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幕末小松城に「新兵組」存在を証する文書の発見

 戦後間もない昭和24年に発刊の『むかしの小松』第一巻「橋北篇」(下図)の「新鍛治町」の昔かたりの中に「新兵組の編成」が紹介されています。

 

 

安政五年(1858)、六年と安政の大獄の嵐が吹き荒れる中、西洋列強の東漸に対抗する海防論が加賀藩においても盛んになってきました。当時小松には御馬廻三百石、黒坂左兵衛景行ら三士を頭として、二百五十石成瀬与一郎正時以下の武士三十二戸足軽五十人あまりしかいないので、海岸に近い小松として防備力不足を補うことことが重要と、文久元年新兵組の組織が命じられました。町民より強壮な青年を募集したところ応募者二百名余りあつまったといいます。筆算・体力・操行の検査を経て、五十人に士格を与え、苗字帯刀が許可されたというのです。著者の小野寺氏の父龍助氏も二十二歳でこの新兵組に編入せられたとのこと。この新兵組は調練は小松城内や安宅の海浜でおこない、仮屯所は城内で借用であったが、明治維新と共に解散したとのこと。

 当社社務所がこの逸話に関心をもちますのは、明治改元の慶応四年(1868)正月、まさに鳥羽伏見の戦いの直前、小松の町人二百九十六人と七町の若連中の浄財をもとに製作された長さ四尺の奉納刀と奉納額(図2)が伝来してきているからです。

 

 

このように小松の町方を網羅する多数の若者が団結して奉納する心意気の背景に近づきたいとの思いからです。明治維新前後の戦いでは銃砲が主力武器となりますから、純粋に武器としての刀剣の奉納とは考えられません。発起人となった若連中の住する「新鍛治町」は明暦万治年間、軽海村の鍛冶職が藩の命令によって移住したのが起源とのことです。

大太刀の作者がどういう鍛冶職なのかは明らかになっていませんが、新時代を若者の力で切り開いていくという心意気を「大太刀」に託して奉納したのでなかろうか。旧弊を打ち破って新時代に参画せんとする若者の心意気は「新兵組」に応募した若者の心意気にも通じるものがあるのでは、との思いからです。

 ところが、これまで「新兵組」のことを記す当時の文書が見つかっていません。社務所では長年にわたり調査してきましたが、数日前に金沢市立玉川図書館近世史料館にて文書が発見されました。それは、所蔵文書をまとめた『加越能文庫解説目録』上巻記載の「先祖由緒幷一類附帳」収蔵の一文書「黒坂景次郎」を閲覧して発見されました。黒坂景次郎の父親「黒坂左兵衛景政」が小松城に勤務していて、慶応元年五月二十三日に「新兵組頭」に任命されていたことが明記されていました。これをもって、小野寺松雲堂氏が記した「新兵組」が現実に存在したことが明らかになりました。ただし、版本で小野寺氏が記す黒坂左兵衛「景行」は「景政」の誤記といえます。

 以下は、本文書の筑波大学の綿抜豊昭氏による翻刻です。社務所にて、職名にカッコをつけ、読み下せる箇所は読み下し、注記をつけさせていただきました。

 

【翻刻】(職名にはカッコをつけたは難読文字)

 

父    黒坂故左兵衛景政

左兵衛義は、天保十三年七月十一日父宗垣隠居仰せつけられるに付、本高之内五拾石を隠居料、四百五拾石で家督相続を仰せつけられ、御「馬廻頭」支配を罷在り候処、同年八月十四日御「大小将組」仰せつけられ、同年九月廿一日組入を仰せつけらる。嘉永六年七月父宗垣 病死 仕候ニ付、同年十二月十六日右宗垣の隠居料五拾石は本高之内ニ付、御仰せつけられ 都合五百石拝領仕う。同七年二月二日知事様附の御「大小将」仰せつけられ、安政六年三月「小松御馬廻御番頭」仰せ付けらる。御「役料知」の百石下され、文久三年九月十日「小松御留守居物頭」仰せつけられ、御「役料知」百五拾石下されるにつき、先の御「役料知」は除かれました。元治二年正月十日「組頭並」兵士支配を仰せつけられ、御「役料知」百五拾石下されるに付き、先の御「役料知」は除かれました。慶応元年五月廿三日「新兵組頭」仰せつけられ、御「役料知」百五拾石下されるに付き、先の御「役料知」は除かれました。同二年正月廿八日役義御免除を仰せつけられ、明治二年二月御軍装御変革ニ付、「一等上士」(注1)仰せつけられ、同年十月御政ニ付き、御捧録高ニ御「基斜綜之法」(注3)を以て知行高御減少仰せつけられ候之旨仰せ渡され、同年十一月「士族長支配」を仰せつけられ、同月晦日病死仕ル。

                              以上。

(注1)明治2年三月二十八日に藩によって出された「士分の階級を定むにより、旧八家を上士上列、人持組を一等上士、頭役及び頭並みを二等上士 。。と定むこととなった。(『加賀藩史料幕末篇下巻』)

(注2)明治2年10月16日に出された「藩士の給禄改定の儀」では、三千石以上の給禄を十分の一、百石以下は減少なし、となるように定率で減少させる方法のことを「基斜綜之法」といっている。明治二年は版籍奉還により、政治体制が大転換した年であり、「藩士の給禄改定の儀」には、「今般大御変革に付、我等自俸旧禄十分の一被仰付、藩士の給禄も適宜に改革致し候様朝廷被仰出候趣、、、、、政令帰一海外万国と並び立ち、独立自主の御政体確乎不抜の大基礎を立つため。。。。朝命遵法の意を体して」、俸禄減少を受忍してもらい旨の文言がみられます。

                                                                以上

 

謝辞: 翻刻をブログに掲載することを御許可いただいた綿抜様に感謝申し上げます。

 

 

author:bairinnet, category:宝物紹介, 04:40
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当社蔵「承応3年8月銘薙刀に関連する新資料発見さる

「承応三年八月吉日」の年月日と「賀州住藤原家忠」の刀工名の刻された当社蔵「薙刀」は、平成30年の宝物館一般公開にてお披露目されました。その後、令和2年が、奉納者の利常公が小松城入城380周年の記念の年にあたることから、刀剣研師 柏木 良氏に依頼して研いでいただき、本ブログの2020(R2).10.28日号にて「承応3年銘の薙刀の刃文よみがえる」と題して紹介させていただきました。承応3年という年が犬千代君(加賀藩五代藩主綱紀卿の幼名)の元服の年であり、また、二代利長公の菩提寺である高岡の瑞龍寺にとっても当社にとってもゆかりの年であることから、本ブログ2021(R3).4.20号にて「承応3年銘の奉納刀は他社寺で発見されるか?」と題して投稿させていただきました。

 

 現在、石川県立歴史博物館では「大加州刀展」が開催されています。

 

 

 石川県立歴史博物館では、定期的に展示更新している常設展のみどころや学芸員の研究活動などの情報を満載した広報誌「石川れきはく」を発行しています。その最新号、No.137に学芸員の野村将之氏による資料紹介「前田利常書状 浅野藤左衛門宛」が掲載されました。『新修小松市史 史料編1 小松城』239頁より、浅野藤左衛門は、寛永20年より万治二年六月まで、小松町奉行を務めています。今回紹介された書状は、加賀藩三代前田利常公が「加賀藩士(小松町奉行)の浅野藤左衛門に宛てたもので。。。「金城ノ鍛冶」家忠吉兵衛が「薙刀一振」を献上したことに対して礼を述べている」。ここでいう家忠吉兵衛とは、当社薙刀の作刀者である家忠のことです。初代家忠と判断する古文書とあわせて書状の詳細は、「石川れきはくNo.137号」untitled (ishikawa-rekihaku.jp) をご覧ください。

 この書状については、書かれた月日が「卯月七日」と、年号がかかれていません。ただ、利常公への献上刀が当社奉納刀とおなじ「薙刀」であることから、初代家忠から献上された薙刀をご覧になって、この献上刀に「承応三年八月」の年紀をいれさせて当社に奉納したか、ないしは、同様の薙刀を新らたに作らせて当社に奉納したかのどちらかの可能性が考えられます。卯月(旧暦四月)から作り始めても旧暦八月には完成しているとおもわれますので、後者の可能性が高いようには思えます。この書状の書かれた年が承応3年ないしそれ以前であれば、後者の可能性が高くなると思います。瑞龍寺への承応3年8月銘の奉納が全て刀剣であるのに、なぜ、当社へは薙刀であるかの疑問も氷解しうる重要書状の発見でもあります。

 

 

author:bairinnet, category:宝物紹介, 20:05
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神門の漢詩額へのお尋ねへの回答

  参道より神門をくぐり振り仰ぐと、神門見返りに直径三尺あまりの掲額があります。

 

 

参詣者各位よりこの掲額についてお尋ねがありますので、ここに回答いたします。漢詩本文の文字数は全部で28文字ありますから、ここには七言絶句の漢詩がかかれています。絶句は起句、承句、転句、結句の四句からなり、七言ですから各句は七文字からなっています。

     御衣拜罷獨長嗟

     身落紫溟天一涯

     莫把江州司馬比

     青衫徒自泣琵琶

              山田長宜拝

作者の山田長宜(新川、太刀山人と号す)は『石川県史』第3編によれば、越中の人で、初め医学を志し後に詩にて一家を成し、又書を能くした方です。明治2年に金沢藩が招聘して藩校「明倫堂」助教となり、廃藩後に加賀本吉(現在の白山市美川町)に移居し、明治11年東京に遷り、明治三十八年七十九歳にて没しました。これよりすると、掲額の年は長宣が40歳前後の幕末から明治10年までの間と推察されます。

 七言絶句の読み下し文は以下のようになります:

 

御衣 ( ぎょい ) を拝し ( おわ ) り  ( ひと )  (ちょうさ) す

身は紫溟 ( しめい ) の 天の一涯 ( いちがい ) に落つ

江州司馬を  ( と ) りてすること ( なか )

青衫( せいさん ) (ただ) (おの)ずから琵琶に泣く

 

 漢詩文の理解には、関連する典拠の理解が不可欠ですが、この漢詩の場合は典拠が三つあります。一つは太宰府に左遷された菅公が一年前の昌泰三年(900)九月十日、朝廷で開催された重陽後朝の詩宴において菅公の読まれた「秋思」の漢詩に対して、感銘をうけられた醍醐天皇が自らの衣を脱いで菅公に与えられたことを思い出しての菅公の七言絶句です。下記に読み下し文を記してみます。七言の漢詩は二文字・二文字・三文字をひとまとめにして読み下すことが大事です:

 

 去年の今夜 清涼に侍す

 秋の思ひの詩篇 独り断腸

 恩賜の御衣 今ここに在り

 捧げ持ちて日ごとに 余香を拝す

 

もう一つは、中国唐時代の漢詩人 白楽天の漢詩「琵琶行」です。白楽天は西暦772年生まれで、29歳西暦800年の時、科挙の進士科に合格。44歳の西暦815年に時の宰相武元衡暗殺をめぐり、黒幕を調査すべきとの上書をなしたことを越権行為とみなされて江州司馬に左遷されてしまいました。左遷された一年後に、今は江州の商人の妻となっている女性が、若い頃に長安の都で妓女をしていた頃を思い出しながら琵琶を弾いているのを聞いて、作詩した七言古詩(十四句))の漢詩「琵琶行」です。 これは長文になりますので、ネットなどで内容をご覧ください。

 

 三つ目は、昌泰三年八月十六日に菅公が菅家三代の漢詩集合わせて二十八巻を醍醐天皇に奏進されたことに対して、醍醐天皇の詠まれた七言律詩「右丞相の家集を献るを見る」です。律詩は、起承転結がそれぞれ二句からなる漢詩です。ここでは起句と結句のみを読み下し文で記してみます:

 

  門風古(いにしえ)より これ儒林

  今日の文華は みな悉くに金(こがね)なり

   ・・・・・・・

  更に菅家の 白様に勝れること有り

  これより抛(なげう)ちすてて はこの塵こそ深からめ

 

この律詩の結句が大事です。「奏進された菅家の家集には白楽天の詩の姿よりもすぐれたものもある。これからは白楽天の詩集は書箱の奥にしまいこんで見なくなってしまうであろう。」このように、菅公の詩と白楽天の詩とは当時からよく比較対象になっていたのです。

 

 以上の準備のもとで、神門見返り掲額の七言絶句の漢詩を解釈してみましょう:

 

起句 

御衣を拝しおへて 清涼殿で天子より戴いた頃を懐かしみ長嘆息する。

承句 

身は時平の讒言により流されて南涯、筑紫太宰府の地に在る道真公。

転句

江州司馬(白楽天)ごときに比べること莫かれ

(起句にあるように「帝から衣をかけていただいた」高い位(右大臣)から左遷された菅公であるから、「皇太子つき一職員」の身分にて越権行為をとがめられて左遷された白居易とは位が異なるとの意で、比べることなかれ)

結句

それでも低い身分(の象徴たる青色の衣)に落とされた菅公が、白居易の琵琶行の漢詩を思い出され、あたかも琵琶の音を聞かれたかのごとくして落涙されている様が目にうかんでくる。

 

以上です。本漢詩の翻刻に際しましては、今は共に故人となられた大西 勉殿、三田良信殿、また、北野天満宮社務所殿を通じて藤井譲治殿、柴田純殿にご教示いただきましたことお礼申し上げます。文責は小松天満宮社務所にあります。

 

 

 

 

author:bairinnet, category:宝物紹介, 11:19
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十五重の石塔の2つの謎の1つが解明さる:ファロスの灯台をきっかけにして

 小松市指定文化財の当社十五重の石塔は、2021.3.2付の当社ブログで紹介した本多政長著の当社『縁起書』にも「十五層の石塔」有りと明記(図1の赤線部分)されていることから創建時に建立されたものです。図2は当社の十五重の石塔の現況写真です。

 

 

 

本ブログでは以下の順序で、説明いたします:

 

  1) 第一の謎

   1.1)『新修小松市史 資料編12 美術工芸』135頁の文章

   1.2)十五重の仏塔例

   1.3)「ラジューム福寿鉱泉」絵葉書により135頁の文章の誤り明らかになる

   1.4)何故 十五重なのか?

 2)第二の謎解明さる

   2.1) 第二の謎とは?

      2.2) ファロスの灯台

      2.3) 十五重の石塔とファロスの灯台の比較

      2.4) 第二の謎の解明

 

1)第一の謎

 1.1) 『新修小松市史 資料編12 美術工芸』 135頁の文章

 

  当社の十五重の石塔は仏塔でしょうか?仏塔には石塔の頂上部に相輪をもちますが、当社のは相輪ではなく宝珠をのせています。これにつき 『新修小松市史・資料編十二』一三五頁には以下のように書かれています。十五層の「最上部におかれた宝珠は後補であろう。塔の最上部には相輪を置くのが通有である。。。昭和二十三年の福井地震で・・・倒壊し、昭和二十七年に修理されている。この際、相輪の代替品として宝珠を置いた可能性がある」と書かれています。小松市史におけるこの記述は、当社の十五重塔が仏塔であるとの観点からの記述です。

 

 1.2) 十五重の仏塔の例

 

  それでは、我が国において、十五重の仏塔が存在するのでしょうか? 社務所による長年の調査より一件の存在が確認されています。それは昭和57年に東京都文化財に、平成18年に国の名勝に指定されている東京都の「旧古河庭園」内の十五層の仏塔です。図2はその画像、図3は現地にある説明板ですが、これからも仏塔として建立されたものが明らかであり、相輪があります(風害をさけるため、これを撮影した平成18年当時は地上部におろされていました)。ちなみに旧古河庭園は、もとは不平等条約改定に貢献した陸奥宗光の別宅でしたが、その後古河家が譲り受け、大正3年頃に隣接地を買収して洋風庭園(英国人のジョサイア・コンドルが設計)と和風庭園(京都の著名な庭師である小川治兵衛が設計)を整備しました。なお、この十五層塔は、古河グループの人々より寄進されたとのことです。

 

 

 

 社務所による長年の調査では、明治維新以前には十五層の石塔は確認されておらず、当社のが唯一のものです。

 

 1.3)「ラジューム福寿鉱泉」絵葉書により135頁の文章の誤り明らかになる

 

  大正十四年に新寺井(旧根上町)から新鶴来間を結ぶ能美電鉄線の開設に貢献した寺井野村の大地主(石川県内で最大)(『能美電ものがたり』より)の酒井芳氏は、旧小松城二の丸にあった「土形」なる土地を購入していました。大正四年に低温湯を汲み上げ、一時に百人入れる総浴場と旅館「長生館」を備える「ラジューム福寿鉱泉」を設立しました。図5は、「長生館楼上より梅林院の眺望」と題された絵葉書ですが、そこに当社の十五重の石塔が写っています。層石は現在と同数の十五ですが、途中に層石の坪野石とは異なる石が二個挿入されていて、現在よりもより高く建てられています。大正時代撮影のこの写真には宝珠が置かれており、「昭和二十七年の修理時に設置された可能性有り」との執筆者の推定は誤りと判明します。このことが判明したのは酒井芳氏および撮影者のお蔭であり、お礼申し上げます。

 

 

 1.4)何故、十五重なのか?

 

 下図は当社の十五重石塔の説明板です。

 

 

この説明板に記されている品川左門は、2021.3.20付当社ブログで紹介したように、利常公の葬送行列の供奉を命ぜられた近臣です。梯川にかかる橋を渡りながら石塔を望みつつ「重ねあげにし塔なれど限りありてぞ見果てぬる」と心中語りかけたとの記述は『三壺記』にかかれているものです。ここにおいて「重ねあげにし」との文言は重要です。利常公が意図的に十五重になるように重ねあげたことがうかがわれるからです。

 十五重の石塔の謎とは、「何故、利常公が十五重の石塔を建立されたか?」です。これは未だ解明されていない謎となっています。

 

2)第二の謎

 2.1) 第二の謎とは?

 

 下図は十五重の石塔の土台(基壇)と初層軸部を示しています。土台は四角形であり、その上に八角形の石がおかれ、真ん中が丸く切り抜かれていて、四方からみても同じような形をしていて、その上に十五層の屋根がついています。この初層軸部につき、小松市HP「小松市の文化財」中の「十五重の石塔」の説明文では「初層軸部は。。。頂点を大きく面取りし、中央には円孔が穿たれる」とあるだけです。

 

 

  十五層の屋根部分の加重を支えるだけの目的の初層軸部にしたければ、面取りをすることなく、円孔を穿つことなく、前述の旧古河庭園の十五層塔のように、四角の立方体にすればよかったのです。そうしなかったという事実そのものが、八角形にこだわったことを顕示しているといえます。四角形の基壇と八角形(中央に円孔)の初層軸部が何故この形をしているのかが第二の謎でした。

 

 2.2) ファロスの灯台

 

  5月4日のBSハイビジョン特集 エジプト発掘「妹を憎んだクレオパトラ」において、アレキサンダー大王の死後、エジプトを統括した大王の部下だったプトレマイオス一世が紀元前280年頃にアレキサンドリアのナイル川河口に建立したファロス灯台が紹介されました。その灯台の画像は、テレビの再放送をご覧いただくとして、お手元のネットで「Emad victor Shenouda」と検索すると、彼の作成した推定画像を見れます。ここでは取り急ぎ作成したポンチ絵を下図に示します。

  番号1 は灯台の基壇であり、その上に四角柱(番号2)が、その上に八角柱(番号3)が、その上に円筒形の建物(番号4)があり、その上部に円形の柱で囲まれた空間(番号5、ここで夜間、火を焚いて灯台の明かりとしていた)があり、その上が屋根部分となっていました。

 

 

 ファロスの灯台は番号1,2が四角形です。ファロスの灯台は高さが110-130メートル推定されていて、当時の世界ではギザの大ピラミッド(高さ147メートル)に次ぐ高さをもつ建造物とのことですから、この高さを実現するために、番号2部分を挿入することは不可欠です。テレビ番組では、クレオパトラの妹であったアルシノエ4世のお墓と推定される建造物がトルコのエフェソスで発見され、その復元画像も紹介されていました。このお墓は、灯台のように高くする必要はないですから、当然ながら灯台部分の番号2部分はなく、四角形の基壇の上に八角形の構造物と屋根からなっています。

このことからも、土台の上の四角形部分(番号2)は灯台という高さをかせぐために挿入されていることがわかります。この灯台の特徴は、四角形の上に八角形の建物(番号4)があり、その上に円形の建物(番号4)と最上階の火を燃やす場(円形)があることです。

 

 2.2) 十五重の石塔とファロスの灯台の比較

 

  比較してみますと、当社のは八角形が四面ありますが、ファロスの灯台は四角形が八面あります。ファロスと同じように、八面とも八角形にすると、各面の八角形がとてもいびつなものになってしまいます。それゆえ、当社の十五重塔の初層軸部は出来るだけ円に近い形の八角形を保ちたいとして四面になっていることが考えられます。

円形を八角形の中に取り込むという違いはありますが、四角形の上に八角形の構造物を載せるという類似点がみられます。また、何故、ファロスの灯台が八角形の構造物をもっているかについては、古代の航海における風の方向を探る重要性との関係が指摘されています。このことが、十五重の石塔の初層軸部が単なる面取りではなく、八角形を意識したものであるとの解明につながることになりました。

 

 2.3) 第二の謎の解明

 

  前漢の武帝の頃にかかれた『淮南子』「天文訓」には「天は丸く、地は四角」という言葉があります。「天は円、地は方」ともいわれる言葉です。また、「天に九野あり」と書かれています。天を中央と八方に区分するという考えです。ここで 中央部は、『史記』の「天官書」を参考にしますと、天の北極星を中心とする部分で、天の中心部が円形をしているのは、北斗七星が一昼夜で北極星の回りを一回転する様に擬せられています。春夏秋冬のどの季節でも、また、東西南北のどの方向においても北斗七星は一昼夜で北極星の回りを巡ります。こうした古代天文学の考えにならって、十五重の石塔の基壇が地に対応する方形になっており、初層軸部が四面からなり、どの面も八角形で中央に円孔をもつ形になっているものと推定されます。

 2011年11月14日号の本ブログ「小松城の水の取り入れ口を探す」で説明しましたように、小松城の水口は十五重の石塔の真南に位置していました。十五重の石塔の初層軸部をなす八角形の中央部の円孔が真北(北半球では北極星の方向とほぼ同じ)を象徴していることが明らかですし、真北を象徴するためにも円孔になっていなければならないことも理解できます。

 長崎を通じて、積極的に海外の文物を入手し、四代光高卿の学問の師を勤めた松永尺五から中国古典の講義も受けておられた利常公ですから、小松城の水口との対応で、この円孔をもつ八角形の形態を採用されたことは十分にあり得るというのが、社務所の見解です。

 

author:bairinnet, category:宝物紹介, 18:10
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承応3年銘の奉納刀は他社寺で発見されるか?

 

 承応3年銘の奉納刀のうち、現存が確認されていますのは三代利常公の命により瑞龍寺に奉納された22本のうちの2本と当社蔵の薙刀の3点のみです。本ブログ2020.10.28号にて紹介しましたが、「承応三年八月吉日」の年月日と「賀州住藤原家忠」の刀工名の刻された当社蔵「薙刀」は、奉納者の利常公が小松城入城380周年の記念の年となった昨年、刀剣研師 柏木 良氏に依頼して研いでいただきました。昨年研ぎ終えた刀剣撮像を再掲してみます。

 

 刀剣撮像:中村 彗(スペアタイムスタジオ)

 

当社蔵の薙刀は、 享保5年(1720)に若い頃利常公に近侍した藤田内藏允安勝の著作『微妙公御直言之御意覚書』(微妙公御直言と略称)に「御領国所々大社之内へ御籠物として御刀・脇刺御認等被仰付候時分、是は加賀守(綱紀)武運長久祈祷の為に仕置候儀与、左門・久越へ御意被遊候へば」との記載を裏付ける最初の物証でありました(文中。左門とは品川左門、久越とは中村久越のこと)。

 さらに、藤田安勝の編んだ前掲書にもれたことを記すとして、享保9年(1724)に山本源右衛門基庸の著書『微妙公夜話録』には次ぎのように記されています。

微妙公御領国中神社仏閣御建立被仰付候而者、皆以為加賀守武運長久与御書付させ被成候。扨(さて)こそ御長命萬端御中興被遊候事、微妙公御祈願之故与(と)、老人共も亡父瀬兵衛も左様に咄申候」

 ちなみに、著者の山本基庸は加賀藩で珍重された書家で、石川県立歴史博物館には彼の書巻が所蔵されています。

 当ブログ2019.7.29号「瑞龍寺の着工年が当社と同じ承応2年と判明」に簡単にふれましたが、その要点をここに説明してみます。

 令和元年7月27日の北國新聞朝刊に「瑞龍寺造営 通説の8年後」というスクープ記事が掲載されました。文武両道にすぐれ将来を嘱望されていた加賀藩4代藩主光高卿が31歳の若さで急死された正保2年(1645)に着工との通説を覆して、承応2年(1653)に造営工事が開始されたことを示す新資料の発見を伝える記事でした。

当社の創建年は明暦3年2月25日であることは、創建の棟札から明らかですが、当社への奉納物の最初は承応3年です。現存する小松城を描いた絵図として、承応元年の絵図には当社の敷地一帯は「沼田足入」として記載され、当社記載が明記されているのは建立後の寛文7年(1667)の絵図となります。また、昭和60年頃に実施された当社境内地のボーリング調査により、現在社殿のたっている地盤は人為的に埋め立てられた地盤であることが判明し、本多政長著の当社の縁起書にある「数千万の人夫をもて、数年にして地所成りければ、洛陽北野の御宮造をうつせ給い」の文章と合致することが確認されています。社殿造営には少なくとも2年間を要するとして、棟札の書かれた明暦3年(1657)2月にはほぼ完成しているとして冬期間を考慮すると、承応2年(1653)から2年間で地所造成を行ったと推定されます。
 さらに、重臣らによって奉納された釣灯籠には承応3年の年号が記され、 奥村因幡守和豊(加賀八家奥村分家第二代当主奥村

( やす ) ( ひろ ) の初名)により奉納の花瓶には承応3年7月25日と明記されています。当時の文化思想(五行の相生の理)を勘案すると、この承応三年が当社の地所造成が完成したことを祝してのことと推定されます。

 以上と、山本源右衛門基庸の著書『微妙公夜話録』記載の「微妙公御領国中神社仏閣御建立被仰付候而者、皆以為加賀守武運長久与御書付させ被成候」とは瑞龍寺と当社のことと推定され、これらが妥当なら、承応3年銘の刀剣は瑞龍寺奉納刀と当社以外からは出現しないものと推察されます。

 

author:bairinnet, category:宝物紹介, 07:42
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『加賀藩史料』の引用する『政隣記』の間違った記述が綿抜論文にて明らかになる

 加賀藩の調査研究にあたってよく利用される『加賀藩史料』は、侯爵前田家編輯部による著作です。天文7年(1538)から明治4年(1871)までの加賀藩の歴史資料を年代順に記載した書物ですが、その第5編の元禄14年12月25日の出来事として、北野天満宮800年祭の万句連歌について記載があります(図1)。北野天満宮800年祭に、藩祖利家公の三男修理知好を初代とする前田修理家第4代の前田知頼(ともより)を藩主綱紀卿の代拝として差し向け、万句連歌を奉納することを命ぜられたことを記した箇所です。この時に奉納された万句(「加賀万句」と略称)の巻頭発句や当社初代別当能順らの句が『政隣記』からの引用として記載されています。『政隣記』とは、明和年間(1764-1772)に世禄七百石を嗣ぎ、文化11年(1814)に没した津田政隣(まさちか)が、天文7年(1538)から文化11年(814)までの加賀藩政を年代順にまとめたものであり、『加賀藩史料』によく引用されている書物です。

 

 

ここに記載されている加賀万句の巻頭発句と能順による脇句については、昭和13年出版の大河寥々著『加能俳諧史』において、能順の句集『聯玉集』の記述と合わないことに疑問が呈されていました。

 今回、国文学研究資料館『調査研究報告』第41号に発表された綿抜豊昭著、「加賀藩前田家「菅公八百年忌奉納連歌」について」(近々、「国文学研究資料館学術情報リポジトリ」の「調査研究報告」に公開予定)で、『政隣記』記述の誤りが明らかになりました。綿抜氏は、当社蔵の「元禄十五年北野天満宮八百年御忌御手向万句」を翻刻することで、御願主による万句巻頭発句が「此の神の守る手向や梅の花」であり、能順による脇句が「実を仰ぐ春の言の葉」であることを明らかにしています。以下に当該宝物の表紙と、万句巻頭発句を記載した画像を紹介します。

 

 

 では、『政隣記』が巻頭発句としてあげる「梅が香や世々の松風神の庭」はどこから出てきたのでしょうか? これについて綿抜氏は、能順が代拝を命じられた前田知頼に手向けとして渡した句で、「知頼は、京都で、おそらく能順の手配のもと、公家らとそれを発句とする百韻を興行したということであろう」と推定されています。詳細は国文学研究資料館 「研究報告」第41号掲載の綿抜論文「加賀藩前田家八百年忌奉納連歌について」、インターネットサイト

                       国文学研究資料館学術情報リポジトリ (nii.ac.jp)

をご覧下さい。

 ちなみに、知頼の娘さんは、第6代藩主吉徳卿に見いだされて藩の財政改革に敏腕をふるい、吉徳卿没後に五箇山に流罪となった、いわゆる加賀騒動の主役とされる大槻伝蔵に嫁いでいます。

author:bairinnet, category:宝物紹介, 15:00
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延享5年(1748)梅林院能俊『旅日記』を翻刻した綿抜論文がネットに公開

 当社3代宮司梅林院能俊が加賀から伊勢・近畿各地をめぐって加賀に帰る一大旅行記を書き残していますが、これを翻刻した綿抜豊昭氏の論文「研究報告:翻刻 梅林院能俊「伊勢紀行(仮称)」が下記の国文学研究資料館のインターネットサイトの「研究報告」第40号に公開されましたのでお知らせします。

 

            国文学研究資料館学術情報リポジトリ (nii.ac.jp)

 

 この中で能俊は、旅の途中に169句の発句と和歌2首を書き添えています。この旅日記には100年後の文久3年(1863)3月に梅林院順承(6代宮司)が記した極め状がついています。、原本は大部な巻物ですが、下図は表紙と出だしの桑名の部分を示しています。

 

  

 能俊がどのような旅路をとったかの概略をたどってみると以下の通りです: 桑名から出立して伊勢神宮・二見の浦・朝熊虚空蔵・鈴鹿山・大津・京都北野天満宮・加茂の競え馬見学(4月5日)・大和路から奈良・二上山当麻寺・三輪の明神・吉野山の西行法師の旧跡・高野山の天徳院や御家の御廟所・和歌の浦・紀伊三井寺・岸和田・堺・住吉・大坂の天王寺で道風真蹟の額見学と大坂天満宮・明石城下の天満宮、人丸堂にて正一位柿本大明神の勅額や忠度の塚・尾上の鐘と相生の松・曽祢の天神松・姫路城下・大江山・天の橋立・和泉式部の歌碑・切戸の文殊堂・福知山・水戸山の峠、尾細峠など越えて鳥羽・足利尊氏ゆかりの篠むらの八幡社・亀山の城下から桂川の渡し舟・四条通柳の馬場に旅宿を借りて滞在、祇園祭見学し梶井の門跡天満宮、曼殊院・聖護院・南禅寺に詣でるもこの日は氷室の日・宇治の平等院にて頼政の装束拝見・宇治からの帰路、万福寺や稲荷社に参詣・北野の宮に再拝して、北野の上乗坊能作坊訪問―ー>

平野社の帰りに北野社のお土居の外を流れる紙屋川の橋上にて、伴える人のいうには、かって能順が紙屋川を詠んだ発句

           「かみや川つつみあつむる蛍かな」(聯玉集416番)

にちなんで発句つこうまつれというに答えて能俊は110番目の句として

      「とふ蛍かけを包むな紙屋川」と詠んでいるーーー>

四条通柳の馬場の旅宿にかえり梅松軒の人と交流・里村昌廸の連歌会に参加、知恩院や高台寺、泉湧寺、東福寺、東寺、相国寺、大徳寺など詣で、北野社僧の連歌会の後に八幡山の瀧本坊にて発句所望される、この後も各所めぐりて、7(ママ)注)月14日は祇園の神事山鉾を見学・・・・糺すのやしろ(下かも社)、水無瀬の御殿御所・邂逅山金龍寺(能因法師ゆかり)・水無月の末(6月末)に京都を立ち、辛崎の松・三井寺・義仲の塚・石山寺・瀬田の橋と八景・三上山から竹生島を眺め・安土の老蘇の森・多賀社に詣でて鳥本にて朝鮮通信使の帰途に会う・長浜の大寺に詣で・気比の御社に詣で・今庄から湯尾峠の茶屋・福居・新田義貞戦死場所の石碑・北潟より舟にのりて吉崎鹿島など眺め大正寺にて関迎えに来た多くの人々と交流して171番の結句「来る秋は風の戸ささぬ関路かな」 延享辰 初秋中旬 梅林院能俊 として旅日記は終わっています。

   延享辰とは延享5年(1748)ですが、この歳は桃園天皇即位により7月12日に寛延に改元になっています。それゆえ、能俊が帰国したのは7月10、11日頃と推察されます。なお、上賀茂神社の競え馬は現在は5月5日に催行されていますから、旧暦では能俊が加賀を出立したのは3月中となり、およそ4ケ月の旅行となります。

このような長期の旅行には随行もふくめて経費はかなりの額となります。また、創健者の利常公より能順に「月次連歌会」の催行を命じられ藩政期には代々引き継がれていく行事ですが、能俊の旅行中はこの月次連歌は欠礼となり、その旨の許可を藩から得て旅立っているはずです。しかも、このころの一大行事である朝鮮通信使の一行の行きと帰りの2回遭遇しててもさしたる関心を示していません。 

  上記に記した訪問地には歌道の歌枕(和歌によまれた名所旧跡)が多く含まれ、『能因歌枕』を著した能因法師ゆかりの邂逅山金龍寺も含まれています。綿抜豊昭著『小松天満宮と能順』に紹介されているように能順以来の歴代宮司(少なくとも4代由順まで)は「古今伝授」をうけた歌道宗匠(月次連歌会を仕切る有資格者)でしたから、古今伝授をうけるための旅行として藩よりの許可と旅費をいただくための一種の実績報告書としてこの旅行記を書いたとも推察されます。現代では、四国八十八か所巡りなどが有名ですが、江戸時代中期にこのような歌枕を訪ねるとも考えられる旅があったのかどうか、類例が待たれます。

 

 注)祇園祭宵山の山鉾は現在では7月14日からですが、旧暦では6月14日からでしょうし、この少し後の記述に「水無月の末」に京都出立とありますから、ここの「7」月は能俊の書き間違えです。

 

author:bairinnet, category:宝物紹介, 09:05
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特製御朱印授与のご案内

 当社には、菅公の代より嫡々相伝されてきた菅家秘伝の書であります「天満宮書幅」が伝来しています。この書は第二十六代の三日翁日徳により天保4年(1833)に北野天満宮目代家(春林坊)において、3週間潔斎して書かれた書幅であります。北野天満宮別当職(初代は菅原家の出生)を歴任していた門跡寺院の曼殊院の命をうけて北野天満宮の事務を取り仕切ったのが目代家であります。

 

 

石川県立歴史博物館における令和元年秋季特別展「加賀前田家と北野天満宮展」において、当社蔵の書幅と同一作者の三日翁日徳が天保九年十一月(当社の書幅をかいた五年後)に7日間潔斎して書いた書を扁額にして金沢市の神社に奉納されたものが展示されました(当社蔵との比較にご関心の方は、前述の令和元年秋季特別展の図録の135を参照ください)。

 

「天満宮」の書体のうち「満と宮」にある雨文字、蛇文字、宝珠は当社と同様ですが、当社蔵の書には「天」の文字に、当社の十五重石塔にみられる蕨手(わらびて)と宝珠とともに、鳩文字が書かれているのが特徴です。当社初代別当能順は百五十回忌にあたる安政二年(1855)に、僧位としては最高位の法印の位を遺贈されましたが、それを祝う追悼連歌会が京都と小松で開かれ、当社には小松で開かれた追悼連歌会の折に奉納された屏風が蔵されています。屏風には連歌発句と漢詩が描かれていますが、北野天満宮の百科全書といわれる『北野誌』を編纂した宗渕法印も追善発句「世ににほふ梅のしつくは冬もなし」を寄せており、下図は屏風のその場面です。

 

 

『北野誌』には菅公の漢詩文をまとめた菅家文叢(菅家文草)などが収録されています。『菅家文叢』巻四に、菅公が文章生に合格した折の試験問題に答えた四言詩のうち、「白鳩」を称えた四言詩が収録されています。天が下すめでたい印である瑞物六個(白鳩、白燕など)をあげてそれをたたえる四言詩を詠めというものです。菅公は白鳩について「鳩瑞色を呈し 質已に霜の如し 羽毛明るく光り 日徳光を分かつ」と詠んでおられます。鳩は生まれながらに高潔で、その羽毛は白く清らかに光り 日にそなわる徳を光りとなって分けている」と。

 当社蔵の「天満宮書幅」には天の字の箇所に鳩文字が四つ描かれていますが、天より下された瑞物としての白鳩が天の徳を内と外にて分けている様を描いたものといえます。また、文章生はもとは大学寮で採用試験が実施されたもので、詩賦(漢詩文)により定員二〇名の文章生を選抜する試験であり、菅公は十八歳の時に文章生試験に合格し、五年後の二十三歳のときに、二〇名の文章生から二名選抜される文章得業生になり官吏(正六位下 下野権少掾)に叙任しています。現代でいえば、大学入学試験に合格した時の菅公のお詩由来の鳩文字であり、縁起の良い文字といえます。

 このように当社蔵の「天満宮書幅」は天神様へのご信仰の長い歴史をふまえた大変珍しい書幅であり、菅公お生まれの歳の丑歳を迎えるに際して、コロナ禍を克服しての新た世の創生を祈念して、また、入学試験合格を目指す学徒を応援して当社の特製御朱印として授与させていただくことになりました。ここにご案内させていただきます。なお、この特製御朱印はすべて書置き(御朱印帳にお貼りいただく方式)での対応とさせていただきたく存じます。

 

author:bairinnet, category:宝物紹介, 07:23
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承応3年銘の薙刀の刃文よみがえる

 

「承応三年八月吉日」の年月日と「賀州住藤原家忠」の刀工名の刻された当社蔵「薙刀」は、平成30年の宝物館一般公開にてお披露目されました。今年が、奉納者の利常公が小松城入城380周年の記念の年にあたることから、刀剣研師 柏木 良氏に依頼して研いでいただきました。コロナ禍おさまらないため、一般公開は来年秋になりますが、本日の地元紙(北國新聞、読売新聞)にて公表されていますので、本ブログにも紹介いたします。加州新刀のバイブルともいうべき昭和48年に財団法人「日本美術刀剣保存協会石川県支部」によって刊行された『加州新刀大鑑』の29頁の家忠の紹介文中に「刃文の技巧という点より見る時、家忠は当国刀工中最も名人であるといいたい」と評されている家忠最晩年の作が今回研ぎ終えた薙刀の刃であります。

 下図は、先端部分の刃文の画像です。『加州新刀大鑑』で「初代家忠の傑作とされる」家忠の正保三年作の刀の刃文に比べて帽子(刃文の先端部分)の部分の刃文がとがり、また、全体的にゆったりとした刃文になっています。

 

       刀剣撮像:中村 慧(スペアタイムスタジオ)

 

ちなみに、当社蔵の薙刀は、 『微妙公御直言覚書』に「御領国所々大社之内へ御籠物として御刀。。。是は加賀守(綱紀)武運長久祈祷の為に仕置候」との記載を裏付ける最初の物証であります。令和元年7月27日に北國新聞紙上の記事「瑞龍寺造営 通説の8年後」で紹介されましたように、承応2年(1653)に瑞龍寺の造営に着工したことが明らかになりました。令和1年7月29日付の当社ブログで紹介しましたように、湿地帯に地盤改良工事をして当社造営に着工したのは瑞龍寺と同じ承応2年と推定されています。これらを考慮しますと、犬千代君(5代藩主綱紀卿の幼名)の元服の年の承応3年銘の御籠物は、瑞龍寺の22口以外には、今後の新発見を待たねばなりませんが、当社蔵のみかもしれません。

author:bairinnet, category:宝物紹介, 05:12
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当社宝物が大々的に歴博で公開されています:得がたい機会ですのでお出かけ下さい

 これまで数十年間にわたり斎行されてきました当社宝物館公開にお越しいただいてきました多数の崇敬者各位にお知らせします。今年の当社宝物館公開は、金沢市の石川県立歴史博物館に場所を移して、来る11月4日(10月7日は休館)まで開催されています。当社宝物館より大きな展示場所で、また、北野天満宮や公益財団法人前田育徳会や金沢市内の社寺からの出品とも関連づけて当社宝物の意義の理解がすすむように展示されていますので、是非とも会期中にご覧ください。ここでは5点ほど紹介いたします:

 

1)当社創建の源流(展示番号41番、44番)

 

 戦乱の世では一国一家の団結が乱世を生き延びるのに重要になりましたが、それとともに盛んになった文芸に連歌があります。とりわけ、天神様は連歌をお好みになるとの信仰が盛んになり天神様に願意をお届けする際に連歌を添えて祭典をおこなうことが室町時代から幕末にかけておこなわれました。当社初代宮司能順の父 能舜は北野天満宮と徳川将軍家との仲立ちの役割をにない、能舜宛の徳川秀忠書状(写し)が当社に残されています。

     

 

展覧会では、北野天満宮蔵の秀忠書状が展示(展示番号41)されています。

三代利常公の奥方は将軍秀忠の娘さんである珠姫ですが、三男五女をお産みになられた後に、体調を崩されました。そのため、利常公は能舜に祈祷をお願いしましたが、その礼状が当社に残され、展示(展示番号44)されています。また、今回の歴博での展示にあわせて作成されました図録の126頁に、綿抜豊昭氏による詳細な説明文が掲載されていますので是非ご覧ください。

 

これらより、当社創建の源流に徳川家、前田家と北野天満宮との関わりがあり、初代宮司に能舜子息で連歌の名士とうたわれていた能順が招かれた由縁をものがたる展示です。

 

 2) 北野天満宮社殿の四分の一造営(展示番号34番、35番)

 

初代宮司能順が元禄十六年に藩に提出した由緒書ほかの古文書に、当社社殿が北野宮の四分の一にして建造されていると書かれていましたが、その具体的なことは不明でした。

      

 

 

今から30年ほど前の昭和63年(1988)発行の「小松天満宮だより」第4号に宮 誠而氏が一文を寄稿しました。北野天満宮の現社殿は豊臣秀頼造営になるものですが、現社殿をそのまま四分の一にしたのでは、あまりに小さな社殿になってしまうので、現社殿の両楽の間を取り去った後の社殿を四分の一にしたものであるとの推論を発表され、それにもとづき計算した結果、当社社殿が四分の一になっていることが確かめられました。ただ、創建当時、両楽の間を取り去った理由が、恣意的なもので実体に対応したものでないことを利常公らがご存知の上で建造されたのかどうかは不明のまま課題として残されました。

 その後、前 久夫氏による『寺社建築の歴史図典』(2002発行)において北野天満宮の「拝殿の両脇に、さらに楽の間がとりついでいるが、これは元はなく慶長再建時の付加である」ことが明らかにされました。

 今回の展示ではこのことを証する図面が2点北野天満宮より出品されました。展示番号35番「北野・東山遊楽図屏風」には、秀頼により造営の現在の社殿(両楽の間付き)が描かれています。これに対して、展示番号34番「北野社頭図屏風」には両楽の間がなく、これが秀頼造営前の北野社社殿の図であることがわかります。

 

3)当社創建時奉納の「紅梅図額」(展示番号65)

 

 これは、前田長知(孝記)主水により、明暦3年(1657) 当社創建時に奉納された「紅梅図額」です。前田長知は、守山城及び小松城において利常公の傅役(もりやく)を務めた前田長種の孫にあたる方であり、加賀藩4代藩主前田光高卿に仕えた方です。

 

 

当社奉納の絵馬に描かれているのは白梅が多く、紅梅は珍しい図柄です。今回の歴博展示番号15に前田育徳会より元応元年(1319)作「重文 荏柄天神絵巻 上巻」(10月6日まで、10月8日以降は中巻が展示)より菅公左遷時に菅公が京都亭の紅梅に別れをつげる「紅梅別離」の場面が描かれています。 

 当社創建年の明暦3年(1657) が利常公と珠姫の長男で加賀藩四代藩主光高卿の13回忌にあたることと、奉納者が光高卿に仕えた方であったことを考え合わせますと菅公ゆかりの別れの紅梅図奉納によりご冥福を祈られたのかもしれません。

 

4)「北野梅鉢鏡額」のパネル展示(展示番号66)

 

 

 これは小松馬廻組の生駒頼母宗通により奉納したもので、銀色の彩色を施した円形の木版に六枚の鏡を嵌めこみ北野梅鉢の形を表した額です。経年劣化により色がくすんでいますが、奉納当初は金銀の色鮮やかな額であったろうといわれています。創建当初の当社奉納品や建物には、剣梅鉢紋は唯一、神門の金沢城側につけられているのみで、神門の小松城側には軸梅鉢紋と剣がついていません。一国一城制の例外として認められた全国12の城のうち、小松城のみが大坂夏の陣以後に文化の城として改築されています。文化立国の願いをこめての当社創建でしたから、剣のない梅鉢紋は当社創建にはふさわしい奉納といえます。

 『加賀藩史台』によれば、生駒頼母の祖父 吉田直元は織田信長公に仕えて、永禄7年信長公の侍女を娶り、長男直勝を授かりました。直勝7歳の折に信長公の近習となり、生駒直勝と名を改めた。生駒直勝はその後、豊臣秀次、加藤嘉明、織田信雄に仕えた後、加賀藩二代、三代につかえました。直勝は織田信雄の娘を娶り、二人の間に長男直方と次男頼母が生まれた。次男頼母は、加賀藩四代藩主光高卿に仕えて1000石を食んでいたが、光高卿の没後、家を絶ち、長男直方が後を承けたとかかれています。

 

5)天満宮書幅(展示番号99番の参考パネル展示)

 

今回の歴博での展覧会がなければ、見捨てられていた当社宝物です。

これまで当社には、新修小松市史編纂事業等のための各種調査がなされましたが、全く関心のもたれなかった書であります。

 

 

この書は菅原一家秘伝のもので、菅公の代より一人だけ嫡嫡相伝してきたもので、第26代の三日翁日徳により天保4年(1833)に書かれたものです。神仏習合時の資料はほとんどが破却ないし散逸したとされていましたが、数十年前にまかれた紙状で発見され、現宮司により軸装されていたものです。ただ、北野天満宮社務所殿にお尋ねしても不明のため、日の目をみないままでした。

 ところが、今回の歴博展覧会の準備で調査中の学芸員の方により、同一の作者により天保10年(1839)にかかれた書をもとにした「天満宮扁額」が金沢市の泉野菅原神社殿に収蔵されていることが判明したのです。この額は、北野天満宮目代家(春林坊)において81歳の三日翁菅原道日徳が、一週間(十一月五日から十一日まで)修別火浴場潔斎して書いた書を、加賀本藩において定番御馬廻組番頭を勤めていた神戸盛雄が入手し、加賀の名工・武田友月に彫らせて奉納したものであり、立派な額です。

 当社蔵の書は、三週間潔斎して書かれたものであり、より複雑かつ個性的な書となっていますので、是非 見比べてみてください。ちなみに、雨文字や蛇文字や宝珠に加えて、当社蔵の書には、観音信仰ゆかりの長谷寺などの扁額に出てくる鳩文字が書かれているのが特徴です。

 

author:bairinnet, category:宝物紹介, 12:34
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