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冬至線上の配置発見ゆかりの柳沢良一編著『菅家後集』の公刊の紹介:付記 宮司の思い出

  当社の国指定重要文化財建造物の社殿と神門が冬至の日の出線上に沿って創建されていることが公表されたのは平成18年(2006)、菅公1100年祭斎行の4年後のことでありました。この50年に一度の大祭を迎えるに際して、ご祭神のご事績に理解を深める一助として、平成10年(1998)6月から平成12年末までの2年数か月間、毎月一回、金沢学院大学の柳澤良一氏を講師に迎えて、菅公の漢詩に親しむ会主催の『菅家後集』の講読会が開催されました。

 菅家三代の漢詩集をご覧になった醍醐天皇の御製「右丞相の家集を献るを見る」にはじまり、ご逝去間近の延喜3年(903)正月の作「謫居(たくきょ)の春雪」までの46首の漢詩の講読会でした。毎回、大部の説明資料を準備いただいて懇切に説明していただいた講義でした。

 今回、各詩の各句の詳細な解釈はもとより、詩形と平仄、典拠となった唐詩などや源氏物語、北野縁起等の関連する書物の紹介など、各詩の背景にいたるまで丁寧に説明された柳澤良一編著『菅家後集』が公刊されました(図1参照)。

 

 

    講読会も終わりに近づいた第27回、平成12年10月21日に取り上げられた漢詩は、延喜2年(902)晩秋の作「燈滅(ともしび きゆ)」と題する二つの絶句であり、二つ目の絶句の読み下し文は以下の通り:

 燈滅二絶(二)

  秋天いまだ雪ふらず 地に蛍なし

  燈きえて書(ふみ)をなげうつに 涙 暗におつ

  遷客の悲愁 陰夜に倍す

  冥冥(めいめい)の理(ことわり) 冥冥に訴えんと欲す

 

二句(承句)目の「燈が消えたので 読みさしの書物を投げ打ち、涙が人知れずながれおちる」、四句(結句)の「人には知ってもらえない、この玄遠たる天の道理を、奥深く 遠い天に向かって強く訴えたいと思う」(当時のノート)とあります。

  この漢詩と例年11月25日斎行の当社の新嘗祭特殊神事「お火焚神事」において、ご祭神に忌火をさし上げてお心をおなぐさめする儀式との関連性、それと当社の創建年である明暦3年(1657)11月25日(旧暦)が冬至の日であったことなどから、発見されたのが、創建時に建立の社殿(本殿)と神門が、冬至の日の出線上に沿って配置されているという事実でした。建造物の配置は有形文化財であり、一社に固有の特殊神事は無形文化財であります。この両者がそろって継承されていることが判明したのは、菅公の漢詩の講読会のお陰であります。

 講師を務めていただきました柳澤良一氏による『菅家後集』の公刊を寿ぎ、広く購読されることを祈念して紹介記事といたします。

 

付記:宮司の思い出

 

当社宝物に、元禄13年の版本『菅家文草 六冊』と貞享4年の版本『菅家後草 1冊』の入った箱があります。箱を開けた状態を示したのが図2です。

 

この箱の中に一枚の紙切れが入っています。その一折り目を示したのが図3です。

 

 

藩政期の天満宮別当は、寺院であった梅林院住職でしたが、「住職は時々この文草を謹んで読誦すること。また、後継ぎのものは幼い時より読み書きの教えを受けるべきものなり」と書かれていました。藩政期には、後継者は幼い時より、菅公の漢詩集の教えを受けよとの意味と理解しました。

  近づく菅公1100年祭の迎え方や、河川改修問題などでしばしばご指導していただいていたのは北野天満宮の片桐宮司殿と浅井禰宜殿でしたが、当時の北野天満宮の社報では菅公の漢詩の紹介文を連載していました。また、小松天満宮の文庫には金沢大学の川口久雄先生の当社への贈呈本が収蔵されていました(図4)

 

 

  贈呈の日付が神忌1076年2月とありますから、川口先生が『菅家文草 菅家後集』の第9刷を出版された1973年の数年後に当社に奉納されたものです。しかも、菅公がお亡くなりになられた2月という月にちなんで奉納されています。 

 

 上記の3点を勘案して、菅公がご苦労された、大宰府左遷後の漢詩集『菅家後集』の勉強会を、川口先生のお弟子さんの柳澤良一氏にお願いして開催することになりました。快くお引き受けいただきました柳澤氏へのお礼と、なつかしいご本の出版を祝して、一言、思い出を披露させていただきました。

 

 

 

 

author:bairinnet, category:特徴的な社殿配置, 17:43
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