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玉泉院丸再訪:画竜点睛を欠くのは残念なるも金沢城公園の魅力は確実に向上

  本ブログで平成2353日号と57日号の2回にわたり「玉泉院丸と作庭記」について紹介してから4年後の今月25日、新装開園した玉泉院丸庭園」を再訪する機会をえました。玉泉院丸庭園の現在の案内図を平成23年当時掲示されていた絵図面と同様の角度にして表示してみたのが画像1です。


右手方向に三十間長屋がみえます。画像2は、平成23年当時に遠望した滝口ですが、



同様の角度での現在の遠望が画像3です。


説明看板より、平成20年から24年までの発掘調査や江戸時代末期の詳細な絵図面等をもとに、確認された遺構の上に約2mの盛土をして庭園を再現したことがわかります。池に3つの中島をうかべて、周囲を園路で結ぶ池泉回遊式庭園です。画像4の茶丸印は平成23年ブログにて「お亭跡」と紹介したものです。


現在、そこは、画像5の赤丸印のように保存されています。



近くに画像6の説明板が新設されました。


休憩所の観光案内人の方の説明では、藩政期お茶室用の井戸として使用されていたとのことです。平成23年当時、この井戸からは滝口が見えませんでした(画像7)。


ブログで指摘させていただいたことの効果でしょうか、現在は、邪魔していた樹木の伐採等がなされて滝口がよく見通せるようになりました。

 作庭記の代表的な遺構である平泉の毛越寺は長年にわたる遺構発掘調査にもとづいて遣水も復元され、池の水もきれいに保持されています。ここ玉泉院丸の遣水がどのような遺構調査成果にもとづいて造成されているのか不明ですが、案内所の方のお話では、池の水は循環再利用されているようです。ただ、池の出口が池の中央付近にあることと池水の栄養塩処理が行われていないとすると、現在でもよどみに藻類が発生しているようですから夏場にかけて水質が悪化するのではないかとの危惧をもちました。

 大変よく整備されて新装開園した玉泉院丸庭園ですが、一つ残念なことは、滝口が使用されていないことです。寛永11年に小堀遠州配下の剣左衛門に命じて、この庭園を造成された第3代藩主利常公は、それ以前に二ノ丸庭園を造成されていて、この二ノ丸庭園からの流水が滝口を「離れ落ち」の仕様にて池に流れ落ちていたと考えられています。現在、この二ノ丸跡は画像8の示すように広い空地や樹林地になっていて、もちろん庭園も復元されていませんから、流水も滝口には流れ込めません。

ただ、滝口の下方から池に向かって、発掘調査の成果を踏まえて「段落ちの滝」が復元されていて、これは見事な造作といえます。画像9は「段落ちの滝」が池に流れ込む模様を示しています。


画像10は説明板です。



ただ、本ブログの副題に「画竜点睛を欠く」とさせていただいたのは、坪野石製のV字形滝口が画像11の示すように、使用されないためと土砂が溜まったために草が生えていることです。


休憩所の観光案内人の方方のお話では、滝口下の石垣でしょうかの掃除をもされているようですが、これらの方方に草を取って頂くことは危険ですので、お願いしているのではありません。やはり、何か、この滝口から「離れ落ち」の方法にて水を流す策を考えて頂きたいとの願いから「画竜点睛を欠くのは残念なるも」とさせていただきました。
 ただ、この玉泉院丸庭園の利用開始にともなって金沢城公園の利便性は格段に向上しました。これまで金沢城公園といえば、石川門から金沢城公園に入ることが多かったのではないでしょうか。ところが、玉泉院丸庭園を鑑賞し、仰ぎ見る石垣群を眺めながら苑路に導かれて上がってゆくと二の丸広場に出、そこから本丸緑地の植生観察や鶴丸倉庫の見学などをして、三の丸広場にでて三御門を見学して石川門から兼六園側に出て、茶店で休憩してから兼六園に入るというコースが充実していることです。玉泉院丸庭園の完成により高低差を利用した金沢城公園周遊路が可能になったことが観光客の利便性を高めるのに貢献していると思います。

 

author:bairinnet, category:玉泉院丸, 15:12
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玉泉院丸と作庭記(2)
 金沢城内の詳細図として最も初期の絵図面に、「加賀国金沢之絵図」(寛文8年、1668)があります。これを拝見しようと金沢市立玉川図書館に出向きましたが、大部な地図であることと事前予約が必要とのことでしたので、かわりに関連する地図を探していましたら、年代不詳ですが、文政4年(1821)に新築された御武具奉行所御土蔵が書かれていますから、その頃作成されたとおもわれる「玉泉院丸絵図」(手写絵図1枚)がありました。この図には前回とりあげました案内看板に示す「御城中壱分碁絵図」では明瞭でなかった「お亭」が紅葉橋の近くに存在することが明確に記されていました。下図は、紅葉橋たもとの案内看板図です。


 黄緑の丸印で囲んである建物が、宝形造りのお亭(ちん)(東屋)です。四方が開放的な建物でここに腰掛けて庭を鑑賞したものと思われます。このお亭の位置は遣水の腹にあたる部分に立地していますから、「作庭記」の記述に合致しています。そこで、ここから見える瀧口のおおまかな方位を計測してみることにしました。そのために、木の紅葉橋を取り去って水路を埋めた時に築かれたと思われる石積み(と階段状の構造物)を参考にして橋の長さと橋からお亭までの長さをおおまかに計測してお亭の位置を同定してみることにします。そのために、下図の案内看板を参考にしてみます(記号等は本ブログ用に挿入)

まず、絵図上の橋の長さは案内看板上の記号A-Bで約6センチ、橋の袂からお亭までの距離(看板上の記号C-D)で約8センチ。下図は橋のあったところに築かれたと思われる石積みです。



この石積みと階段状の構造物を参考にして橋の長さを歩数ではかり、絵図の比率を掛けて、橋のたもとからのお亭の位置を推定しますと、下図のコンクリの丸柱(茶色の丸印で表示)あたりです。

ここから滝口方面を見て方位をはかりたいのですが、樹木が邪魔して滝口が見えません。それでも滝口あたりと思われる方向を定めて方位をはかってみました。その状況を示すのが下図です。


方位は磁北からおよそ東へ97度です。国土地理院HPで調べた現在の偏角は西偏7度30分です。玉泉院丸の案内看板に示す「御城中壱分碁絵図」上に方位を示してみたのが下図です。

お亭からみて滝口はほぼ真東にあります。絵図の作成された江戸後期がいつをさすか明かでありませんが、地図センターHPに示す「日本の偏角の永年変化」によれば、1820-40年代の偏角は西偏1-2度ですので、ほぼ真東近くとみてよいと思います。東から南にまわして南西に出せば「作庭記」の遣水にあっていると思いますが、排出口が不明ですので何ともいえません。また、前回のブログで説明した滝口の石材である坪埜石(色は黒色)は、本来は北側に使用される色彩ですが、相生の理からいって東側にも使用されることは「作庭記」の記載にもあっています。
 作庭記には、瀧石の組み方は、瀧の正式な鑑賞方向にそって行うとして詳細な石組の説明があります。お亭からは滝は左方からみることになりますが、瀧口の右側と左側の脇石や避き石が作庭記の仕法に沿って組み立てられていたのかは、いまだ明らかにされていません。

 





author:bairinnet, category:玉泉院丸, 19:52
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玉泉院丸と作庭記(1)
  寛文6年(1666)江戸前期の儒医であった野間三竹は自分の本に、加賀藩五代藩主松平綱利が九条良経の書いた「作庭記」を所持しており、また、藩主の侍読である木下順庵もこの「作庭記」を所持している、と書いた。1666年といえば、利常公が没してから8年後のことであり、小松城の作事には「作庭記」によるとおもわれる箇所が多々みられるから、「作庭記」はもともと利常公が所持していたものと推定されます。問題は、いつから所持していたと考えられるかです。そこで登場するのが、今回訪問する「玉泉院丸」です。4月25日ブログで紹介したように、遠州配下の剣左衛門を招いて玉泉院丸の庭園を造営したのは寛永11年(1634)、小松城の造成は藩主を退いた寛永16年から逝去の万治元年(1658)まで続きますが、これ以前のことです。この玉泉院丸庭園は幕末まで存続しますが、藩政期中にかなりの改造がされている。案内看板(玉泉院丸の来歴)によれば、寛文元年(1661)に「厩を建設し、池を掘る」、元禄元年(1688)に「千宗室に御亭や露地の整備を指示(厩を撤去し、花壇を整備)などです。この来歴によれば、現在、発掘が進められている池も寛永11年当時のものでないかもしれない。それゆえ、寛永11年造成時庭園が「作庭記」の影響をうけているかどうかは不明というのが結論です。しかし、せっかく訪問したのですから、もう少し考察してみます。
 玉泉院丸の詳細な絵図面としては、江戸後期に作成された「御城中壱分碁絵図」(江戸後期)が案内看板に表示されているので、これに示す庭園の様子が「作庭記」の記述と関わりをもつかどうかを見てみることにします。
 作庭記との関わりで注目すべきは遣水の水口と排出口の位置です。水口として現存していますのは、上図で「色紙短冊積み石垣」とかかれている箇所です。絵図面の「現在地」とかかれているところには、滝の水の流れ落ちるV字石があるところです。下図がその画像です。



「作庭記」の「瀧石の組み方」という項目の中に、瀧の落ち方の種類がかかれていますが、その中に「離落(はなれおち)}という落とし方がありますが、それに似ています。作庭記には、「瀧はおもひがけぬ岩の狭間などより、おちたるようにみえぬればこぐらくこころにくい」とあり、また、「のどみゆるところには、よき石を水落の石のうえにあたるところにたてつれば、とおくては、岩の中よりいづるようにみゆるなり」とあります。これにより、思いがけない岩の間から、周囲の石垣とは異なる色のV字形の石を用いて落としているのは、これに沿っているようにも見えます。このV字石にはほかにも「作庭記」との関わりがありますが、下図はこのV字石の遠景画像です。

さて、V字石ですが、これは当社の十五重塔と同じ坪埜石(坪野石)で出来ており、色は黒色です。「作庭記」には「瀧と不動明王」の項目にて、「瀧は三尺になれば皆我が身也、ましてや。。。一丈二丈の瀧はいうまでもない」とあります。一丈とは十尺ですから、玉泉院丸の瀧は一丈二丈の瀧となります。また、不動明王の 忿怒の感情は黒色ないし青黒色で表されるといいます。ただ、作庭記には「不動明王ちかひてのたまわく。。。。必ず三尊にてあらはる」とあります。これについて、水落石と左右の脇石によって流れる瀧の水そのものが不動明王といわれますから、当時の滝口模様が現在のものであるとすると、ここの瀧は不動明王を意識したものとは思えません。
 「作庭記」の特徴は遣水にありますが、水口が瀧口だとしても排出先が不明です。公園管理事務所にお尋ねしたところ、場内の水の流れを示した絵図はあるそうですが、公開していないのと、発掘調査がすまないと確かなことはいえないとのことでした。
 「作庭記」との関わりを見る為に、必要なことには「鑑賞場所がどこか」という問題があります。寝殿造りの庭園なら、寝殿(正殿)から庭園を見る形で作庭しますが、ここの鑑賞場所はどこになるでしょうか?これには、もうすこし詳細な絵図面を見なければなりません。
author:bairinnet, category:玉泉院丸, 07:18
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