RSS | ATOM | SEARCH
梯川(小松天満宮)分水路と能美地域の古墳群

 下図は平成29年に完成した梯川分水路の現状です。

 

右側には天満宮の鎮守の森が、分水路にかかる赤い橋を渡って境内に入りますが、河川改修前にはこの分水路には文田川と呼ばれる小河川が流れていました。下図は改修工事前の平成16年春の画像です。

 

この文田川は明治時代の土地改良工事による流路付け替え工事による水路ですが、それ以前には折橋川とよばれる河川が流れていました。下図は文政2年(1819)の絵図を参考に書いたものです。

 

 

藩政期には上泥町(現在の大川町1丁目)から梯大橋を通って梯出村(現在の茶屋町)に入ってすぐに左折すると大国神社前から天満宮の参道に入ります。この参道沿いを流れて当社西側から梯川に流出していたのが折橋川です。下図は鉄道の北陸本線が開通して、物資の輸送が舟運から鉄道便に変化していく明治42(1909)の図面であります。図中、緑色部分が当社境内、ピンク色で表示した道路が北国街道(本街道)、濃いオレンジ色で表示したのが、北国脇街道湊往来です。河川改修により掛け替えられた小松大橋から根上方面にゆく道路とほぼ同じ所を流れていたのが折橋川です。この図面では、折橋川は梯村から御館村までしか描かれていませんが、御館村の南方にやや細く描かれた水路が見えますが、これが文田川です。舟運から鉄道・陸運に変わることと、明治時代後期以降の土地改良事業などにより、当社参道から北上して大島村にゆく区間の北國脇街道は使用されなくなり、かわりに折橋川が北國脇街道沿いにふられ、名前も西川用水という農業用水路に変化していきました。今回の河川改修により、文田川は北方に付け替えられ、当社境内に隣接して流れていた旧折橋川と旧文田川水路区間が分水路として再生することになった次第です。

 

下図は、郷土史家の西 孝三殿(故人)の研究を参考に、明治42年に陸地測量部によって作成された「小松北部」地形図上に藩政期の折橋川の流路を試みに書いてみたものです(正確なものではありません)。西さんの研究によれば、その起点は現在(平成15年当時)の寺井町吉光で、終点は天満宮の北側から梯川に注ぎ込む地点までとなっています。また、明治10年頃の川幅は梯村で幅五間、深さ五尺、犬丸村で幅四間、深さ五尺、西二口から五間堂で幅5間、深さ1間と舟運には十分な幅員・水深となっていました。平成16年に撮影された文田川の川幅は狭いものでした。折橋川の舟運の出発点であった頃の当社境内北側を流れていた頃の規模を思って、現在の分水路を眺めていますと当時の状況が偲ばれます。

 

 

 小松市と能美市の共同研究などにより、この折橋川と八丁川にはさまれた区域には古墳時代(今から1700年程前)に多くの集落遺跡(赤点印でおおよその位置を示す)があり、そこにはひとかどの王が存在していたと推定されています。また、この区域の起点付近の寺井地区には、北陸有数の規模をほこる能美古墳群(秋常山古墳群や和田山古墳群など)があり、折橋川流域は古墳時代の歴史に深いゆかりのある地域であることが判明してきました。下図は令和210月から12月にかけて小松市立河田山古墳群史跡資料館で開催された小松・能美2市連携企画展「小松と能美の平野を見渡す古墳群」のパンフレット表紙です。

 

author:bairinnet, category:北国脇街道・湊往来, 16:06
-, -, - -
北国街道参勤交代路を歩こう(湊往来編)
 
1)はじめに
 
  近年の郷土の歴史・健康志向ブームの一環として、北国街道を歩こうという方方が増えているようです。当社にも芭蕉のたどった道を自転車で踏破されている方や藩政期の北国街道の風景を尋ねて小松城跡から歩いて参詣される方々がおられます。
  こうした機運に応じて、各所で北国街道の道筋や名所跡を記録する試みがなされています。昨年11月1日には、NPO法人加賀市観光ボランティア大学の10周年記念事業として、北国街道研究部により「北国街道を行く」が出版され、大聖寺藩内の北国街道を紹介する大変きれいな、こじんまりとした冊子が出版されました。ただ、この冊子は市販されていませんので、加賀市立中央図書館などで閲覧することができます。
この小冊子は大聖寺藩内の北国街道を中心に紹介していますので、芭蕉が小松から山中温泉に行き、山中温泉から那谷寺に参詣して再び小松に戻る際にどのような道筋を通ったかの疑問には答えられません。山中温泉も那谷寺も藩政期には共に大聖寺藩領内にありましたので、現在の道筋(粟津温泉から那谷寺にゆく)とはかなり異なっていると思われるからです。NPO法人加賀市観光ボランティア大学さんには、次は大聖寺藩内の芭蕉のたどった道の案内図を作成していただきたいと思います。
 小松市内の北国街道町並は比較的よく保存されていますが、大聖寺藩と小松との境界にある今江付近の風景は、加賀三湖のうち、今江潟と柴山潟の干拓により大きく変化し、また、梯川を渡ってから手取川河口の湊に向かう北国脇街道湊往来は明治以降の土地改良事業等により道筋が消滅している区間があります。
 安政5年、加賀藩第13代藩主は、幕府の許可のもと、北国上街道を通って小松に入り、それから湊往来を通って金沢に帰城する際に、当社にも参拝していますので、社務所ではかねてより北国脇街道湊往来の道筋解明を進めてきましたので、その結果を紹介します。
 
2)明治以前の絵図面にみる北国街道・脇街道湊往来

  13代藩主前田齊泰卿の帰国に先立つ安政5年2月に、家臣の遠藤数馬高朗(たかあき)は、道中案内絵図「駅路の鈴」(うまやじのすず)を作成した。この絵図は江戸から金沢までの道中の名所旧跡を説明したものであるが、当社にも一部奉納されている。齊泰卿は4月18日に江戸を立ち、5月6日に小松に宿泊して、翌5月7日は当社に参詣してから安宅湊、本吉、石立に立ち寄ってから水島にて北国街道(本街道)に出て松任に宿泊している。図1は当日のとられた道筋を絵図面からとってみたものである。
  
 


   梯川にかかる唯一の橋であった梯大橋(現在の小松市大川町と対岸の茶屋町の間の梯川に架かる橋)を渡ると、寺井から粟生の渡しにいたる北国街道(本街道)と手取川河口の湊にいたる湊往来(絵図では湊廻り道と表示)に別れている。13代藩主の通ったのはこの湊往来であった。
 当時は異国船がひんぱんに近海に出現し、海防意識の高まった時代であったから藩主は途中に安宅湊にも立ち寄っている。この絵図面には安宅湊への道筋は記載されていない。
文政2年作成の絵図面に当社付近の道筋が記載されている。それを示したのが図2である。
   
 

 
   藩政期には、当社参道から上牧に入ってから安宅にゆく道筋が安宅本街道であった。現在とは様変わりであるが、当時は梯川にかかる橋は梯大橋しかなく、この橋を渡ってから安宅にゆくのが道筋であった。それゆえ、13代藩主も当社参詣後には、この安宅本街道を通って安宅湊に出向いたであろうが、安宅からどのようにして湊往来に戻ったかは分からない。
   「加賀藩資料」によれば、藩主は当社に参拝後は、安宅湊から石立まで歩行にて進まれ、海岸所々御見物と記され、石立をご覧後に乗り物に乗られたと記載されている。忠田敏男著「参勤交代道中記」によれば、前年の安政4年の江戸出府の折には、8キロほど信州の山道を歩かれたと記されているので、安宅湊から石立まで歩いて進まれたことは確かである。ただ、2千人規模の百万石大名行列であるから、やはりこの安宅本街道を戻ってから湊往来を通って本吉に向かったと考えるのが妥当であろう。
 
3)明治維新後の湊往来

  当社関係の出版物である「加賀 小松天満宮と梯川」に、維新後の湊往来の変貌を示す図面がいくつか掲載されている。最も早い図面は明治21年作成の小松駅付近の地図である。当社付近を示したのが図3である。維新後に石川県監獄薯が城内に設置され、囚人により小松城の破壊が実行されたため、堀割も大半が埋め立てられていることがわかる。北国街道の道筋は藩政期のままであり、桃色で着色されている部分は北国街道本街道を示している。図は北を上にして描かれているので、小松市内から泥町(現在の大川町)を通って梯大橋を渡り梯出村(現在の茶屋町)から島田村を通り、寺井から手取川に向かう道筋である。
 図中に折橋川と記されているのは、中ノ江村(能美市中ノ江町)の上流から蛭川村、梯村から当社北側を通ってから梯川に流れ下っている川である。農業用水路であると共に、道路交通が未発達の明治の中頃までは上流域への物資運搬にも使用されたために川幅も広い河川であった。
 
 
   
  
   図中に赤色で表示されているのが、北国脇街道湊往来である。梯大橋を渡ってから左折し、大国神社前を通ってから当社参道に入り、折橋川にかかる小橋を渡ってから上牧村を北上して、大島村から高坂村、下ノ江村から手取川河口の湊に向かう道筋である。
 次ぎの図4は、明治42年「小松北部:地形図からの図面であるが、北国街道及び北国脇街道湊往来の道筋自体に大きな変化はない。小松城内は本丸櫓台を除いて全て除却・埋め立て完了し、二ノ丸跡地に小松中学校(現在の小松高校)が設立されている。また、鉄道(北陸線)が敷設され、物流が海運・水運から陸運に大変化した時代である。また、土地改良事業とそれに伴う神社合祀が進んだ時代でもあった。
  
 

 
   蛭川町出身の郷土史家であった西孝三氏は平成7年の小論「蛭川町とお宮さん」において、この土地改良事業について次ぎのように回想しておられる。
  「中ノ江地内より蛭川の北部から西南部(現在の城北町の町中)を貫流し、御館の西方から梯の神社裏を流れ天満宮の西後方から梯川に注いでいた「折橋川」の流路位置の変更は、町の大きな変化であった。流路の変更は、その詳細な年月等は未だ不明であるが、田区改正(耕地整理)事業の奨励を図り、推進した政府の方針に則り行われたようである。蛭川の耕地整理事業は明治39年に計画され41年から工事が始まっているので、この川筋の変更は、明治30年代の後期に人工川としての新堀川の新設によるものであった。これに伴なって、永い間集落の縁にあった水路からの荷揚場は廃止され、同39年に白山社、八幡社は加茂神社に合祀され、旧社地の丘状の土は、ほとんど旧水路の埋立用土として活用された。」
 
   図3と図4を比較していただくと、折橋川が南北方向に直線状に流路変更されていることが判明するし、この新流路の右下部分に、御館村南側から天満宮北側を通って梯川に流れる水路(現在、文田川と呼ばれている)も地図上に示されていることがわかる。
 北国脇街道湊往来の道筋が変化しだすのは、次ぎの図5からである。図5は「大正15年実測梯川本川通平面図」(石川県庁資料より建設省が作成したもの)であり、大正時代当時、河川の治水事業を行っていた内務省の意向をうけて、梯川の治水事業計画策定のために石川県庁が作成したもののようである。
 
  

 
    図中の堤防予定線とは、昭和10年代にかけて実施された梯川の改修事業により新設予定の堤防のことであり、ほぼ現在の堤防と同じ位置になっている。この改修事業により当社舞台は西方に移築されたが、平成の河川改修事業により、本舞台が元の位置付近に再建されている。
 大正15年図より判明するのは、当社から上牧村を北上して大島村にゆく北国脇街道湊往来沿いに新たな水路(西川用水)が新設されていることであり、この水路に折橋川が流れ込んでいるため、当社北側の水路には文田川のみが流れるようになったことである。
 この後の正確な時期は不明であるが、この後、上牧村から大島村にかけての湊往来道は利用されなくなり、第二次大戦後にはほぼ消滅していったと考えられます。
 現在では、当社から湊往来道をゆくには、近くの農道を通って小松市民センターを迂回してから小松インターへゆく大きな街路を横断して大島町を通過してゆくことになる。この大島町から高坂町、下ノ江町を通っての湊往来道はほぼ昔のままの通りである。なお、湊往来が北国街道(本街道)に出会う白山市水島町から能美市大成町(下ノ江町の北)までの現在の道筋の動画が、「北陸道の迂回路、湊廻り往来」というタイトルで YouTube で見ることが出来ます。水島町から長屋町でJR線路を渡って美川南町から手取川を渡り湊町に出てから能美市に入り大成町あたりで動画は終わっています。
 「北国街道を歩こう」の皆さんには、郷土の歴史に思いをはせつつ健脚に親しんでいただければ幸いです。
                                                               以上

 
author:bairinnet, category:北国脇街道・湊往来, 10:49
-, -, - -
見納めの桜(2)
 付け替えられました旧文田川沿いの桜が今年で見納めとなる可能性が高いため、ここに紹介いたします。下図が今朝の開花状況ですが、若葉も少々出ていますから、まさに見納めです。


 昨年9月14日の本ブログでも紹介しました藩政期の絵図面ですが、下図は藩政期の絵図に示す折橋川の位置です。


絵図中に青色で着色してありますが、現在の能美市中ノ江町から小松市蛭川町の北部から西南部(現在の城北町の町中)を貫流し、御館町の西方から梯町の神社裏を流れ当社北側を流れて梯川本川に合流していました。この折橋川は、今は故人になられた郷土史家の西孝三氏によれば、明治41年から開始された蛭川町の耕地整理事業と共に流路が変更になりました。この流路変更と共に、当社北側を流れる水路の名称も「文田川」と呼ばれるようになったようです。流路変更までは、内陸部へ木材等を運ぶ水路として盛んに利用されていたようです。
 下図は、当社周辺の河川改修工事の開始される以前の平成16年の文田川沿いの桜の開花状況です。なお、この写真にみれる水路は三面がコンクリート張りですが、昭和三十年代までは自然水路で、水浴びしたりウナギを仕掛けたりと子ども達の遊び場でもありました。ただ、今晩の夕食のおかずは僕にまかせてと仕掛けた竹筒の中にナマズが入っていて、その日の夕食はナマズのお汁を食べたという苦い思い出もある場所でした。
author:bairinnet, category:北国脇街道・湊往来, 08:18
-, -, - -
湊往来への小橋と旧小松大橋の撤去工事
 旧小松大橋および当社の北側の文田川用水にかかる小橋の撤去工事が開始されました。人の告別式がそうであるように、両橋にかける先人の思いに答えるために、ここに両橋の歴史をふりかえってみることにします。歴史をふりかえるに格好の絵図が『加賀 小松天満宮と梯川』に所収されている「小松町総図」(文政10年)です。下図は、図中の不鮮明な部分の文字等を付加して、当社にかかる部分を示しています。


藩政期の加賀藩本街道たる北国街道を示すのが図中の「粟生通往来」と示す街道です。小松から手取川の粟生の渡しに向かう街道ですが、ここには粟生から小松に向かう街道を示しています。
寺井方面から島田村(現在の島田町)をへて、梯出村(現在の茶屋町)にいたり、梯川にかかる橋(現在の梯大橋)を渡って、下泥町(現在の大川町1丁目)に入り、それより上泥町(現在の大川町2丁目、3丁目)をへて松任町ほかの小松の町内にいたる街道です。
 これに対して、湊往来とは、手取川が増水で粟生の渡しが使えない時などの脇街道のことであり、手取川下流の湊村(現在の白山市湊町)より福島村、下ノ江村、高坂村(現在の能美市福島町、下ノ江町、高坂町)を経て、大島村、上牧村(現在の小松市大島町、上牧町)をへて上図の赤丸で囲んだ当社の北側参道入口にかかる小橋を経て、梯出村(現在の小松市茶屋町)にいたり、梯大橋を渡って小松の町にいたる街道のことであります。ただし、おそらくは明治時代中期以降の土地改良工事が盛んに行われた頃でないかと推察しますが、上図の「湊往来」とかかれた当社北方の街道部分は手取川からの農業用水路(宮竹用水)の一部に転換されているようです。藩政期から明治にかけての湊往来が盛んに利用されていたころの思い出が社殿に残されています。下図に示しますように、当社の随神像が本吉町と湊町の方々によって奉納されています。


このように、当社北側参道入口にかかる小橋は、湊往来(および小松より安宅に到る本街道)に通ずる主要な橋の一つでありました。その橋が、河川改修工事により撤去されることになりました(当社の北側参道も閉鎖されます)。下図は、撤去直前の小橋の写真です。

 
 次ぎに、小松大橋の歴史です。藩政期には梯川にかかる北国街道沿いの橋は下泥町(大川町1丁目)から梯出村(茶屋町)にかかる梯大橋でした。梯川の改修工事の開始される明治時代後半の頃より、梯川に新橋をかける運動がおこり、内務省直営工事として昭和九年八月に起工式、翌昭和十年九月十一日に完成式の斉行されたのが、小松大橋であり上図に青の点線で示された部分にかけられた新たな橋のことです。これにともない上図の赤点線で示すように、新橋から島田の国道(北国街道)にいたる新たな道路も建設されました(図には示していませんが、当社北参道入口の小橋を経ずに上牧にいたる道路が建設されたのもこの頃と推察されます)。当社の東参道が道幅を広げて改修されましたのもこの時であります。
 以上の両橋の歴史をふまえて、工事を担当する業者各位列席のもとの神事をへて、取り壊させていただくことになりました。下図は旧小松大橋と併設の歩道橋のおわかれの写真です。

 なお、湊往来についてはインターネット上にて関連するブログも開設され、沿道の様子をうつした動画も鑑賞されます(残念ながら、湊町付近から根上までで小松市内は収録されていませんが)のでご関心各位はそれらも参照下さい。
 
author:bairinnet, category:北国脇街道・湊往来, 08:10
-, -, - -
連絡橋橋台建設工事地鎮祭とアクセス路の一部変更
 昨年12月26日のブログで紹介しました当社への連絡橋橋台建設工事の地鎮祭が本日、当社奉賛会役員および工事関係者が参加して斉行されました。下図は式場から橋台建設場所方向を写したものです。前方にみえる道路は当社の立地する天神町から隣の上牧町方面に向かう市道です。建設される連絡橋は、この市道と輪中堤内の当社東参道を繋ぐ橋梁となります。


下図は文化10年(1827年)作成の古絵図の当社周辺部に着色等したものです。水色は河川と用水路を示しています。梯川は明治末期から昭和10年代初頭にかけての河川改修により流路の直線化と高水対策用の堤防構築が行われました。図中の用水路は、手取川から取水される宮竹用水の末端に位置していますが、現在の用水路はこの時代よりも流路が変更され、また、本数も増加しています。ちなみに、「湊往来」とかかれた道路は、小松から手取川左岸の湊町に通じる主要道でしたが、明治維新後にはなくなり、現在ではこのあたりには西川用水が流れています。当社の北側(図の上部)を流れる用水路は幅は狭くなりましたが、つい最近までは当時のままに流れていました(河川改修により、やや北側に付け替えられました)。

今回建設される連絡橋の橋台二基は、上図の赤線二本で示された位置付近に建設されるものです。ただし、今度は、用水路をまたぐのではなく、梯川からの分水路をまたぐ形で建設されるものです。上図の用水路は、明治時代頃までと思いますが、かっては幅も広く流量も豊富で、多くの資材を積んだ船が上流まで上っていったようです。能美市中ノ江町のとあるお宅を訪問した際に、入口から入ってすぐのお部屋の障子の上でしたでしょうか、太くて大きな横材(楣、まぐさ)に目がとまりました。明治時代に先祖の方がお宅を建てられる時に、このまぐさを、当社北側を流れる用水を使って運び上げたということでした。
 上図に示す「湊往来」や「安宅本街道」へは当社北側のこの用水路にかかる橋をわたって行き来しましたが、下図に示しますように、今回の工事によりこの由緒ある橋は廃止され、通行止めとなりました。また、東参道も一部付け替えが予定されていますが、当社に通じる道路には案内看板が設置されていますので、それに沿ってお参りして頂くようにお願いいたします。また、昨日も大型観光バスの参詣者がこられましたが、出来るだけ根上方面からこられて小松大橋手前から案内看板に従って当社に参詣されますようにお願いいたします。昨日の運転手の方は「なんとか回れた」といっていましたが、小松駅方面からこられると左折してすぐにまた左折と回転がかなり窮屈になると思います。
author:bairinnet, category:北国脇街道・湊往来, 14:03
-, -, - -