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当社宝物が大々的に歴博で公開されています:得がたい機会ですのでお出かけ下さい

 これまで数十年間にわたり斎行されてきました当社宝物館公開にお越しいただいてきました多数の崇敬者各位にお知らせします。今年の当社宝物館公開は、金沢市の石川県立歴史博物館に場所を移して、来る11月4日(10月7日は休館)まで開催されています。当社宝物館より大きな展示場所で、また、北野天満宮や公益財団法人前田育徳会や金沢市内の社寺からの出品とも関連づけて当社宝物の意義の理解がすすむように展示されていますので、是非とも会期中にご覧ください。ここでは5点ほど紹介いたします:

 

1)当社創建の源流(展示番号41番、44番)

 

 戦乱の世では一国一家の団結が乱世を生き延びるのに重要になりましたが、それとともに盛んになった文芸に連歌があります。とりわけ、天神様は連歌をお好みになるとの信仰が盛んになり天神様に願意をお届けする際に連歌を添えて祭典をおこなうことが室町時代から幕末にかけておこなわれました。当社初代宮司能順の父 能舜は北野天満宮と徳川将軍家との仲立ちの役割をにない、能舜宛の徳川秀忠書状(写し)が当社に残されています。

     

 

展覧会では、北野天満宮蔵の秀忠書状が展示(展示番号41)されています。

三代利常公の奥方は将軍秀忠の娘さんである珠姫ですが、三男五女をお産みになられた後に、体調を崩されました。そのため、利常公は能舜に祈祷をお願いしましたが、その礼状が当社に残され、展示(展示番号44)されています。また、今回の歴博での展示にあわせて作成されました図録の126頁に、綿抜豊昭氏による詳細な説明文が掲載されていますので是非ご覧ください。

 

これらより、当社創建の源流に徳川家、前田家と北野天満宮との関わりがあり、初代宮司に能舜子息で連歌の名士とうたわれていた能順が招かれた由縁をものがたる展示です。

 

 2) 北野天満宮社殿の四分の一造営(展示番号34番、35番)

 

初代宮司能順が元禄十六年に藩に提出した由緒書ほかの古文書に、当社社殿が北野宮の四分の一にして建造されていると書かれていましたが、その具体的なことは不明でした。

      

 

 

今から30年ほど前の昭和63年(1988)発行の「小松天満宮だより」第4号に宮 誠而氏が一文を寄稿しました。北野天満宮の現社殿は豊臣秀頼造営になるものですが、現社殿をそのまま四分の一にしたのでは、あまりに小さな社殿になってしまうので、現社殿の両楽の間を取り去った後の社殿を四分の一にしたものであるとの推論を発表され、それにもとづき計算した結果、当社社殿が四分の一になっていることが確かめられました。ただ、創建当時、両楽の間を取り去った理由が、恣意的なもので実体に対応したものでないことを利常公らがご存知の上で建造されたのかどうかは不明のまま課題として残されました。

 その後、前 久夫氏による『寺社建築の歴史図典』(2002発行)において北野天満宮の「拝殿の両脇に、さらに楽の間がとりついでいるが、これは元はなく慶長再建時の付加である」ことが明らかにされました。

 今回の展示ではこのことを証する図面が2点北野天満宮より出品されました。展示番号35番「北野・東山遊楽図屏風」には、秀頼により造営の現在の社殿(両楽の間付き)が描かれています。これに対して、展示番号34番「北野社頭図屏風」には両楽の間がなく、これが秀頼造営前の北野社社殿の図であることがわかります。

 

3)当社創建時奉納の「紅梅図額」(展示番号65)

 

 これは、前田長知(孝記)主水により、明暦3年(1657) 当社創建時に奉納された「紅梅図額」です。前田長知は、守山城及び小松城において利常公の傅役(もりやく)を務めた前田長種の孫にあたる方であり、加賀藩4代藩主前田光高卿に仕えた方です。

 

 

当社奉納の絵馬に描かれているのは白梅が多く、紅梅は珍しい図柄です。今回の歴博展示番号15に前田育徳会より元応元年(1319)作「重文 荏柄天神絵巻 上巻」(10月6日まで、10月8日以降は中巻が展示)より菅公左遷時に菅公が京都亭の紅梅に別れをつげる「紅梅別離」の場面が描かれています。 

 当社創建年の明暦3年(1657) が利常公と珠姫の長男で加賀藩四代藩主光高卿の13回忌にあたることと、奉納者が光高卿に仕えた方であったことを考え合わせますと菅公ゆかりの別れの紅梅図奉納によりご冥福を祈られたのかもしれません。

 

4)「北野梅鉢鏡額」のパネル展示(展示番号66)

 

 

 これは小松馬廻組の生駒頼母宗通により奉納したもので、銀色の彩色を施した円形の木版に六枚の鏡を嵌めこみ北野梅鉢の形を表した額です。経年劣化により色がくすんでいますが、奉納当初は金銀の色鮮やかな額であったろうといわれています。創建当初の当社奉納品や建物には、剣梅鉢紋は唯一、神門の金沢城側につけられているのみで、神門の小松城側には軸梅鉢紋と剣がついていません。一国一城制の例外として認められた全国12の城のうち、小松城のみが大坂夏の陣以後に文化の城として改築されています。文化立国の願いをこめての当社創建でしたから、剣のない梅鉢紋は当社創建にはふさわしい奉納といえます。

 『加賀藩史台』によれば、生駒頼母の祖父 吉田直元は織田信長公に仕えて、永禄7年信長公の侍女を娶り、長男直勝を授かりました。直勝7歳の折に信長公の近習となり、生駒直勝と名を改めた。生駒直勝はその後、豊臣秀次、加藤嘉明、織田信雄に仕えた後、加賀藩二代、三代につかえました。直勝は織田信雄の娘を娶り、二人の間に長男直方と次男頼母が生まれた。次男頼母は、加賀藩四代藩主光高卿に仕えて1000石を食んでいたが、光高卿の没後、家を絶ち、長男直方が後を承けたとかかれています。

 

5)天満宮書幅(展示番号99番の参考パネル展示)

 

今回の歴博での展覧会がなければ、見捨てられていた当社宝物です。

これまで当社には、新修小松市史編纂事業等のための各種調査がなされましたが、全く関心のもたれなかった書であります。

 

 

この書は菅原一家秘伝のもので、菅公の代より一人だけ嫡嫡相伝してきたもので、第6代の三日翁日徳により天保4年(1833)に書かれたものです。神仏習合時の資料はほとんどが破却ないし散逸したとされていましたが、数十年前にまかれた紙状で発見され、現宮司により軸装されていたものです。ただ、北野天満宮社務所殿にお尋ねしても不明のため、日の目をみないままでした。

 ところが、今回の歴博展覧会の準備で調査中の学芸員の方により、同一の作者により天保10年(1839)にかかれた書をもとにした「天満宮扁額」が金沢市の泉野菅原神社殿に収蔵されていることが判明したのです。この額は、北野天満宮目代家(春林坊)において81歳の三日翁菅原道日徳が、一週間(十一月五日から十一日まで)修別火浴場潔斎して書いた書を、加賀本藩において定番御馬廻組番頭を勤めていた神戸盛雄が入手し、加賀の名工・武田友月に彫らせて奉納したものであり、立派な額です。

 当社蔵の書は、三週間潔斎して書かれたものであり、より複雑かつ個性的な書となっていますので、是非 見比べてみてください。ちなみに、雨文字や蛇文字や宝珠に加えて、当社蔵の書には、観音信仰ゆかりの長谷寺などの扁額に出てくる鳩文字が書かれているのが特徴です。

 

author:bairinnet, category:宝物紹介, 12:34
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石川県立歴史博物館における展覧会のご案内

 

来る9月14日より11月4日の間、石川県立歴史博物館において、「加賀前田家と北野天満宮展」が開催され、その中で、当社創建の意義や加賀藩三代前田利常公により初代別当に任ぜられた松雲庵(梅林院)能順の人物像を中心に、当社宝物も多数展示されます。展覧会については、歴博のHPをご覧ください:

https://ishikawa-rekihaku.jp/special/special_top.php?cd=2019080201

 

ここでは次の歴博のポスター裏面に丸印をつけてある展示品について紹介します。緑色の丸印で囲まれているのは、菅公800年祭(元禄15年、1702年)に加賀藩5代藩主松平加賀守(前田綱紀)により北野天満宮に奉納された「太刀 銘 恒次」です。作者の備中青江恒次は、後鳥羽院の御番鍛冶の一人です。安徳天皇の後に天皇になられた後鳥羽天皇は、神剣が安徳天皇入水とともに失われたことをいたく悔やまれ、自ら刀剣作りに挑まれ、そのために全国から名工といわれる刀鍛冶を呼び寄せて刀剣を鍛える相鎚方を務めさせました。天皇のおそば近くで奉仕する刀鍛冶には官職を与えられたため、我が国の刀工の地位は高く、世界的にみても大変珍しい存在になったのは、ひとえに後鳥羽院のおかげといわれています。北野天満宮宮司職の松梅院とともに、内陣に加賀守様御寄進のこの太刀を奉納したのが、当社初代宮司松雲庵(梅林院)能順でありました。北野天満宮内陣に入っての奉納は、能順一代限りとして特別に認められてのことでした。

 赤丸印で囲ったのは、前田長知(孝記)主水により、明暦3年(1657)当社創建時に奉納された「紅梅図額」です。前田長知は、守山城及び小松城において利常公の傅役(もりやく)を務めた前田長種の孫にあたる方であり、加賀藩4代藩主前田光高卿に仕えた方です。天満宮に奉納される梅花の絵柄は白梅がほとんどであり、紅梅の絵柄は大変珍しいものです。

 

 前田家による5本の刀剣奉納のうち、最後の刀剣奉納は、昭和2年斎行の菅公1025年祭に当時の前田家16代当主侯爵前田利為様により奉納されたものです。加賀藩三代藩主前田利常公をお祀りする小松神社は昭和1265日に金沢市の尾山神社より宮渡りされました。6月5日の遷座慶賀祭には代理として侯爵令嗣利建様が参列されましたが、その数日後に当社に正式参拝された時のお写真です。利為様は当時、陸軍大学校校長の職にあり、この後の昭和12年8月には第8師団長、昭和17年にボルネオ守備軍司令官に親補されるも、同年9月、57歳にて現地において殉職されました。5代綱紀卿らにより収集のなだたる古書や名品をあつめた「尊経閣文庫」と、その維持管理にあたる「前田育徳会」を設立するなど伝統文化の保存・継承に尽くされた方であります。今回の展覧会には前田育徳会より多数出品されています。

 

 

author:bairinnet, category:宝物紹介, 20:27
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白山長吏家墓地を訪ねて

 当社に奉納収蔵されてきた古文書類は、長年にわたり故人となられた国文学研究資料館 棚町知弥氏とその後を継がれた筑波大学 綿抜豊昭氏により調査や目録作りや翻刻が続けられてきています。古文書を書かれた方々のお名前をみながら、お互いの関連や奉納の背景調査やゆかりの古文書やゆかりの地を訪ねることを社務所としては行ってまいりました。

 そうした古文書の一つに、「天神御連歌一代記」(寛政4年(1792)4月、能慮弟常丸写・1冊)があります。能慮とは、天明6年(1786)から文政4年(1821)の間、当社宮司を務めた梅林院五世能慮のことであり、能慮が伝えたことを書き記した『連歌之伝書』(金沢市立図書館蔵)があります。

他方、白山比弯声卅兔第2 「長吏日記」には、白山7社惣長吏 澄令の後を継いで白山7社惣長吏になったのが 澄固であること、澄固は小松梅林院四世由順の子であり、梅林院五世能慮の弟であると記載されている。澄固が継職した年が文政元年(1818)逝去したのは弘化2年(1845) 67歳とありますから、逆算すると常丸が「天神御連歌一代記」を書き記したのは、およそ14歳頃となります。常丸が白山惣長吏家に養子にゆくにはそれなりの理由があるが、本ブログの終わりまでには明らかになるのでお待ちいただきたい。

 幕末までの藩政期、白山本宮(現在の白山比弯声)を統括する長吏は、白山七社惣長吏を兼帯して、代々、「澄」の字を継いで世襲制で勤めていました。

 過日、白山比弯声劼凌誠Δ気鵑飽篤發靴討い燭世い毒鮖劃考家の墓地を訪れてきました。白山7社惣長吏を勤めた方といえば、かなりの数の方々がおられるのですが、文字がよめて現存する墓標は2基だけでした。

図1は長吏家墓地の全景です。

赤線で囲ってある墓石、没年が享保10年(1725)とよめますが、お名前の文字は「澄意」のようによめます。インターネット検索で白山7社惣長吏と検索して出てくる唯一の惣長吏が「澄意」で、この方は、越前藩と加賀藩で争った白山争議に関して、京都朝廷から白山山頂神祠再興の勅許を受けてきたことで、加賀藩五代藩主綱紀卿から褒美等を頂戴した惣長吏です。時は、寛文6年(1666)ですから、没年時のこの方の御年がわからないと、この方であるとは断定できません。

これに対して青線で囲った墓石は、割れてひどい状態ですが、澄盛、天明3年2月22日とよめます。没年月日からも、白山惣長吏 澄盛の墓石であることがわかります。

 

澄盛には3人の子供がいて、長男が次(澄盛を第一代とすると第二代)の惣長吏の澄昌、次男が第三代の惣長吏の澄令、もうひとりが娘さんで、この方が梅林院第四世由順の奥さんになった方です。由順には男の子が二人いて、長男が梅林院第五世の能慮、次男が常丸です。 この常丸が、第三代惣長吏 澄令の養子になり、第四代惣長吏になった澄固であります。ただ、澄固の墓石とわかるようなものは見当たりませんでした。

 明治維新後の神仏分離時の混乱期に長吏家の関係のものはなくなり、この2基の墓石は後年再建されたもののようですが、長吏家の墓地のため、維持管理が難しく、この時期に調査さしていただいてよかったというのが感想です。

author:bairinnet, category:宝物紹介, 16:03
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宗祇「角田川」の能順写本(貞享3年)の新発見

 応仁の乱勃発後の文正2(1467)弥生3月に関東下行中の宗祇が、連歌に関する質問に答える形で著した文書に「角田川」(吾妻問答)があります。これの能順写本が、長年にわたり当社の連歌文書を調査・研究している筑波大学の綿抜豊昭氏により当社蔵の連歌文書から新たに発見されました。次の画像は、能順写本の表紙ですが、外題は浅井政右によるものです。

 

 

 当社創健者の前田利常公により初代別当(宮司)に任ぜられた松雲庵能順は29歳から宝永3年(1706)に79歳でなくなるまで、およそ50年間にわたり当社と北野天満宮を兼職し、京都と加賀との文化交流に貢献されましたが、特記すべきは,加賀の地において多くの文化人を育て上げたことでした。能順が活躍した16世紀後半から17世紀にかけての連歌の達人は浅井政右(加賀藩士)、能順、快全(商人から天台宗僧侶)の3名(『三州奇談』)といわれますが、政右も快全も能順さんのお弟子さんです。この二人以外にも芭蕉の小松来訪とのかかわりでよく出てくる越前屋歓生や生駒万子もやはり能順さんのお弟子さんです。

 今般、新発見の能順写本は、後年加賀藩家老を務めた今枝直方の求めに応じて、初心者に連歌の作法を教示した「角田川」を、貞享3年(1686)に能順が写本し、その外題を浅井政右が揮毫したものです。また、「角田川」の成立年については文正2年(1467)と文明2年(1470)の2説がありますが、本写本は文正2年のものです。以下は、これらのことを示す跋文箇所の画像です。なお、今枝直方の義父 今枝近義は、能順と交流がありました。その最たる例は、近義は金沢から、能順は小松から、それぞれ中間地点の松任に出向いて、能順より源氏物語の講説を聞き終えたことです。

 

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外題を書いた浅井政右と小松とのかかわりで思い出されるのは、連歌会にはお香を絶やさないにかかわる逸話です。綿抜豊昭著『連歌とは何か』より引用して紹介します:

小松の絹屋大原屋某と申す者、絹商いに京師にのぼり、北野信仰にて一昼夜通夜し侍るに、夢となく現つとなく夜半に、天神のお帰りとて社壇俄かに賑はひ。。。仭(さて、思い当たった時に発する言葉)今宵は金沢 浅井政右方に連歌有り、その中に 「朧々と鏡ぞ聞ゆる」 という句に 「老ぬれば耳さへもとの我ならで」 という句あり。面白く今少し聞きたく侍れど香絶えぬ。依りて帰りたりと仰て社壇に入給ひぬと見て、夢さめたり。その後 加賀に帰って政右に尋ねたところ、当日の連歌会の句に夢に出てきた句があるとのことで委細を政右に話したという。それ以後、連歌席には香絶ぬように心得べきと申し合わせたり、という逸話であります。

政右と共に能順の連歌の高弟であった快全についても同様の逸話が紹介されているので、関心の各位は前掲書をご覧ください。

なお、跋文中にある依頼主の「戸部直方」ですが、今枝直方は民部とも称しました。民部の唐名が「戸部」(こぶ)であり、これより今枝直方と判明したものです。このことは、本件を取材した新聞記者の方が金沢市の玉川図書館近世史料館の学芸員の方より教示されたものです。

author:bairinnet, category:宝物紹介, 05:00
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浅野光晟書状発見の裏話
 本日の北国新聞朝刊に「利常三女 満姫嫁いだ広島藩。浅野家が贈る 小松天満宮で書状発見」として発表されましたように、近時、広島藩二代浅野光晟より富山藩初代前田利次にあてた書状が、当社初代宮司能順代の文箱より発見されました。この書状には、当社にお祀りされています小松神社御祭神加賀藩三代前田利常公の小松城御帰城を祝い、また、利次卿の慶事を祝って白熊(はぐま)五頭、蜜漬一壺、鰹節一箱 をお贈りするといった内容が記されています(記事の詳細は、本日中は当該新聞のHPからも閲覧出来ます)。ここではこの書状発見にいたる裏話を紹介いたします。
 この書状の存在自体は、昭和61年にまとめられた当社宝物目録にも宝物番号320「五月二十六日 松平安芸守より松平淡路守に与えたもの」と記載され、また、「新修小松市史資料編9(寺社)」公刊の際の当社宝物目録作成の際も文書番号68として「松平安芸守 光晟(花押)−>松平淡路守様 人々御中」として記載されていましたが、これまで誰もその内容に立ち入って調べた人はいませんでした。特に、この小松市史資料編調査目録には 松平安芸守 光晟 とまでわかっているのですから、何故、この文書の内容を調べなかったのかは不審ですが、おそらくは調査にあたった方々が、利常公の娘さんが嫁いだ先が広島藩第二代藩主松平光晟であることに気づかなかったことではなかろうかと思います。
 当社初代宮司能順の連歌資料を生涯かけて研究されたいた棚町知哉氏が逝去され、今春、その遺稿の整理のために当社連歌資料の再調査に来社された筑波大学の綿抜豊昭氏により、能順代の文箱中にあった本書状の内容を見られて、利常公の小松城御帰城祝いや白熊五頭といった興味深い記述もあるので、加賀藩文書に詳しい方に調べてもらった方がよいとの助言をいただきました。そこで社務所では、まず、文書の花押が正しいものかどうかを調べることにしました。
 下図が花押部分の画像です。



出来るだけ同時代人の方の記した花押事典的な書物を石川県立図書館にて探していましたら、水戸藩の丸山可澄著になる「続花押藪巻第二」(この本には官位ごとに花押がまとめられていて、四位の部が第二)に「浅野 源光晟」としてこれと同様の花押が記載されていましたので、花押が本人のものであることの確信が得られました。その後、先の新修小松市史調査にも参加されていた石川県立歴史博物館学芸主幹の北春千代氏と同館の塩崎久代氏に文書の内容分析をお願いして、本日の公表にいたりました。
 昭和10年前後に小松商工会の方々が日頃お世話になっている商品への感謝として商工祭開催を発願され、御祭神として郷土の殖産振興に貢献された加賀藩三代藩主前田利常公をお祀りする小松神社を金沢の尾山神社よりお迎えし、昭和12年以来、利常公が小松城入城日の6月5日に小松神社例祭小松商工祭が当社にて斎行されていますが、この例祭日を間近に控える候にゆかりの書状が発見されましたことはご縁と思い感謝しています。
 なお、本書状は 当社の宝物館公開日である9月4日午後1時から5時に公開予定であります。

author:bairinnet, category:宝物紹介, 09:35
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宝物の修理状況
 9月4日の宝物館公開にむけて、目下、宝物の修復作業が数カ所で行われていますが、石川県文化財保存工房での修復作業を見学いたしました。当社HPで紹介しています、初代宮司能順の連歌発句集「聯玉集」の修復と、初代宮司の連歌の一番弟子であり「聯玉集」の編者である歓生の発句集「新梅のしずく」写本の修復が目下行われています。このうち、春から夏の部を収録した「聯玉集 乾」の表紙の修復途中の写真が下図です。表紙の傷んだ箇所の裏打ちが終わったところです。「聯玉集」は藩政時代から余程多くの人々によって読まれたと見え、とても利用に供せない程、表紙が傷んでいましたので、今回の修復には、能順さんにも喜んでもらえるものと思います。


また、本文の修復作業も進行中でしたが、その模様を示すのが下図です。ライトボックスを使用して、痛んだ箇所に合わせて和紙を切り抜きますが、切り抜いた和紙が右下に示してあります。この切り抜いた和紙を裏打ちして、全頁の修復を行ってから、表紙に綴じ込みます。作業はようやく半分まで進んだところです。それにしても、この切り抜き作業は目を酷使し、根気のいる作業で、若い人でないと無理とのことでした。


 歓生は、元禄2年7月26日に芭蕉を自宅に招いて句会を開催し、その折りに芭蕉の詠んだ句が「ぬれて行くや人もおかしき雨の萩」です。この歓生の発句集「新梅のしずく」の散逸するのをおそれた当社七代宮司順承による写本の修復過程で判明したことがあります。本文用紙が2種類の綴じ方で綴じられていたことが判明しました。一つは「胡蝶装(こちょうそう)」と呼ばれる綴じ方であり、もう一つは「袋綴じ」とよばれる綴じ方です。これは今回、バラしてみて初めて判明したことでした。
 



author:bairinnet, category:宝物紹介, 20:12
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