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なぜ十五重石塔は十五層なのか?

 

相輪をもたない(仏塔ではない)十五層石塔の現存は、少なくとも我が国においては現在までのところ当社のみです。小松天満宮七不思議のうち、解明されていなかったのは「なぜ十五か?」のみでしたが、ようやく解明にいたりました。まず、図1は当社十五重石塔を西側から見たものです:


 

 1) 黒岩重人論文:十五は「河図」の中央の数

 

七不思議の最初の「小松城(本丸艪台に二等三角点)と金沢城(三等三角点)を結ぶ一直線上に小松天満宮が立地している」ことを発見された陰陽五行研究家の黒岩重人氏は、平成3年((1991) 発行の「小松天満宮だより」第7号への寄稿論文「十五重の石塔の意味するもの:陰陽五行の視点から」において、十五重の塔に秘められた意味を4点にまとめられた:


)

    1-1)   社地の中央に建てられており、「中央の土」に象ったものである。

    1-2)  その形は「天円地方」の天地をえたものであること。そしてそれは、河図の中央の「天五・地十」の数を導き出すものであること。

    1-3)  そして「十五」の数は、太陽(天)と太陰(地)の合数であり、さらにそれは,

             河図の「天五・地十」の数、および洛書の鬼門線の八・五・二の「土気の数」に基づいていること。

    1-4)  以上の3点は次のことに集約される:小松天満宮の社地は、低湿地帯に盛土をして造成されたものであることがボーリング調査によって明らかになっている。それゆえ、「土気は水気に勝つ」との五行の相克説にもとづき、土気を強めて社地を水気から守るために十五層の石塔を建立した。

 

ここでは河図について概略説明する。河図とは、中国太古の王である伏羲の世に、黄河から龍馬が背中に背負って出てきた図象といわれるもので、図2の白丸(陽に対応)と黒丸(陰に対応)の組み合わせで表現される。地上の世界が、東西南北の四方位(四正)と中央からなり、各方位に、この世の物体を構成する五要素である五行が割り当てられている。南には「火気」が割り当てられ、それは、陽数(天数ともいう)7と陰数(地数ともいう)2の組み合わせによって象られます。北には水気と(天数、地数)の(1,6)が、東には五行の木気と(3,8)が、西方には五行の金気と(4,9)が、中央には五行の土気と(天数5、地数10)が割り当てられています。各方位への天数、地数の組み合わせは儒教経典の一つである「易経」の注釈書である「繋辞上伝」に述べられています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 2) 1991(平成3)年から2007(平成19)年までは黒岩論文がファイナルアンサー

 

 

 

 黒岩論文の4要点のうち、要点C)は、「洛書」の数字を引用しています。ここで 「洛書」とは、遺跡発掘等から存在が確実視されている中国最古の王朝である夏王朝初代「禹王」の時に、洛水から霊亀が背中に背負って出てきた図象といわれているものです。南を上にして図示したものが、図3です。白丸が陽数に、黒丸が陰数に対応しています。河図と同様、陽数は奇数で、陰数は偶数で表示され、各数字は八方位と中央に割り振られています。

 

 

 

 

 

 

白丸(陽数)は奇数に、黒丸(陰数)は偶数に対応していますから、洛書は数字で表示することができ、それが図4です。亀の頭を南方位にして、9つの数字によって図示されています。

 

 

 

 

 

 

縦方向、横方向、対角方向の3つの数字の和がすべて同じ(ここでは15)になっていますから、魔方陣の一種です。黒岩論文のC) でいう鬼門線とは、数字の(2,5、8)の対角線のことですが、ここで、番号2が小松城(の主である利常公)に、番号5が十五重の石塔のある小松天満宮に、番号8が金沢城(の主である五代藩主綱紀卿)に対応しています。小松城―小松天満宮―金沢城が、2.5万分の一の地図上でも一直線上に立地していることと利常公の生まれ年の九星が「二黒土星」、綱紀卿の生まれ年の九星が「八白土気」と中央の数字五の九星が五黄土気であることから、黒岩論文の要点C)は確かに要点をついたものであり、黒岩論文が「なぜ十五か?」のファイナルアンサーであると思われていました。

 

 

 

​ 3)新たな事実の発見

 

 

 

図5は、昨年10月28日付けの当社ブログでも紹介した図です。

 

 

 

 

 

 

 図5の赤線で表示した神門中心(点A)―十五重塔中心(点B)―拝殿前列中央(点C)が一直線上に配置されていることに加えて、A-Bの長さとB-Cの長さの比率が6対4であることが社務所による調査で明らかになったのは2007年(平成19年)のことでした。この配置と比率が、図4の洛書と儒教の経典であります「書経」の「洪範篇」に記された君主の守るべき九つの大法に関係していることは推察されましたが、詳細は不明のまま15年近くの歳月が流れました。

 

 昨年、この直線が、五代藩主綱紀卿の元服年であります承応3年9月18日(陰暦)をグレゴリオ歴に換算した10月28日の日の出線に対応していることが判明しました。この9月18日という日は、三代将軍家光逝去をうけて承応に改元した日であります(昨年10月28日付けの当社ブログ参照)。これがきっかけとなり、ファイナルアンサーに至るミッシングリンクが見つかります。

 

 

4)さらなる新たな事実の発見

 

 改元の時には、漢籍の中からふさわしい元号名と出典名を勘申者から朝廷・幕府に申告します。

 

当社建立年は、四代藩主光高卿が齢31(数え)で早世してから13回忌にあたり、五代藩主綱紀卿が15(数え)歳になる明暦3年です。明暦への改元理由は後西天皇即位によるものですが、勘申者は道真公の子孫の従三位・大学頭・菅原為庸です。出典は中国前漢時代のことを記した歴史書『漢書 律暦志』中の以下の文章:

 

 「箕子言、大法九章、而五紀 明歴法

 

および「歴」と「暦」が同じであることを記した『後漢書』の文章:

 

 「黄帝造歴 歴与暦同作」

 

です。我が国最古の史書である『日本書紀』もそうですが、歴史書を編むためには、王朝最初の王が何年に即位したかを記さねばなりません。そのためには暦を作成して、それを過去に遡らせねばねばなりませんから、歴と暦は同作となります。元号の「明暦」は「明歴」と「歴与暦同作」から勘申されたことがわかります。前者の『漢書 律暦志』の文章を仏教大学図書館デジタルコレクション『漢書』巻21で原文を閲覧してみますと以下のようになっています:

 

 「至周武王訪箕子 箕子言、大法九章、而五紀 明歴法」

 

この文章には孟康と顔師古(中国・初唐の学者)による以下の注記が小文字で記されています

 

 「孟康曰 歳月日星辰 是五紀也

 

師古曰 大法九章 即 洪範九疇也

 

其四曰 協用五紀也」

 

これにより、「書経」の「洪範篇」に記された君主の守るべき九つの大法のことが利常公はじめ政治に携わる藩主層には知られていたことが判明すると共に、図五に示す神門中心(点A)―十五重塔中心(点B)―拝殿前列中央(点C)が一直線上に配置されていることが、図4の洛書と儒教の経典であります「書経」の「洪範篇」に記された君主の守るべき九つの大法に関係していることが明らかになりました。

 

    4-1)  Bの長さとB-Cの長さの比率が6対4で、十五重石塔の立地位置が洛書の中央(社地の中央)の数字「5」に対応し、九つの大法の五番目が「中庸にのっとって、依怙贔屓なく公平に政を行う」に対応していることから「5の位置を秤の支点としますと、点Aに重り4を吊り下げ、点Cに重り6を吊り下げると秤は平衡を保つ」ということです。九つの大法の第四番目「五紀を協用して政を行え」が神門に対応し、九つの大法の六番目「時に応じて三徳に留意して政を行え」が拝殿前列中央(点C)に対応していることがわかります。ここで「五紀」とは年の巡りを記す「歳」、月々の巡りを記す「月」、日々の巡りを記す「日」、二十八宿といった星の巡りと日・月の巡りを示す「星辰」、暦を定める「暦数」のことです。また、三徳とは「正直」、「剛毅」、「柔克」のことをさします。「世の中が平らかに治まっているときには、心を正直(せいちょく)にして物事に対処すること」、「我儘な輩が勢力をもっているときには、剛毅な心持で不正をただしていけば世が平らかになる」、「皆がやさしく睦あっていく世ならば、やさしい心で皆と親しんでいけば万事支障なく物事が行われる」を指し、まさしく君主の政の留意点を示しています。

 

長さの比率が6対4ということは、比率が3対2でもよいことになりますが、(2,5,3)の和が15にならないことから当初は外しましたが、その後、神門中央を通る冬至の日の出線の事実が明らかになりました。図6は、平成24年の冬至(12月21日)の日の出が神門中央から差し込む様子です。

 

 

 

 

冬至とは中国古代王朝の暦作りにおいて一年のはじめに指定された日であり、太陽が天球上の28宿といった星々の間を一年かけて一周する道(黄道)で北半球から最遠点のことですから、まさしく第四番目の大法「五紀の協用」に合致する日といえます。この事実の発見により、長さの比率が6対4でなければならないことが判明しました。

 

   このように、将来を期待されて早世された四代藩主光高卿の忘れ形見であり、十五歳になられた五代藩主綱紀卿がよき藩主となられることを祈念しての配置といいえます。ブログも随分長くなってしまいました。十五重石塔の真南に小松城水口があることとのかかわりの説明は、ご参詣のおりに十五重塔近くの説明板をご覧ください。関連して、利常公所持と推定される我が国最古の作庭書である『作庭記』依拠の代表的な庭園であります平泉の毛越寺庭園もぜひご観賞のうえ、大坂の陣後の偃武の時代に、一国一城制の例外の城のうち、ただ一つ天守閣(武の城の象徴)ではなく、本丸櫓台の上に風流な建物をたてて、金沢城の二倍の敷地に縦横に堀をめぐらした浮き城を築き、文化の城であることを印象づけた、在りし日の小松城の遣り水など作庭の特徴に思いをはせていただければ幸いです。

 

 

 

author:bairinnet, category:宗教的建造物のシンボリズム, 11:28
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残っていた謎の一つが解明さる

 残っている謎の一つは、拝殿前列中央―十五重塔中心―神門中心が一直線上に並んでいることです(図1の赤線部分)。これには長年にわたり何故こうなっているかの調査を続けて参りました。

 

 

 

 この線(拝殿・石塔・神門線)は本日 1028日の日の出線であり、この日の出線に沿って3つの指定文化財建造物が並んでいることが判明しました。図2は、本日の日の出時刻631分に拝殿・石塔・神門線上と思われる位置から日の出を撮影したものです。図3は、図2をとった後に振り向いて石塔方向をとったものですが、点線でしめした赤○は撮影者の影が石塔中央に写っている様を示しています。

 

 

 

では何故10月28日なのでしょうか? 承応元年(1652)となった改元の日は9月18日ですが、承応元年時点では当社の造営工事は開始されていません。当社造営のための地盤改良工事の完成したのは、利常公が家忠に作らせた薙刀や藩の重臣達より釣り鐘灯籠や金属製の花器が奉納された承応三年と推定されていますが、この承応三年9月18日を現在使用されているグレゴリオ暦に換算した日が10月28日というわけです。

 承応元年の前年の慶安四年四月には三代将軍家光が逝去し、この年から加賀藩最大の藩政改革である改作法が開始されています。承応三年正月十二日には五代藩主である犬千代君御歳11歳にて元服し、加賀守四位少将に任官しています。加賀藩にとっても新たな御世の始まりであり、当社造営が本格化する歳でもありました。この目出度い承応改元の日の日の出にあわせて当社の主要建造物の配置をきめられたと推定されます。冬至の日の出線、承応改元日の日の出線、小松城水口の真北といった連立方程式を解く形で、当社の指定文化財であります社殿、十五重石塔、神門の配置や大きさが決められたことがわかります。ちなみに、利常公は承応三年4月には江戸より小松に帰国されていますから、現地で今日の日の出をご覧になっておられたものと推察されます。

アフターコロナの新た世の到来を多くの方々が願われている今年という歳にこのことが判明して本当によかったと思います。残る謎は何故十五かのみとなりました。

 

author:bairinnet, category:宗教的建造物のシンボリズム, 09:32
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小松城入城380周年を記念して説明看板増設さる

 寛永16年、齢47歳にて加賀藩三代藩主前田利常公は加賀藩の家督(80万石)を長男光高卿にゆずり、次男利次卿を富山藩(10万石)、三男利治卿を大聖寺藩(7万石)として、一国一城令の例外として小松城改築を幕府に許可されました。翌、寛永17年(16406月小松城に入城されてから、今年は380周年の記念の歳となります。社務所では、かねてより境内の説明看板の設置に努めてきましたが、記念の年に、新たな説明看板を社殿手前の参道沿いに設置しました。

 

 

遠方よりこられた参詣者より、「社殿が北野天満宮の四分の一になっているとネットでみたので来ました」、「小松城と金沢城の一直線上にあるそうですが、守山城とはどういう関係ですか」といったご質問をうけますので、これらにこたえるべく設置したものですが、本ブログでは作成にいたる経緯を説明いたします。

 昭和50年代後半に、小松市教育委員会が事務局になって、当社と梯川にかかる歴史・自然・河川改修方法などを調査研究する調査会が設置されましたが、それと並行して、先代宮司の指示のもと、社務所でも独自の調査研究が進められました。当社の立地の固有性に関する最初の研究成果は、民俗学者であった吉野裕子氏より紹介されて研究班に参加していた黒岩重人氏により、当社が小松城と金沢城を結ぶ一直線上に立地していることが判明したことです。2.5万分の一の地図を貼り付けて、両城の三角点を結んで直線をひく検証作業でも確認されました。昭和62年(1987)のことでした。下図は黒岩氏作成の図面です。

 

その後、社務所独自の調査により、この一直線を伸ばしていくと、高岡市郊外の山城である守山城に達し、これら3城はすべて利常公が居住された城であることが判明しました。この3城のうち、小松城だけは生涯にわたり2度住まわれたお城であり、芭蕉の奥の細道において2度訪れた町が小松だけとされることとあわせて、「再訪の街こまつ」にふさわしい故実となっています。

 

 藩政時代に小松城城代を勤めた冨田景周が文化4年(1807)に著した『加賀州能美郡小松城来歴並びに黄門一峰公小松養老以後事状考』には、「天満宮を梯河濱に新たに建立也。本堂は良匠山上善右衛門に命し京北野天神社状を四分の一に縮造すと云」とかかれています。このことを確かめるべく昭和39年(1964)刊『重要文化財小松天満宮修理報告書』では、現在の北野天満宮と小松天満宮の平面積を以下のように比較し、比率は4.7対1となり四分の一になっていないと指摘しました。

 

これに対して、先代宮司監修で昭和57年(1982)に刊行された『小松天満宮誌』の撮影・編集を担当した宮 誠而氏は、最初に北野天満宮と小松天満宮の正面図に着目し、正面図の面積比が四分の一になっていることに気づいた。下図が、正面図を比較したものです。

 

 ところが、北野天満宮の現在の社殿をそのまま四分の一に縮造した場合、特に、小松天満宮の両楽の間があまりに小さいものになってしまう。そこで、北野天満宮の現在の社殿から両楽の間を取り去った社殿と小松天満宮の平面積を比較してみると四分の一になることを見つけたのです。黒岩氏の発見の翌年の昭和63年(1988)のことでありました。その後、何故、両楽の間を取り外すのかの究明は社務所に引き継がれました。長年にわたる先行文献調査の結果、福山敏男(1942年初版、1989年復刻版)『神社小図集』等により、豊臣秀頼による慶長12年(1607)の北野天満宮再興時に両楽の間が付加されたことが判明し、小松天満宮は、この慶長の修理以前の北野天満宮の平面積の四分の一になっていることが判明しました。

 

 最後に、何故 四分の一かです。本社の鳥居横の説明看板中の下図が示すように、二つの日の出線(冬至と七夕)が本殿に射し入るように社殿、神門と逆さ北斗型参道が敷設されています。

 

 

この配置関係は創建時以来不変です。このような配置を確保しつつ慶長12年以前の北野社を縮造するという利常公により与えられた課題に対する善右衛門の答えが四分の一であった、というのが社務所の推定であります。

 

 

 

author:bairinnet, category:宗教的建造物のシンボリズム, 06:00
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菅公の七夕の漢詩と史記天官書(つづき):北斗型参道の追加説明2

 

 菅公(菅原道真)が、寛平七年(八九五)七月七日の夜、宮中で開かれた詩宴において宇多天皇の命に応えて詠まれた七夕の漢詩(七言絶句)の説明のつづきです。

 七夕 応製 寛平七年895 従三位権中納言 

 

今夜不容乞巧兼   今夜は乞巧(きっこう)を兼ねることを容されず

唯思万歳聖皇占   ただ思へらくは万歳( まんせい )  聖皇の占ひたまはむことを

明朝大史何來奏   明朝 大史(たいし)何をか来り奏するならむ

更有文星映玉簾   更に文星の玉簾に映(は)ゆること有らむこと

 

 転句と結句の説明は先のブログでいたしました。今夜の詩宴は乞巧の儀式ではないというのが起句の意味です。乞巧とは、七夕の日に月に向かって五色の糸を九つの穴をもつ針に通すことができれば、巧(たくみ)の証明を得たと占った儀式のことです(川口久雄校注『菅家文草 菅家後集』より)。

 本ブログは、帝の長寿を星に祈る転句の典拠の説明です。江戸時代の百科辞典である『和漢三才図会』などを発行している東洋文庫では、魁星像の写しをかいせい御札として頒布しています。東洋文庫ミュージアムMAブログ「かいせいくんにおねがい2」(201512月17日)では、この御札の原図となった書物の画像を掲載しています。この書物は、故事の出典用例を記した書物として江戸時代によく利用された『書言故事大全』という書物です。この書物は石川県立図書館でも閲覧できますが、魁星像の上方に三つの星が描かれていて織姫をあらわしています。これは、魁星の誕生日が七夕の日といわれていることから、織姫(三星文)が描かれているといわれます。

 『菅家文草 菅家後集』も引用している『史記』の天官書は、「織女星は天帝の女孫である」と記しています。史記の注釈本である『史記正義』には「織女三星は天の川の北、天紀の東にあり天女なり・・・・占いに、王者神明に至孝ならば、すなわち三星ともにあきらかなり」と記されています。また、旧暦七夕の頃に南の空には、天の川の傍らに南斗六星があり、「三国志」に出てくる魏の国の占い師の管輅(かんろ)の話にあるように、南斗六星は「人間の寿命をつかさどる」といわれます。これらをふまえて、川口久雄校注『菅家文草 菅家後集』では、この承句に「ただひとえに聖天子に万歳の寿がさずけられますようにと星辰に祈って、その星の光に占いをかけるばかりである」と注記している。このように、承句は、帝の長寿をお祈りする内容になっています。

 

author:bairinnet, category:宗教的建造物のシンボリズム, 19:39
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菅公の七夕の漢詩と史記の天官書: 北斗型参道の追加説明

 『日本大百科全書4』には、魁星(文昌星)について以下のように説明しています: 「北斗七星中の第一星、ないしは第一星から第四星までの名。。。魁星は、文星または文昌星(ぶんしょうせい)ともいわれて文運をつかさどる星とみなされ、後世とくに科挙試験の受験生により信奉された。。。(伊藤清司)」。科挙試験が定着する中国南宋王朝以降、学問・文芸の神としての魁星・文昌星信仰が知識人の間で盛んになりますが、わが国への伝来に関する社務所調査に10年以上の時間がかかってしまいました。

 わが国の文芸作品で、文昌星(文星)を詠んだ作品に、菅公(菅原道真)が、寛平七年(八九五)七月七日の夜、宮中で開かれた詩宴において宇多天皇の命に応えて詠まれた七夕の漢詩(七言絶句)があります。

 七夕 応製 寛平七年895 従三位権中納言  

今夜不容乞巧兼   今夜は乞巧(きっこう)を兼ねることを容されず

唯思万歳聖皇占   ただ思へらくは万歳( まんせい )  聖皇の占ひたまはむことを

明朝大史何來奏   明朝 大史(たいし)何をか来り奏するならむ

更有文星映玉簾   更に文星の玉簾に映(は)ゆること有らむこと

この漢詩のよまれた平安時代には、彦星と織姫星の出会う七夕の翌朝に、大史陰陽寮のトップ)が、天文現象にもとづいて天皇に奏上する「天文密奏(てんもんみっそう)」が行われていました。菅公の漢詩の転句は、七夕の翌日にどのようなことを奏上するのであろうか、と詠い、結句は、菅公の望まれる奏上内容です: 

「文運を司る「文昌星」が玉座の御簾に映えて、明光をはなって見え隠れしていると奏上して、一層の文運のさかえを占いだすであろう(川口久雄校注『菅家文草』を参照)」。

 菅公の漢詩は文運を司る文昌星の加護をえて、帝の治世に文運の栄えのあらんことを願う詩となっていますが、魁星のことにはふれられていません。ただ、玉座の御簾をよまれていることと、それが皇居の奥まった場所にあることを思うと、文昌星=魁星、ないしは、文昌星が魁星の近くにあることを理解しての作詞のようにも思えます。

 北斗七星や魁星、文昌星のことが出てくるのは前漢の司馬遷による『史記』の天官書です。また、この史記の三大注釈書といわれるのが、古いものから順に、中国の南北朝時代の宋王朝(420−479)の裴駰により書かれた『史記集解(しきしっかい)』、唐の司馬貞(679−732)による『史記索隠』。最も新しいのが 唐の開元24年(736)に成立の『史記正義』です。

社務所ではこれら三大注釈本の閲覧を重ねてきましたが、このうち最も古い史記集解の南宋時代の公刊本『宋刊本史記集解』は大阪市の武田科学振興財団所蔵で国宝に指定されています。下記は、武田科学振興財団の入っているビルとビルの正面玄関の写真です。

 

 

 

ただ、残念なことに国宝本には天官書の部分が欠けていましたが、同じ南宋の紹興10年(1140)刊行の『史記集解』130巻の中の天官書を閲覧できました。

 司馬遷の『史記』天官書には、魁星とは北斗七星の第一星から第四星、「北斗の魁星をいただいて、これを助ける六つの星を文昌星という」と記され、文昌星は北斗七星のすぐ近くにあるとみなされていました。三大注釈書の中で最も新しい、唐の開元24年(736)に成立の『史記正義』には、「魁(魁星)は斗(北斗)の第一星」と明記しています。史記正義の出版年は菅公の生誕はるか前ですから、菅公の時代には、文昌星が北斗の第一星(魁星)を照らすという理解があり、これをうけての菅公漢詩の結句であることがわかります。

author:bairinnet, category:宗教的建造物のシンボリズム, 20:19
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北斗型参道の説明版設置さる

 梯川分水路完成にともない、インフラツーリズムで当社周辺地域を訪れる方々も増えていることから、当社では境内案内板の増設をはかることとしています。昨年の宝物館公開で資料展示した北斗型参道についての説明版を鳥居脇に設置しました。

 

 「宗教的建造物は、御祭神に祈りをささげるのに相応しい聖なる空間を創造せんとする人の試みの具現化したものである」(Vilas Bakde)といわれます。その例が冬至の日の出線上への神門・本殿配置であり、当社と小松城との係わりの図解を含めての説明版は十五重塔西側に設置しています。今回設置の説明版は、もう一つの例であります北斗型参道、とりわけ、七夕の日の出線に沿っての東参道敷設に籠められた創健者の願いについての説明版であります。当社境内参詣の折にご覧いただければ幸いです。

author:bairinnet, category:宗教的建造物のシンボリズム, 19:50
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乾隆帝の龍飾と参道形態 (Dragon ornament of the Qianlong Emperor and the shrine approach path)

我々の住む地球上からは、北斗七星は図1のように、7つの星がつながって柄杓の形のようにみえます。
 
     
 
奈良県の飛鳥歴史公園内にあるキトラ古墳に描かれた星宿図(天文図)にも北斗七星が描かれていますが、最初の5つの星と残りの星を分けて描かれています。このような場合には、最初の5つの星の部分は「北斗」とよばれます。図2が、キトラ古墳に描かれた図の模写です。

    

 
 
本年1月27日放映のNHK BSプレミアム「中国王朝 よみがえる伝説:乾隆帝と謎の美女・香妃」において、清王朝第6代皇帝で 王朝の最盛期を築いた乾隆帝(在位1735-96)の墓から出土した「北斗七星龍飾」の画像が初めて公開されました。この画像は、2月6日付けのとある週刊誌にも掲載されています。

  皇帝の身にまとう衣服につけられた黄金のブローチですが、それに真珠で縁取った北斗七星がつけられている豪華なものです。これは,皇帝が身につけるものですから、地上から見るのではなく、天のはるかかなたにいる天帝から見た北斗七星の形をかたどっています。それを5歳のお子さんに模写してもらったのが図3です。緑色線の部分がキトラ星宿図に描かれた「北斗」の部分です。

   
     

 小松天満宮の創建以来の参道形態をGoogleマップの画像(誤字訂正)上に緑色線で表示し



た図が、図4です。なお、社殿は南面しています。

  
「北斗」の番号1のところに社殿(shrine main building)が番号3のところに神門(shrine gate)があり、番号5のところに鳥居(torii, a gateway to a shrine precinct)があり、龍飾にみる「北斗」の形をしています。創健者の加賀藩三代利常公は殖産興業の観点からも、家臣を長崎に派遣して積極的に中国文物を購入していましたから、このような龍飾にみる北斗七星の形をご存じだったのかもしれません。
 天神様がご覧になっておられる、そのような気持ちで参詣者が参道を歩まれる、にふさわしい参道形態といえます。

 

author:bairinnet, category:宗教的建造物のシンボリズム, 08:53
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