16において「不明」とかかれているのは、排水管が機能していないのか、出口が見つからなかったものです。

 以上のようにして仮設排水賂の水みち堀削の完了した模様を示すのが、最後の図19です。
 
 
 
これでしばらくは、当社からの表面排水は、この水みちを通って釜場(図19の上方)に行き、そこから境外の用水路に円滑に排出され、万能塀付近に滞留(自然地下浸透)するという事態は避けられることになりました。

  最後に、河川改修計画の「ビフォアー」(整備前)と「アフター」(整備後)の途中経路がいくつかある中で、出来るだけよい(今回取り上げた例でいえば、工事が植生環境に与える悪影響を可能な限り最小化する)経路を選択して整備後の状態にもっていくためには、経年的な状態を記憶しておく指標が不可欠であるということです。この意味で、「整備計画評価委員会」で提案され、継続実施されているCDM調査が大変有意義な役割を演じていることを銘記させていただきます。
 
author:bairinnet, category:神社と河川改修, 19:20
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輪中堤防と堤脚排水路の構築手順
前号につづき、最初に輪中堤防の構築について詳しく見てみます。下図は、輪中堤の構造をしめした図です。


現在、工事が開始されているのは、図の右側、境内地側の輪中堤構築工事です。輪中堤の一番下に暗渠パイプ(多孔管)を埋設します。その様子を示したのが下図です。図の左側が既存の河川堤防部分ですが、それの堤脚部に暗渠パイプが敷設されています。堤防側面を伝ってくる雨水排除用のパイプです。



底部に砕石を敷いた上に輪中堤の第一段目を設置した状態が、次の図です。定脚部に暗渠パイプが敷設されています。白いシートは透水シートです。



次の図は、輪中堤を3段目まで敷設した状況です。



次に、輪中堤により止水域となる当社境内からの排水路の構造を示したのが、下図です。



まず、境内の地表面(TP 2.20m)より、およそ95僂里箸海蹐肪浪漆綰喀侏僂陵孔管を敷設します。
その状況を示したのが下図です。透水シート上に砕石を敷き、その上に有孔管(黒色)を敷設しています。



この敷設した有孔管の上に砕石を敷き詰めます。その状況が下図ですが、下図の上部には、境内からの排水を受ける集水枡も設置されています。



この砕石をした上にコンクリ打ちをします。地下90儖焚爾涼浪漆紊世韻有孔管に入るようにするためです。それをした状況が、下図です。



このコンクリ打ちをした上に、側溝を敷設していきますが、この側溝は、側壁部からも雨水を浸透させて排出するために、側溝の側壁部が透水コンクリートで出来ています。敷設する側溝を示したのが下図です。



この側溝を敷設して、側溝内に雨水だけを流して、土砂が流入しないように側溝の周りに砕石を敷き詰めて敷設完成したのが下図です。輪中堤(3段目まで)と排水路の両者が完成した部分の写真です。


 
author:bairinnet, category:神社と河川改修, 15:20
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輪中堤防の構築始まる
国土交通省金沢河川国道事務所によって設置された「小松天満宮整備計画評価委員会」では平成21年12月に、当社の輪中堤の望ましいデザイン、色彩などについてインターネットを活用したアンケート調査を実施しました。詳細は、金沢河川国道事務所のホームページ内の上記委員会のサイト
(特にhttp://www.hrr.mlit.go.jp/kanazawa/mb2_jigyo/river/temman/comm4.html)
をご覧いただくとして、ここではアンケートの内容の一部を引用してみます。輪中堤防のデザインについて、以下の3案が提示されました。

  


 アンケート調査の結果、最も多くの支持を集めた案3に沿って工事が進められることになりました。昨年末より輪中堤防の構築が本格着工しました。以下の画像は、当社の鳥居前に現在構築中の輪中堤防の一部です。案3が具体的な形をとって現出してきました。
   

 
   

 
author:bairinnet, category:神社と河川改修, 20:23
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丑の刻参り跡か
 一級河川梯川の河川改修に伴い建設されます当社周囲の輪中堤の基礎工事に支障となるとして切り払いの求められています立木につき、当該木の寸法等の調査を行っていたところ、下記のような太い釘が二本打ち込まれたハンノキがあることに気づきました。

長さ的にはかなり長い釘であり、また位置も地上から3mとかなり高いところに打ち込まれており、釘の先端も何回も打ち込まれたように折れ曲がっています。
 これが呪物の跡だとしますと、こうした物を使用するのは、韓国ドラマのトンイでしたでしょうか、ライバルを呪い殺そうとした王妃の話がありましたが、我が国でも陰陽師の活躍するはるか前の日本書紀の時代にもあったとされる呪物の一種にみえます。「丑の刻参り」ともいわれるのに使用された呪物は5寸釘といわれますが、この釘もそれに近いようにも見えます。釘を打ち込む音が気づかれないためには人家からある程度離れていることが必要です。何故なら、こうした呪物を打ち込むところを見つかると本人に反ってくるともいわれるからです。呪物の打ち込まれたこのあたりは、河川改修前は鬱蒼と茂った森の中ですから気づかれるには音しかないと思われます。正確な年数は年輪が判明しないと不明ですが、このあたりに最も近い人家は昭和9年の手取川大洪水後に水没した北陸線を土手上に敷設しなおすための土木工事の従事者用の住宅が出来た戦前ですから、少なくともその頃まで遡るのではないでしょうか。
 余程のことがあってこうした行為におよぶのか、それとも心が曇ってしまい人として行うべき行為の是非を判断できなくなっての所為のいずれかは判断しかねますが、当人の死後も残る心の痕跡です。
 社への奉納物の場合は、それを奉納する願主の趣意が、初老や年賀祝等の節目を無事迎えられたお礼など、明確になっていますし、古い奉納物でも古老よりの聞き取りで明らかになる場合がほとんどです。これに比べて呪物の場合は、当人の趣意が不明です。こうした心の痕跡は当人の死後には消滅してしまうとの考えや、当人の身体は滅しても滅しないとの考えがあります。仮に滅しないとして、人倫の道からはずれた趣意とすれば、当人の意思は、邪神に依頼してこの現生の人ないし人々に害をおよぼそうとするものでしょう。そうではなく、仮に不正を憤る心の痕跡として、法律等の手立てが何らない中での所為とすれば、このような形ではなく、菅公が不遇の大宰府流謫中に、親しい同志で、清廉潔白な仁政を施そうと努力していた陸奥守藤原滋実が、不正のやからに暗殺されたのを怒り悲しんで詠まれた長文の漢詩「奥州なる藤使君を哭す」という形で心を表現した方がより後世の人々に訴えかえる力が大きいといえます。神事を含めてのしかるべき手続きののち、考古資料として保存することといたします。
 
author:bairinnet, category:神社と河川改修, 08:24
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