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幻の『加越能楽』4号入手し、当社能舞台の謎、解明さる

 

 本ブログでは、平成25年に、能舞台について3回紹介しています。平成25年2月12日号、5月11日号、5月15日号の3回です。当社能楽堂は、明治29年10月16-17日に舞台開興行が開催されました。その後、昭和10年頃の梯川河川改修にて、建立時の社殿前方あたりから、西方に移築されました。平成の河川改修により、平成25年に能楽堂の本舞台のみが明治の建立時の故地に再度移築されたものです。平成25年の再移築は、土地制約等により、本舞台のみを故地に移築したものです。2月12日号のブログは平成25年の再移築前のものであり、5月11日号、5月15日号のブログは、移築工事中や工事竣工後のブログであります。

 移築工事中に当社能楽堂の上棟の棟札(図1)が発見されました。上棟祭の年月が明治27年5月であったことがわかります。

 

 

             当社能楽堂の来歴は、2月12日号と5月15日号 の本ブログでも紹介しましたが、再掲してみます。

     昭和47年に出版された『金沢の能楽』(梶井幸代・蜜田良二著)中に、廃藩置県後の金沢において流行し、泉鏡花も見たという、今様能狂言一座、特に、泉祐三郎一座の使用した舞台についての以下の記述(梶井・蜜田著、236頁)に基づいています:

 

「泉祐三郎座の舞台は、もと、波吉家の舞台であったというから、波吉一家が、明治二十年上京したとき移されたものであろうか。。。。 今この今様の舞台は、小松の梯天神社へ移されている。小松では移築の工事半ばで日清戦役がおこり、雨ざらしで放置されたのを修築して明治二十九年舞台開きをしたということである。」 この文中、梯天神社とは、明治維新後に「天満宮」等の「宮」の使用が制限された折に、使用されていた社号の一つであります。

 

       昭和62年3月に公表された『加賀 小松天満宮と梯川』(小松天満宮等専門調査報告書)中の「小松天満宮の建築」(田中俊之著)は、金沢からの全面的移築説に以下のように疑問を投げかけています。

 

「能舞台の背景の松の壁画は、当時金沢から東京へ移住するために屋敷内の能舞台を取りこわす事にした金沢市の野町の某家の能舞台の壁画を譲り受けたものと伝え、見事な松の絵である。一説には、能舞台ではなくて、芝居興行などに使われたものをそのまま譲り受けて移築した為に、寸法的には通常の能舞台と異なって小さいのであると云われている。しかし、寸法的には舞台間口は三間あり、奥行も十六.五尺に九尺と極く普通の大きさであるので、芝居興行の舞台とは考えられない。。。。又現在桟瓦葺きの屋根の下に杮葺の軒付が残っており、金沢から軒付を付けたままで運ばれたとは考えにくい。」

 

       今回の移築を担当した宮大工さんによれば、金沢からの移築となれば全部バラして移築するし、この軒付は移築したものではない、として、田中説に同調しています。

 

       『金沢の能楽』(梶井幸代・蜜田良二著)の当社にかかる箇所の引用文献とされているのが、『加越能楽』第4号です。この雑誌は、金沢市立図書館には所蔵なく、石川県立図書館は所蔵するも第4号は欠落していました。また、明治29年の当社能楽堂の舞台開に出演している佐野吉之助が明治33年に建立した佐野能楽堂を引き継ぐ石川県立能楽堂にも所蔵していないということでした。

 

    小松天満宮社務所では長年にわたり『加越能楽』第4号を探してきましたが、幸いにも過日、金沢の古書店より購入することが出来ました。下図はその表紙の画像です。

 

 

         昭和24年8月5日発行第4号9月号の目次は以下の通りです:

 

月並能解説             佐野安彦

謡方講座(羽衣)            同

謡方手引

能、謡の術語            松内 省

能芸術の魅力−世阿弥における美と自由の精神−

                    川口久雄

屑籠                 座 吟

能登能楽と古文書        八田健一

大野湊の御神事能        清水九璋

水邊の草

東京だより

小松梅林院の舞臺開     魚住弘英

各社消息

 

       この魚住弘英氏による小論が長年探し求めていた論文であります。本論は前半に当社の能舞台の説明があり、後半に舞台開能番組の紹介があり、最後に短い結びの文の3部からなっています。舞台開能番組は額装されて当社宝物になったものがあり、その内容は既知でありますので、ここでは前半部と結びの文を紹介させていただきます:

 

        小松梅林院の舞臺開     魚住弘英

「小松梅林院は梯天神様とも称え小松城の東北梯川の畔に在り中納言(前田利常卿)がお城の鬼門除として造営致され境内は京都北野天満宮に模し当時京都から連歌の名師梅林能順師をまね来て別当とせられた社である。此社には、小松市に唯一つの能舞臺がある。当主梅林秀順翁の話によれば明治二十八年小松町の有志方のはからひで当時金澤に在ったものを此社へ造営されたものであるが、立柱間もなく日清戦争が起り屋根も葺きあへず工事は中止の情体となり翌年戦争終了後やうやく完成致したもので其間風雨にさらされて舞臺二つ建てたと等しい費用を要したものであるとの事で此舞臺開きは明治二十九年十月十六日十七日両日催された。佐野安彦先生の話によれば先代佐野吉之助先生初め各先生方は中食辨当酒などけいたいの上金澤を未明に出立致され八里の道を徒歩にて小松の舞臺開きへ趣かれ又帰途し同じく此道程を取られたとの御話である。番組中の楽師の内太鼓の筒井氏や小鼓の小槌氏は小松人で筒井氏には今も名器の太鼓が保存されてあると云われて居る。

                          み社の松に聲あり氷室会      潤石

私の社中は毎年此社で氷室会を催す事に致してゐる。以前はほととぎすの聲も聞き得たと云われるが梯川改修の為め其風致も損じて今は其面影を止どめない事も誠に遺憾な一つである。

   舞臺開能楽番組  省略

                                                               以上

 

 因みに先年当社昇格葵に私等が主催して祝賀能を催した際

も梅に因んで鉢木巻絹を出した思い出がある。         (完)」

 

     この文中「当主梅林秀順翁」とあるのは、小松天満宮第9代宮司(在任:明治32年−昭和27年)のことであります。9代宮司は8代宮司とは親戚関係にあり、幼少の頃より後継宮司に目されていたから、能舞台竣工時の事情を熟知していた人であります。ただ、竣工年が明治二十八年とされているのは、魚住氏の聞き間違いか秀順翁の記憶違いであると推察されます。

 この秀順翁の話より、図1の棟札の掲げられた明治27年5月後間もなく日清戦争が始まり、屋根をふくまもなく放置されていた能舞台の工事が再開され、戦後に工事再開となって、結果的に「舞臺二つ建てたと等しい費用を要した」といわれていることは重要なことです。工事再開後に、雨ざらしにあっていた部材の多くは新しいものに取り替えられてほとんど新築同様の能舞台として竣工されたことが伺われます。

     これをふまえると、田中氏や今回の移築を担当した宮大工さんが指摘されたように、当社能舞台に使用されている部材は金澤から移築してきたものばかりでなく、多くの部材は新材にとりかえられて建てられたことが判明します。それゆえ、現存する当社能楽堂本舞台(能舞台)内で、波吉家能舞台を引き継いでいるものは、寸法等の建築様式以外には、鏡板ということになります。おそらく鏡板部分は、放置されている間も何らかの形で保護されていたのではないかと推察されます。

    最後に、現存する当社能舞台の移築完了時に撮影された前景部分を示します。鏡板については、本ブログ平成25年(2013)2月12日号をご覧下さい。

 

 

 

author:bairinnet, category:神社の歴史, 15:50
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本舞台の組立方
 能舞台の移築作業が本格化していますが、それに伴い、日頃 隠れている部分がよく見えるようになりましたので、ここでどのように作られているかを紹介してみます。




当社本舞台は入母屋造りとよばれる形式ですが、上図は本舞台の屋根を正面からみたものです。入母屋の破風のラインの反り(そり)が本屋根の反りよりも深く造られているため、本屋根と反り破風との間に曲線の差が生じます。この差を調節するのが上図で「裏甲(うらこう)」と書かれている部分です。次ぎの図は本屋根の仕組みを示しています。


 

 本屋根のいただきには棟木があります。また、瓦をのせるための造作である「垂木(たるき)」が棟木から渡されていますが、この垂木は本舞台の舞台上からは見えませんが、「野垂木(のだるき)」とよばれます。上図の野垂木の勾配は高い棟木から降りてくるため急勾配ですが、そのラインはまっすぐではなくやや反って(そって)います。そることによって、軒先の屋根との接合が円滑に行えます。
 

本舞台で天井をみあげた時にみえる垂木のことを「化粧垂木」といい、垂木のとりついている棟木を「化粧棟木」といいます。本屋根はこの化粧垂木や化粧棟木を覆うように造られています。


上図は軒先をしめしたものです。伝統建築では、この軒先を如何に大きく出すかに工夫がこらされてきました。本屋根しかない建築(一般住宅など)では、勾配の強い垂木のため雨仕舞いには都合がよい反面、軒先が短くしか出せません。軒先を長く出すために、本屋根の垂木の勾配よりも緩い勾配の垂木で軒先を出す必要があります。本舞台では、化粧垂木よりも上に小屋組が出来ますので、化粧垂木と野垂木の間に大きな空間が出来ます。この空間のところに「桔木(はねぎ)とよばれる太い丸太を入れて、これより軒先をつる工夫がしてあります。



 上図の白丸印は「はね木」から吊すための金具の取り付け穴を示しています。


author:bairinnet, category:神社の歴史, 14:46
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能舞台の来歴明らかになる
 

下図は正面からみた当社能舞台の本舞台です。



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22日の当ブログでは、能舞台の来歴について以下のように紹介しました。

「当社の能舞台は、加賀藩お抱え能役者であった波吉家の能舞台であったものを明治二十九年に、金沢より小松に移築したものです。」

 この説明は、昭和47年に出版された『金沢の能楽』(梶井幸代・蜜田良二著)中において、廃藩置県後の金沢において流行した今様能狂言一座、特に、泉祐三郎一座の使用した舞台についての以下の記述にもとづいています:

 

 「泉祐三郎座の舞台は、もと、波吉家の舞台であったというから、波吉一家が、明治二十年上京したとき移されたものであろうか。。。。。今この今様の舞台は、小松の梯天神社へ移されている。小松では移築の工事半ばで日清戦役がおこり、雨ざらしで放置されたのを修築して明治二十九年舞台開きをしたということである。
(「加越能楽」第4号)」

 

 ところが、この説明に疑問を差し挟む論文もこれまでにありました。昭和623月に公表された『加賀 小松天満宮と梯川』(小松天満宮等専門調査報告書)中の「小松天満宮の建築」(田中俊之著)は当社能舞台について以下のように記しています:

 

 「能舞台の背景の松の壁画は、当時金沢から東京へ移住するために屋敷内の能舞台を取りこわす事にした金沢市の野町の某家の能舞台の壁画を譲り受けたものと伝え、見事な松の絵である。一説には、能舞台ではなくて、芝居興行などに使われたものをそのまま譲り受けて移築した為に、寸法的には通常の能舞台と異なって小さいのであると云われている。しかし、寸法的には舞台間口は三間あり、奥行も十六.五尺に九尺と極く普通の大きさであるので、芝居興行の舞台とは考えられない。。。。又現在桟瓦葺きの屋根の下に杮葺の軒付が残っており、金沢から軒付けを付けたままで運ばれたとは考えにくい。」

として移築説に疑問を提示しています。

 当社能舞台の軒付けが杮葺になっていることは、今回の移築作業過程においてとられた写真中の白丸印により確認することが出来ます。



今回の移築は、数十辰箸いΧ甬離ですから軒付けをつけたままで実施されますが、金沢からの移築となれば、当然、全部バラして移築するし、この軒付けは移築したものではありませんと現場の宮大工さんの見解であります

 

それでは当社発行の書物では、どのように来歴が書かれているのでしょうか。昭和57年に発行の『小松天満宮誌』では、能舞台について以下のように記しています:

 

「能舞台の背景をなす松の壁画の部分は、当時金沢より東京へ移住の為取りこわすこととなった由緒ある能楽堂の壁画を譲り受けただけに実に見事な松の画がかかれている。」

として前述の田中論文と同様の記述をしている。

 

 今回の移築作業の過程で、能舞台建立の棟札が発見されました。



棟札中の「梯神社」とは明治維新後に改名された当社社名であります。それによれば、上棟祭の行われたのは明治27年5月であり、棟札には大工棟梁ら8名、鍛冶、木挽き、屋根方などの職人さんの名前と共に、発起人、会計係の氏名も明記されています。この棟札の書かれた2ヶ月後に日清戦争がおこり、そのため、戦役終息後まで建築作業は中断したことが判明しました。

 

 以上より、当社能舞台の鏡板のみが、加賀藩能役者波吉大夫家から譲りうけたもので、能舞台そのものは、小松の地における拠金により新たに建立されたものであることが明らかになりました。

 

 社務所では、当社能舞台にかんする『金沢の能楽』の記述のもととなった「加越能楽」第4号閲覧を試みましたが、この雑誌は、金沢市立図書館には所蔵なく、石川県立図書館には所蔵するも第4号は欠落していることが判明しました。また、佐野吉之助が明治33年に建立した佐野能楽堂を引き継ぐ石川県立能楽堂に問い合わせましたが、この雑誌は所蔵していないとのことですので、今となっては全く確かめようがありません。

 

author:bairinnet, category:神社の歴史, 16:44
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総合学習で訪れた子ども達からの質問
 昨日には地域の小学校6年生の子ども達5人が総合学習の一環で社務所を訪れました。ゆとり教育見直しで総合学習時間はなくなっていたものと思っていましたが、年間20時間ほどで「地域を知る」活動の一環としてグループごとに課題を考えて聞き取り調査を行っているとのことでした。中には「一人ばたらき」で課題にとりくむ子どもさんもいますが、昨日訪問したのは4人グループで当社について知るグループと一人ばたらきのお子さんの5人でした。4人グループのお子さんの中には近くのお社で巫女舞に奉仕している子ども達も含まれていましたのでお社の行事には親しんでいる子ども達でした。
 これまでもいろいろな子どもさんらしい質問に出会いましたが、今回の質問はかなりするどい、奥行きの深い質問でした。その質問とは「十五重塔は何故十五なのですか?」というものです。下図が当社の十五重塔です。

 
 今回のインタビュー調査の結果は来年1月の発表会にてお話するとのことですから、ここでは社務所なりの回答は控えたいと思います。「社殿の構造はどうなっているのですか?何が特徴なのですか?」、「お社にお参りするお賽銭箱のある場所はなんというのですか?」、何故「文化財があるのですか?」という質問もありました。お賽銭箱があって鈴のついているお参りする場所は「向拝(ごはい)」というとお答えしました。そこはお参りする人々に雨だれがあたらない屋根の構造になっています、当社の屋根は唐破風という中国から学んだ建築様式になっています。現代まで継承されてきている建築様式がいつの時代にどのように生み出されたのかを知るために、その時代時代に代表的な建築物が指定文化財になっているのですよ、とお答えしました。この意味で、今は忘れ去られましたが、先達の方々の物の考え方や生き方を知る上で「何故十五なのですか?」という質問は数千年の歴史を理解するのに大変手がかりになる質問でしたし、こうした自分なりの疑問に答えていく姿勢がお子さん達の学び心を涵養するのに大切なことと思います。小さな山に登った経験があれば、より高い山があることを知りますし、また、小さい山を登り切った自信が次ぎの新たな挑戦の力にもなると思います。



author:bairinnet, category:神社の歴史, 07:50
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社殿の小修理工事を終えて気づくこと
 かねて申請中の社殿床下の補強工事が今年の「指定文化財管理事業」中の小修理として認められて、過日工事が終了しました。下図は床材をうける際根太(きわねた)が腐食していて、束石(つかいし)へのかかり部分が特に腐食している状況を示しています。

腐食はシロアリといった急性のものではなく、かなり前からのもので「キクイムシ」によるものでないかといわれています。当社社殿は昭和38年頃に半解体修理工事が行われていますので、その当時にこうした状態ならば修理がおこなわれていたことでしょう。その後に生じた腐食として考えられるのは、平成4年3月に梯川第二排水機場が完成するまでは、しばしば、隣接する農業用水路からの溢れ水によって社地が浸水していたことです。昭和39年から平成4年までほぼ30年間そうした状況が続いていましたから、その間に生じた腐朽と推定されます。
 さて、文化財建造物の小修理では、出来るだけもとからの材を保存しつつ修理を行うのが鉄則です。この場合も文化庁係官からの指導をうけて修理方法がねられました。まず、腐食した箇所を剥ぎ取ります。下図は2段に剥ぎ取った様子を示しています。

 この剥ぎ取った部分にはぎ木処理をして、それに束を新たにたててささえます。そうして防腐処理をして、修理完了したのが下記の状況です。


 この修理過程で判明したことは、床下に使用されている材は「ヒバ材」であることです。ヒバはカビや雑菌に対する抗菌性があり、よく水湿に耐えることから床材に使用される材ですが、当社の創建に際してもこのヒバ材が使用されていることがわかりました。小修理に使用された材もおなじくヒバ材です。
 当社創建の棟札もヒバ材を使用して、創建の由緒が創健者名(加越能三州使君従三位兼行肥前守菅原朝臣利常)および大工名(入唐自横山喜春十七代山上善右衛門尉嘉廣)共々記されています。床材に大量に使用されたヒバ材ですが、創建当時どのようにして入手したかについて修理を担当した大工さんともどもしばし話題になりましたが、今後の課題です。
 もうひとつわかったことは、境内の浸水はやはり文化財はじめ建造物の耐久性にとって大敵であることです。本ブログ6月2日の記事「内水排除方針と浸水箇所」で説明しましたように、河川改修後の輪中堤内における排水処理が如何に大切かを改めて認識させられます。

author:bairinnet, category:神社の歴史, 06:18
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出開帳時の奉納者を尋ねて

 当社向拝正面に吊されている唐金造六画釣灯籠(下図)は文政二年(1819)の金沢観音院への当社出開帳時に奉納されたものである。

この釣金灯籠は、出開帳時の五月四日(旧暦)に桃と共に奉納されたものであります。当社の祭典には多く桃が神饌として供えられますが、この出開帳時にも桃が合わせて奉納されています。奉納者は加陽金府鍵街醉墨洞社長 高田魯であります。例年この時期になりますとこの奉納者がどこに住んでどういう人なのかが気になっていましたが、今年は金沢市立図書館に出かけて学芸員さんの助けを借りながら調べてみました。
 鍵街とは明治4年に金沢市上新町に編入され、現在は、尾張町二丁目になっている町です。下図は、金沢市図書館叢書(2)「金沢町絵図」より鍵街周辺部分を手書きで表示してみたものです。上が北になっています。「石川県の地名」によれば、金沢城の西内総構堀に接し、新町の分出町のように扱われていました。町筋の屈折が鍵に似ていることから町名がついたとされます。釣金灯籠の奉納された文政2年より8年前の文化8年(1811)当時の家数は21軒、下図のA-Dの住人が判明しています。

A は、御作事棟梁近江屋宗蔵、B は三ケ所御用医師小柳昌意、C は能州奥郡惣代で遠所旅人宿を営む館屋丈助、D が手跡指南高田専悦です。絵図のDには「高田末松」とあり、21軒中には他に高田姓は見当たりません。また手跡指南とは寺子屋の師匠のことであり、Wikipedia「寺子屋」の説明によれば、寺子屋の「子屋」が「こや(小屋)」に通じる点や、「屋」が屋号に通じる事が教育の場の名称にふさわしくないということで、「手跡指南」と呼ばれたといいます。また、鍵街住民の多くが屋号で呼ばれており、屋号の付いていないのは、医師の小柳氏とこの高田末松だけのようですから、この末松が専悦でないかと思われます。寺子屋の師匠さんですから、天神様の出開帳に奉納される方としてはぴったりの方ですが、奉納者の名前は高田 魯であり、職業も醉墨洞社長となっています。醉墨洞とは寺子屋等で使用する筆や墨などの学芸品を扱う店のようですから、Dで示す寺子屋師匠さんともかかわりがある人と推定されます。以上、今年は少しく奉納者の正体に近づけました。


 

author:bairinnet, category:神社の歴史, 13:32
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