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「令和」ゆかりの梅の和歌1首と5月5日までの御朱印帳への添え書き

 今を去る1290年前、西暦730年、元号で天平2年、太宰府庁の長官 大伴旅人の館で開かれた新春の宴で詠まれた梅の花の和歌32首の序文からとられましたのが、新元号「令和」であります。同じ時代、同じ情景を生きる人々の多様な心が寄り添い、相和す中から文化の華咲く平和な世が育つという意味をもつ元号といえます。この32首の中から一首のお歌を紹介してみます。

 

 梅の花咲きて散りなば櫻花 つぎて咲くべくなりにてあらずや

 

梅の花が咲いてちっていく するとそれについで桜の花が咲きそうになっているではないか、というお歌であります。

 明治時代から平成時代まで約150年強です。この間、明治憲法下でお三方の天皇陛下、新憲法下でお二方の陛下とさせていただきますと、およそ一代で三十年となります。長い短いの違いがありますが、各ご家庭でも当主は約30年で代替わりとなります。

 この和歌の意味するところは、祖父と同じことを父が繰り返し、父と同じことを孫が繰り返すのではなく、各代の当主がそれぞれの個性や資質を活かしてそれぞれの花をつけながら嗣いでいく、そのような時代になってほしいととれます。これは個々のご家庭だけではなく、会社や文化団体などにもあてはまることといえます

  当社では、白梅をふくめて梅は散りましたが、現在、境内に白藤が満開です。 

 

 

当社を訪れられる観光客の皆さんより、白色の藤の花は珍しいといわれます。

また、大伴旅人の頃の梅は白梅でしたから、新元号が令和になることを予想

して植栽したのですかと尋ねられます。この藤の木は随分前に自然発生的に

生え出たものですから、人為的に植栽したものではありません。植栽するなら、

日本舞踊「藤娘」で有名な紫色の花をつける藤の木を選ぶのでないでしょう

か?

令和の由来となった大伴旅人の時代の白梅が散り、それを嗣ぐように同じ白色の藤の花が新元号発布の頃に満開になることは、令和由来の時代に心を寄せる上で意義深いことであります。それゆえ、当社では、改元の5月1日より子どもの日の5月5日の御朱印帳記帳の際に「白藤満開の時」と添え書きをさせてもらっています。

 

       なお、御朱印の対応は当社の授与所にて午前9時から午後3時まで行っていますが、不定期にてお休みすることがあります。

  ご参詣の折にお立ち寄り下さい。

 

 

 

author:bairinnet, category:四季の景色, 20:49
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令和の御代の門出を祝う記念行事の紹介

 

 本日、新たな時代「令和」の門出をお祝いする二つの行事が斎行されました。

  1. 令和元年5月2日午前10時より11時過ぎまで、当社一円にて「新元号記念消防観閲式」が開催されました。

1)小松大橋上にて消防団19団らによる観閲行進

2)吉田姉妹による祝いの民謡

3)式典(当社対岸の梯川左岸歩道上)

4)水難者の救助訓練(当社南側の梯川において)

   ドローンから浮き輪を落とし,その後、ボートで近づいて救助。

 

 

5)当社輪中堤防上にて小松市内全域の消防団らによる一斉放水

 


 

   (正面から撮影したよい写真が5月3日付け北國新聞朝刊25面に掲載されています)

 

2.文化の華咲く小松「新元号を祝う集い」が、小松城ゆかりの芦城公園内の小松市公会堂で、5月2日午後1時半より午後4時過ぎまで開催されました。そのうちのいくつかを紹介いたします。

1)小松能楽会による能「鶴亀」(宝生流)の上演。

 

古代唐土の宮廷で行われた新春の節会に、皇帝への参賀のために集まった人々や皇帝の前にて、長寿の象徴である鶴と亀に舞を舞わせる様子を示しているのが以下の画像です。鶴と亀を舞うのは次代の能楽を担うお若い方です。

 

   (正面から撮影した良い写真が5月3日付け北陸中日新聞朝刊の10面に掲載)

 

2)コマツ HAPPY MELODY 児童合唱団によるわらべうた5曲の発表。小学生から中学生までの児童合唱団ですが、世界中どこでも歌えるようにとアカペラで全曲をうたいあげました。

 

 

3)小松詩吟協会による創作俳句8句と創作漢詩4首の吟詠。

 

 創作漢詩は小松梅林吟社会員による作詩、創作俳句は小松俳文学協会会員による作句です。詩吟では俳句は陽音階で、漢詩は陰音階で詠いますので、最初に創作俳句がその後に創作漢詩の吟詠がなされました。この令和の時代が、陰陽相和して新たなものを創造していく時代となるようにとの願いをこめての吟詠となりました。

 

 

この外にも、剣詩舞や邦楽舞踊や民謡諸団体による祝い唄や舞、太鼓の調べが披露され、納めに参加全員で「故郷」を合唱して、新元号をお祝いいたしました。

author:bairinnet, category:祭典・行事, 19:18
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春祭りの斉行と元号の話

 天皇陛下が皇后陛下とご結婚されてから60年となることを寿ぎ、小松天満宮春季例祭には、古流柏葉会の奉仕により礼華がお飾りされました。孔雀が羽根を広げているのをイメージして黄金こでまりが生けられ、鮮やかな緑色のルスカスを背景に、孔雀の顔をカラーであらわし、アリストロメリアとカスミ草で彩りを添えています。

 

 

小松天満宮十五社会氏子中や崇敬者よりの志納をおかざりし、小松天満宮ならびに十五社会の役員総代参列して、春季例祭の式典が厳かに斉行されました。式典後に、新元号発表を間近に控えて、元号と菅原道真公との係わりについて社頭講話がありました。

神武天皇から平成天皇まで、125代の天皇陛下がおられますが、元号は、大化の改新の大化から平成まで247の元号が制定されています。天皇の代替わり毎に新元号が制定されるのは通常ですが、それ以外に、南北朝時代に南朝および北朝がそれぞれ元号を制定し、また、吉凶との係わりで新元号が制定されてきました。吉凶の最たる例が「辛酉革命説」です。御祭神の菅原道真公の家系は儒学を家学とする学者の家系で、父も祖父も官僚の養成機関の教授職の文章博士を務め、公卿(参議)の位を受任しました。道真公は藤原摂関家の専横を防ぎたい宇多天皇の信頼を得て、国政を預かる右大臣の高位に昇られました。これに対して、道真公と対立する学派の三善清行は,昌泰3年(西暦900年)11月に道真公に引退勧告をしました。来年、昌泰4年が干支で辛酉年にあたり、辛酉革命説(辛酉の歳には天命が改まる、帝王が変わる、という中国後漢時代の鄭玄らの説)にもとづいて、引退を勧告したのです。道真公としては、帝に謀反の心などあろうはずもなく、若き醍醐天皇を補佐してほしいとの宇多上皇の信任に応えるためにも、この引退勧告を拒否されました。辛酉革命説にも与されなかったといえます。これに対して門閥派は、辛酉革命説の具現化をはかったわけです。道真公の娘さんが、宇多天皇の第三皇子の斉世親王に嫁いでいたため、兄にかわって帝位を奪わんとしているとの讒言を信じられた若き天皇により、太宰府に左遷されてしまいました。左遷後の昌泰4年に、三善清行は辛酉の歳には改元すべきと建議して、昌泰から延喜に改元され、これ以来、明治維新まで一部の例外を除いて、辛酉年には改元されるようになりました。このようなわけで、歴代天皇陛下の数よりも多い247の元号が存在します。

改元に際しては、帝の勅令により大臣より文章博士(もんじょはかせ)と式部大輔(しきぶのたゆう)に元号を出させます。文章博士も式部大輔も共に儒学者ですが、先例や中国古典の出典などを調べて

提案するのですが、採用された元号の提案者のことを勘申者(かんじんしゃ)といいます。勘申者として著名な家系は道真公の子孫の菅原家です。道真公の子孫は、幕末までに、高辻、唐橋、五条、東坊城、清岡、桑原の6家がありました。応仁の乱の開始された1467年の元号は応仁です。これから幕末の慶応まで、400年間に51の元号がありますが、このうち、50個の元号の勘申者を務めたのが菅原家の方です。このように元号と道真公には深いかかわりがあることがわかります。

author:bairinnet, category:祭典・行事, 21:07
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当社一円での新元号記念消防観閲式の開催

天皇陛下の御退位および皇太子殿下の御即位に伴い、新たな元号の誕生することを祝し、小松市消防本部、小松市消防団らの参加により、梯川分水路周辺にて「新元号記念消防観閲式」が開催されます。

 

 

観閲式の内容は、

 式典、観閲式(車両行進、分列行進)、消防訓練、一斉放水

となります。梯川分水路の南側天端に消防車が並んでの一斉放水や、梯川での救助訓練などが予定されています。

 本日、その準備の一環で、車両行進が輪中堤上で斉行されました。

 

author:bairinnet, category:地域振興, 18:44
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参道の梅花咲きそろうも、再びサギの子育て始まる

 

 当社の梅花は戦後しばらくは少なくなっていましたが、小松市の誕生から40周年となる昭和55年(1680)に参道沿いや梅園に献木されました。当初、参道沿いを中心に献木された梅の木は、当社の春祭りの斎行される3月25日に満開になるような樹種を選んで植栽されましたので、その後に補植された梅木も同様な樹種になっているため、参道沿いの梅花は春祭り近くに満開になります。今年の梅園の梅花は豪雪の昨年よりも2週間ほど早かったのですが、参道沿いの梅花は例年通り、春祭り近くに満開となってきました。

 

 

 

 昨年初めて子育てに飛来したアオサギ(2018.6.17ブログ参照)ですが、昨日より昨年と同じ二本の高い松の木の上に巣作りを開始しました。下図はそのうちの一本の様子です。巣作りをしている松の木の下には、沢山の枯れ木の小枝が散乱しています。

 

 

これから6月の巣立ちまで三か月間の居候ですが、ふん害のないことを願う日々が始まります。また、例年のことですが、カラスも昨日より巣作りの準備をし出しました。 子育て中のカラスは気性が荒くなりますから、警戒心をもたれないようにしないといけません。巣から離れた参道を歩む参詣者の方々にはちょっかいを出したりしない限り悪さをしませんが、境内での作業者は掃除の際には巣作りをしている高木の根元に近よらざるを得ませんので、要注意の季節のはじまりです。

 

追記: 松の木の上の2箇所でのサギの子育ては令和元年5月3日に、二箇所の内の一箇所が突然の終焉を迎えました。巣の中の卵が2個 地上に落下していることを5月3日の夕方に確認いたしました。その画像が以下の二つですが、その原因は不明です。落下後、サギの子育ては一箇所のみとなりましたが,今年も巣作りが継続しています。

 

 

author:bairinnet, category:鎮守の森, 20:02
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菅公の七夕の漢詩と史記天官書(つづき):北斗型参道の追加説明2

 

 菅公(菅原道真)が、寛平七年(八九五)七月七日の夜、宮中で開かれた詩宴において宇多天皇の命に応えて詠まれた七夕の漢詩(七言絶句)の説明のつづきです。

 七夕 応製 寛平七年895 従三位権中納言 

 

今夜不容乞巧兼   今夜は乞巧(きっこう)を兼ねることを容されず

唯思万歳聖皇占   ただ思へらくは万歳( まんせい )  聖皇の占ひたまはむことを

明朝大史何來奏   明朝 大史(たいし)何をか来り奏するならむ

更有文星映玉簾   更に文星の玉簾に映(は)ゆること有らむこと

 

 転句と結句の説明は先のブログでいたしました。今夜の詩宴は乞巧の儀式ではないというのが起句の意味です。乞巧とは、七夕の日に月に向かって五色の糸を九つの穴をもつ針に通すことができれば、巧(たくみ)の証明を得たと占った儀式のことです(川口久雄校注『菅家文草 菅家後集』より)。

 本ブログは、帝の長寿を星に祈る転句の典拠の説明です。江戸時代の百科辞典である『和漢三才図会』などを発行している東洋文庫では、魁星像の写しをかいせい御札として頒布しています。東洋文庫ミュージアムMAブログ「かいせいくんにおねがい2」(201512月17日)では、この御札の原図となった書物の画像を掲載しています。この書物は、故事の出典用例を記した書物として江戸時代によく利用された『書言故事大全』という書物です。この書物は石川県立図書館でも閲覧できますが、魁星像の上方に三つの星が描かれていて織姫をあらわしています。これは、魁星の誕生日が七夕の日といわれていることから、織姫(三星文)が描かれているといわれます。

 『菅家文草 菅家後集』も引用している『史記』の天官書は、「織女星は天帝の女孫である」と記しています。史記の注釈本である『史記正義』には「織女三星は天の川の北、天紀の東にあり天女なり・・・・占いに、王者神明に至孝ならば、すなわち三星ともにあきらかなり」と記されています。また、旧暦七夕の頃に南の空には、天の川の傍らに南斗六星があり、「三国志」に出てくる魏の国の占い師の管輅(かんろ)の話にあるように、南斗六星は「人間の寿命をつかさどる」といわれます。これらをふまえて、川口久雄校注『菅家文草 菅家後集』では、この承句に「ただひとえに聖天子に万歳の寿がさずけられますようにと星辰に祈って、その星の光に占いをかけるばかりである」と注記している。このように、承句は、帝の長寿をお祈りする内容になっています。

 

author:bairinnet, category:宗教的建造物のシンボリズム, 19:39
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菅公の七夕の漢詩と史記の天官書: 北斗型参道の追加説明

 『日本大百科全書4』には、魁星(文昌星)について以下のように説明しています: 「北斗七星中の第一星、ないしは第一星から第四星までの名。。。魁星は、文星または文昌星(ぶんしょうせい)ともいわれて文運をつかさどる星とみなされ、後世とくに科挙試験の受験生により信奉された。。。(伊藤清司)」。科挙試験が定着する中国南宋王朝以降、学問・文芸の神としての魁星・文昌星信仰が知識人の間で盛んになりますが、わが国への伝来に関する社務所調査に10年以上の時間がかかってしまいました。

 わが国の文芸作品で、文昌星(文星)を詠んだ作品に、菅公(菅原道真)が、寛平七年(八九五)七月七日の夜、宮中で開かれた詩宴において宇多天皇の命に応えて詠まれた七夕の漢詩(七言絶句)があります。

 七夕 応製 寛平七年895 従三位権中納言  

今夜不容乞巧兼   今夜は乞巧(きっこう)を兼ねることを容されず

唯思万歳聖皇占   ただ思へらくは万歳( まんせい )  聖皇の占ひたまはむことを

明朝大史何來奏   明朝 大史(たいし)何をか来り奏するならむ

更有文星映玉簾   更に文星の玉簾に映(は)ゆること有らむこと

この漢詩のよまれた平安時代には、彦星と織姫星の出会う七夕の翌朝に、大史陰陽寮のトップ)が、天文現象にもとづいて天皇に奏上する「天文密奏(てんもんみっそう)」が行われていました。菅公の漢詩の転句は、七夕の翌日にどのようなことを奏上するのであろうか、と詠い、結句は、菅公の望まれる奏上内容です: 

「文運を司る「文昌星」が玉座の御簾に映えて、明光をはなって見え隠れしていると奏上して、一層の文運のさかえを占いだすであろう(川口久雄校注『菅家文草』を参照)」。

 菅公の漢詩は文運を司る文昌星の加護をえて、帝の治世に文運の栄えのあらんことを願う詩となっていますが、魁星のことにはふれられていません。ただ、玉座の御簾をよまれていることと、それが皇居の奥まった場所にあることを思うと、文昌星=魁星、ないしは、文昌星が魁星の近くにあることを理解しての作詞のようにも思えます。

 北斗七星や魁星、文昌星のことが出てくるのは前漢の司馬遷による『史記』の天官書です。また、この史記の三大注釈書といわれるのが、古いものから順に、中国の南北朝時代の宋王朝(420−479)の裴駰により書かれた『史記集解(しきしっかい)』、唐の司馬貞(679−732)による『史記索隠』。最も新しいのが 唐の開元24年(736)に成立の『史記正義』です。

社務所ではこれら三大注釈本の閲覧を重ねてきましたが、このうち最も古い史記集解の南宋時代の公刊本『宋刊本史記集解』は大阪市の武田科学振興財団所蔵で国宝に指定されています。下記は、武田科学振興財団の入っているビルとビルの正面玄関の写真です。

 

 

 

ただ、残念なことに国宝本には天官書の部分が欠けていましたが、同じ南宋の紹興10年(1140)刊行の『史記集解』130巻の中の天官書を閲覧できました。

 司馬遷の『史記』天官書には、魁星とは北斗七星の第一星から第四星、「北斗の魁星をいただいて、これを助ける六つの星を文昌星という」と記され、文昌星は北斗七星のすぐ近くにあるとみなされていました。三大注釈書の中で最も新しい、唐の開元24年(736)に成立の『史記正義』には、「魁(魁星)は斗(北斗)の第一星」と明記しています。史記正義の出版年は菅公の生誕はるか前ですから、菅公の時代には、文昌星が北斗の第一星(魁星)を照らすという理解があり、これをうけての菅公漢詩の結句であることがわかります。

author:bairinnet, category:宗教的建造物のシンボリズム, 20:19
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北斗型参道の説明版設置さる

 梯川分水路完成にともない、インフラツーリズムで当社周辺地域を訪れる方々も増えていることから、当社では境内案内板の増設をはかることとしています。昨年の宝物館公開で資料展示した北斗型参道についての説明版を鳥居脇に設置しました。

 

 「宗教的建造物は、御祭神に祈りをささげるのに相応しい聖なる空間を創造せんとする人の試みの具現化したものである」(Vilas Bakde)といわれます。その例が冬至の日の出線上への神門・本殿配置であり、当社と小松城との係わりの図解を含めての説明版は十五重塔西側に設置しています。今回設置の説明版は、もう一つの例であります北斗型参道、とりわけ、七夕の日の出線に沿っての東参道敷設に籠められた創健者の願いについての説明版であります。当社境内参詣の折にご覧いただければ幸いです。

author:bairinnet, category:特徴的な社殿配置, 19:50
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白梅咲き始めるも昨年より2週間ほど早い

 白梅が咲き始めましたが、豪雪に見舞われた昨年と比べて2週間ほど早くなっています。本日の雨中にとった神門手前の白梅の開花状況です:

 

 

昨年は女優の壇蜜さんがロケで来社の3月20日にはこの場所の白梅は満開になっていましたので、今年の満開は10日ほど早くなるのでないでしょうか。

梅園の紅梅は咲きそろってきました。昨年は3月17日頃から梅園の紅梅は見頃を迎えていましたので、今年は10ほど早まるようです。

 

 

author:bairinnet, category:四季の景色, 07:53
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宗祇「角田川」の能順写本(貞享3年)の新発見

 応仁の乱勃発後の文正2(1467)弥生3月に関東下行中の宗祇が、連歌に関する質問に答える形で著した文書に「角田川」(吾妻問答)があります。これの能順写本が、長年にわたり当社の連歌文書を調査・研究している筑波大学の綿抜豊昭氏により当社蔵の連歌文書から新たに発見されました。次の画像は、能順写本の表紙ですが、外題は浅井政右によるものです。

 

 

 当社創健者の前田利常公により初代別当(宮司)に任ぜられた松雲庵能順は29歳から宝永3年(1706)に79歳でなくなるまで、およそ50年間にわたり当社と北野天満宮を兼職し、京都と加賀との文化交流に貢献されましたが、特記すべきは,加賀の地において多くの文化人を育て上げたことでした。能順が活躍した16世紀後半から17世紀にかけての連歌の達人は浅井政右(加賀藩士)、能順、快全(商人から天台宗僧侶)の3名(『三州奇談』)といわれますが、政右も快全も能順さんのお弟子さんです。この二人以外にも芭蕉の小松来訪とのかかわりでよく出てくる越前屋歓生や生駒万子もやはり能順さんのお弟子さんです。

 今般、新発見の能順写本は、後年加賀藩家老を務めた今枝直方の求めに応じて、初心者に連歌の作法を教示した「角田川」を、貞享3年(1686)に能順が写本し、その外題を浅井政右が揮毫したものです。また、「角田川」の成立年については文正2年(1467)と文明2年(1470)の2説がありますが、本写本は文正2年のものです。以下は、これらのことを示す跋文箇所の画像です。なお、今枝直方の義父 今枝近義は、能順と交流がありました。その最たる例は、近義は金沢から、能順は小松から、それぞれ中間地点の松任に出向いて、能順より源氏物語の講説を聞き終えたことです。

 

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外題を書いた浅井政右と小松とのかかわりで思い出されるのは、連歌会にはお香を絶やさないにかかわる逸話です。綿抜豊昭著『連歌とは何か』より引用して紹介します:

小松の絹屋大原屋某と申す者、絹商いに京師にのぼり、北野信仰にて一昼夜通夜し侍るに、夢となく現つとなく夜半に、天神のお帰りとて社壇俄かに賑はひ。。。仭(さて、思い当たった時に発する言葉)今宵は金沢 浅井政右方に連歌有り、その中に 「朧々と鏡ぞ聞ゆる」 という句に 「老ぬれば耳さへもとの我ならで」 という句あり。面白く今少し聞きたく侍れど香絶えぬ。依りて帰りたりと仰て社壇に入給ひぬと見て、夢さめたり。その後 加賀に帰って政右に尋ねたところ、当日の連歌会の句に夢に出てきた句があるとのことで委細を政右に話したという。それ以後、連歌席には香絶ぬように心得べきと申し合わせたり、という逸話であります。

政右と共に能順の連歌の高弟であった快全についても同様の逸話が紹介されているので、関心の各位は前掲書をご覧ください。

なお、跋文中にある依頼主の「戸部直方」ですが、今枝直方は民部とも称しました。民部の唐名が「戸部」(こぶ)であり、これより今枝直方と判明したものです。このことは、本件を取材した新聞記者の方が金沢市の玉川図書館近世史料館の学芸員の方より教示されたものです。

author:bairinnet, category:宝物紹介, 05:00
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