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菅公の七夕の漢詩と史記天官書(つづき):北斗型参道の追加説明2

 

 菅公(菅原道真)が、寛平七年(八九五)七月七日の夜、宮中で開かれた詩宴において宇多天皇の命に応えて詠まれた七夕の漢詩(七言絶句)の説明のつづきです。

 七夕 応製 寛平七年895 従三位権中納言 

 

今夜不容乞巧兼   今夜は乞巧(きっこう)を兼ねることを容されず

唯思万歳聖皇占   ただ思へらくは万歳( まんせい )  聖皇の占ひたまはむことを

明朝大史何來奏   明朝 大史(たいし)何をか来り奏するならむ

更有文星映玉簾   更に文星の玉簾に映(は)ゆること有らむこと

 

 転句と結句の説明は先のブログでいたしました。今夜の詩宴は乞巧の儀式ではないというのが起句の意味です。乞巧とは、七夕の日に月に向かって五色の糸を九つの穴をもつ針に通すことができれば、巧(たくみ)の証明を得たと占った儀式のことです(川口久雄校注『菅家文草 菅家後集』より)。

 本ブログは、帝の長寿を星に祈る転句の典拠の説明です。江戸時代の百科辞典である『和漢三才図会』などを発行している東洋文庫では、魁星像の写しをかいせい御札として頒布しています。東洋文庫ミュージアムMAブログ「かいせいくんにおねがい2」(201512月17日)では、この御札の原図となった書物の画像を掲載しています。この書物は、故事の出典用例を記した書物として江戸時代によく利用された『書言故事大全』という書物です。この書物は石川県立図書館でも閲覧できますが、魁星像の上方に三つの星が描かれていて織姫をあらわしています。これは、魁星の誕生日が七夕の日といわれていることから、織姫(三星文)が描かれているといわれます。

 『菅家文草 菅家後集』も引用している『史記』の天官書は、「織女星は天帝の女孫である」と記しています。史記の注釈本である『史記正義』には「織女三星は天の川の北、天紀の東にあり天女なり・・・・占いに、王者神明に至孝ならば、すなわち三星ともにあきらかなり」と記されています。また、旧暦七夕の頃に南の空には、天の川の傍らに南斗六星があり、「三国志」に出てくる魏の国の占い師の管輅(かんろ)の話にあるように、南斗六星は「人間の寿命をつかさどる」といわれます。これらをふまえて、川口久雄校注『菅家文草 菅家後集』では、この承句に「ただひとえに聖天子に万歳の寿がさずけられますようにと星辰に祈って、その星の光に占いをかけるばかりである」と注記している。このように、承句は、帝の長寿をお祈りする内容になっています。

 

author:bairinnet, category:宗教的建造物のシンボリズム, 19:39
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菅公の七夕の漢詩と史記の天官書: 北斗型参道の追加説明

 『日本大百科全書4』には、魁星(文昌星)について以下のように説明しています: 「北斗七星中の第一星、ないしは第一星から第四星までの名。。。魁星は、文星または文昌星(ぶんしょうせい)ともいわれて文運をつかさどる星とみなされ、後世とくに科挙試験の受験生により信奉された。。。(伊藤清司)」。科挙試験が定着する中国南宋王朝以降、学問・文芸の神としての魁星・文昌星信仰が知識人の間で盛んになりますが、わが国への伝来に関する社務所調査に10年以上の時間がかかってしまいました。

 わが国の文芸作品で、文昌星(文星)を詠んだ作品に、菅公(菅原道真)が、寛平七年(八九五)七月七日の夜、宮中で開かれた詩宴において宇多天皇の命に応えて詠まれた七夕の漢詩(七言絶句)があります。

 七夕 応製 寛平七年895 従三位権中納言  

今夜不容乞巧兼   今夜は乞巧(きっこう)を兼ねることを容されず

唯思万歳聖皇占   ただ思へらくは万歳( まんせい )  聖皇の占ひたまはむことを

明朝大史何來奏   明朝 大史(たいし)何をか来り奏するならむ

更有文星映玉簾   更に文星の玉簾に映(は)ゆること有らむこと

この漢詩のよまれた平安時代には、彦星と織姫星の出会う七夕の翌朝に、大史陰陽寮のトップ)が、天文現象にもとづいて天皇に奏上する「天文密奏(てんもんみっそう)」が行われていました。菅公の漢詩の転句は、七夕の翌日にどのようなことを奏上するのであろうか、と詠い、結句は、菅公の望まれる奏上内容です: 

「文運を司る「文昌星」が玉座の御簾に映えて、明光をはなって見え隠れしていると奏上して、一層の文運のさかえを占いだすであろう(川口久雄校注『菅家文草』を参照)」。

 菅公の漢詩は文運を司る文昌星の加護をえて、帝の治世に文運の栄えのあらんことを願う詩となっていますが、魁星のことにはふれられていません。ただ、玉座の御簾をよまれていることと、それが皇居の奥まった場所にあることを思うと、文昌星=魁星、ないしは、文昌星が魁星の近くにあることを理解しての作詞のようにも思えます。

 北斗七星や魁星、文昌星のことが出てくるのは前漢の司馬遷による『史記』の天官書です。また、この史記の三大注釈書といわれるのが、古いものから順に、中国の南北朝時代の宋王朝(420−479)の裴駰により書かれた『史記集解(しきしっかい)』、唐の司馬貞(679−732)による『史記索隠』。最も新しいのが 唐の開元24年(736)に成立の『史記正義』です。

社務所ではこれら三大注釈本の閲覧を重ねてきましたが、このうち最も古い史記集解の南宋時代の公刊本『宋刊本史記集解』は大阪市の武田科学振興財団所蔵で国宝に指定されています。下記は、武田科学振興財団の入っているビルとビルの正面玄関の写真です。

 

 

 

ただ、残念なことに国宝本には天官書の部分が欠けていましたが、同じ南宋の紹興10年(1140)刊行の『史記集解』130巻の中の天官書を閲覧できました。

 司馬遷の『史記』天官書には、魁星とは北斗七星の第一星から第四星、「北斗の魁星をいただいて、これを助ける六つの星を文昌星という」と記され、文昌星は北斗七星のすぐ近くにあるとみなされていました。三大注釈書の中で最も新しい、唐の開元24年(736)に成立の『史記正義』には、「魁(魁星)は斗(北斗)の第一星」と明記しています。史記正義の出版年は菅公の生誕はるか前ですから、菅公の時代には、文昌星が北斗の第一星(魁星)を照らすという理解があり、これをうけての菅公漢詩の結句であることがわかります。

author:bairinnet, category:宗教的建造物のシンボリズム, 20:19
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