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宗祇「角田川」の能順写本(貞享3年)の新発見

 応仁の乱勃発後の文正2(1467)弥生3月に関東下行中の宗祇が、連歌に関する質問に答える形で著した文書に「角田川」(吾妻問答)があります。これの能順写本が、長年にわたり当社の連歌文書を調査・研究している筑波大学の綿抜豊昭氏により当社蔵の連歌文書から新たに発見されました。次の画像は、能順写本の表紙ですが、外題は浅井政右によるものです。

 

 

 当社創健者の前田利常公により初代別当(宮司)に任ぜられた松雲庵能順は29歳から宝永3年(1706)に79歳でなくなるまで、およそ50年間にわたり当社と北野天満宮を兼職し、京都と加賀との文化交流に貢献されましたが、特記すべきは,加賀の地において多くの文化人を育て上げたことでした。能順が活躍した16世紀後半から17世紀にかけての連歌の達人は浅井政右(加賀藩士)、能順、快全(商人から天台宗僧侶)の3名(『三州奇談』)といわれますが、政右も快全も能順さんのお弟子さんです。この二人以外にも芭蕉の小松来訪とのかかわりでよく出てくる越前屋歓生や生駒万子もやはり能順さんのお弟子さんです。

 今般、新発見の能順写本は、後年加賀藩家老を務めた今枝直方の求めに応じて、初心者に連歌の作法を教示した「角田川」を、貞享3年(1686)に能順が写本し、その外題を浅井政右が揮毫したものです。また、「角田川」の成立年については文正2年(1467)と文明2年(1470)の2説がありますが、本写本は文正2年のものです。以下は、これらのことを示す跋文箇所の画像です。なお、今枝直方の義父 今枝近義は、能順と交流がありました。その最たる例は、近義は金沢から、能順は小松から、それぞれ中間地点の松任に出向いて、能順より源氏物語の講説を聞き終えたことです。

 

最終頁.jpg

 

外題を書いた浅井政右と小松とのかかわりで思い出されるのは、連歌会にはお香を絶やさないにかかわる逸話です。綿抜豊昭著『連歌とは何か』より引用して紹介します:

小松の絹屋大原屋某と申す者、絹商いに京師にのぼり、北野信仰にて一昼夜通夜し侍るに、夢となく現つとなく夜半に、天神のお帰りとて社壇俄かに賑はひ。。。仭(さて、思い当たった時に発する言葉)今宵は金沢 浅井政右方に連歌有り、その中に 「朧々と鏡ぞ聞ゆる」 という句に 「老ぬれば耳さへもとの我ならで」 という句あり。面白く今少し聞きたく侍れど香絶えぬ。依りて帰りたりと仰て社壇に入給ひぬと見て、夢さめたり。その後 加賀に帰って政右に尋ねたところ、当日の連歌会の句に夢に出てきた句があるとのことで委細を政右に話したという。それ以後、連歌席には香絶ぬように心得べきと申し合わせたり、という逸話であります。

政右と共に能順の連歌の高弟であった快全についても同様の逸話が紹介されているので、関心の各位は前掲書をご覧ください。

なお、跋文中にある依頼主の「戸部直方」ですが、今枝直方は民部とも称しました。民部の唐名が「戸部」(こぶ)であり、これより今枝直方と判明したものです。このことは、本件を取材した新聞記者の方が金沢市の玉川図書館近世史料館の学芸員の方より教示されたものです。

author:bairinnet, category:宝物紹介, 05:00
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浅野光晟書状発見の裏話
 本日の北国新聞朝刊に「利常三女 満姫嫁いだ広島藩。浅野家が贈る 小松天満宮で書状発見」として発表されましたように、近時、広島藩二代浅野光晟より富山藩初代前田利次にあてた書状が、当社初代宮司能順代の文箱より発見されました。この書状には、当社にお祀りされています小松神社御祭神加賀藩三代前田利常公の小松城御帰城を祝い、また、利次卿の慶事を祝って白熊(はぐま)五頭、蜜漬一壺、鰹節一箱 をお贈りするといった内容が記されています(記事の詳細は、本日中は当該新聞のHPからも閲覧出来ます)。ここではこの書状発見にいたる裏話を紹介いたします。
 この書状の存在自体は、昭和61年にまとめられた当社宝物目録にも宝物番号320「五月二十六日 松平安芸守より松平淡路守に与えたもの」と記載され、また、「新修小松市史資料編9(寺社)」公刊の際の当社宝物目録作成の際も文書番号68として「松平安芸守 光晟(花押)−>松平淡路守様 人々御中」として記載されていましたが、これまで誰もその内容に立ち入って調べた人はいませんでした。特に、この小松市史資料編調査目録には 松平安芸守 光晟 とまでわかっているのですから、何故、この文書の内容を調べなかったのかは不審ですが、おそらくは調査にあたった方々が、利常公の娘さんが嫁いだ先が広島藩第二代藩主松平光晟であることに気づかなかったことではなかろうかと思います。
 当社初代宮司能順の連歌資料を生涯かけて研究されたいた棚町知哉氏が逝去され、今春、その遺稿の整理のために当社連歌資料の再調査に来社された筑波大学の綿抜豊昭氏により、能順代の文箱中にあった本書状の内容を見られて、利常公の小松城御帰城祝いや白熊五頭といった興味深い記述もあるので、加賀藩文書に詳しい方に調べてもらった方がよいとの助言をいただきました。そこで社務所では、まず、文書の花押が正しいものかどうかを調べることにしました。
 下図が花押部分の画像です。



出来るだけ同時代人の方の記した花押事典的な書物を石川県立図書館にて探していましたら、水戸藩の丸山可澄著になる「続花押藪巻第二」(この本には官位ごとに花押がまとめられていて、四位の部が第二)に「浅野 源光晟」としてこれと同様の花押が記載されていましたので、花押が本人のものであることの確信が得られました。その後、先の新修小松市史調査にも参加されていた石川県立歴史博物館学芸主幹の北春千代氏と同館の塩崎久代氏に文書の内容分析をお願いして、本日の公表にいたりました。
 昭和10年前後に小松商工会の方々が日頃お世話になっている商品への感謝として商工祭開催を発願され、御祭神として郷土の殖産振興に貢献された加賀藩三代藩主前田利常公をお祀りする小松神社を金沢の尾山神社よりお迎えし、昭和12年以来、利常公が小松城入城日の6月5日に小松神社例祭小松商工祭が当社にて斎行されていますが、この例祭日を間近に控える候にゆかりの書状が発見されましたことはご縁と思い感謝しています。
 なお、本書状は 当社の宝物館公開日である9月4日午後1時から5時に公開予定であります。

author:bairinnet, category:宝物紹介, 09:35
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宝物の修理状況
 9月4日の宝物館公開にむけて、目下、宝物の修復作業が数カ所で行われていますが、石川県文化財保存工房での修復作業を見学いたしました。当社HPで紹介しています、初代宮司能順の連歌発句集「聯玉集」の修復と、初代宮司の連歌の一番弟子であり「聯玉集」の編者である歓生の発句集「新梅のしずく」写本の修復が目下行われています。このうち、春から夏の部を収録した「聯玉集 乾」の表紙の修復途中の写真が下図です。表紙の傷んだ箇所の裏打ちが終わったところです。「聯玉集」は藩政時代から余程多くの人々によって読まれたと見え、とても利用に供せない程、表紙が傷んでいましたので、今回の修復には、能順さんにも喜んでもらえるものと思います。


また、本文の修復作業も進行中でしたが、その模様を示すのが下図です。ライトボックスを使用して、痛んだ箇所に合わせて和紙を切り抜きますが、切り抜いた和紙が右下に示してあります。この切り抜いた和紙を裏打ちして、全頁の修復を行ってから、表紙に綴じ込みます。作業はようやく半分まで進んだところです。それにしても、この切り抜き作業は目を酷使し、根気のいる作業で、若い人でないと無理とのことでした。


 歓生は、元禄2年7月26日に芭蕉を自宅に招いて句会を開催し、その折りに芭蕉の詠んだ句が「ぬれて行くや人もおかしき雨の萩」です。この歓生の発句集「新梅のしずく」の散逸するのをおそれた当社七代宮司順承による写本の修復過程で判明したことがあります。本文用紙が2種類の綴じ方で綴じられていたことが判明しました。一つは「胡蝶装(こちょうそう)」と呼ばれる綴じ方であり、もう一つは「袋綴じ」とよばれる綴じ方です。これは今回、バラしてみて初めて判明したことでした。
 



author:bairinnet, category:宝物紹介, 20:12
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